ベルベル人のようにジブラルタル海峡を渡る

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2/22(土)::22:30成田発。

数日前に前代未聞という大雪が降った。QnSとオレのモロッコ、スペイン旅行もその出発を危ぶまれたが、なんとか行けそうだ。

そうは言っても、成田までゆく高速バスはすでに出発二時間おくれで、飛行機がたつ2230の二時間まえまでに着ける保証はないという。なんなら電車で行ってくれといわれてしまった。それでも運を天にまかせて、韮崎から成田行の高速バスに乗り込んだのだった。

結果は2000頃に着けて、アリコが成田に転送しておいてくれた。


2/23(日)::モロッコ入り

成田を発ってトルコのイスタンブルで乗継ぎアフリカはモロッコの『ムハンマド5世国際空港=カサブランカ空港』に着いた。そこから専用車に乗ってタンジールのホテル『Morvenpick Tangeer』に着くまで成田をたってから30時間である。時差もあるし、もうヒゲがうっすらと伸び、疲れ切って、何だか体はぐちゃぐちゃだ。気だけが張っている。

カサブランカ空港に着いて、そこから一気にジブラルタル海峡に面したタンジールに向かうのだが、この辺はトラベルコンシェルジュのアリコが「専用車によるガイドつき二泊三日のモロッコパック旅行」というものをつくってくれた。従って、もうすべて「おまかせ」である。ただし、ガイドは英語ガイドで、その名はアブドゥラ。絵の左側に見えている影は運転手のムスタファだ。左ハンドル車の右側通行だから運転手は左側にいる。

日本人ガイドでの見積もりもしてもらったが、それは目の玉が・・・飛び出る。というわけで、これからモロッコの大西洋に並行して走るA3、A1を通ってタンジールまで一気に行ってしまう。その距離300kmちょっと(地図赤線部)。見積もり時間は6時間。いま1500だからホテルに着くのが1500+600=2100くらいとみる。でも、実際には4時間でついた。1900ころホテル着。

道々、アブドゥラにいろいろと訊いた。

①::アブドゥラにできる外国語は英語とフランス語とスペイン語。英語は学校で習い、フランス語は第二外国語として習った。隣国がスペインなのでスペイン語はなんとなくできるようになった、ということだった。
②::母語はモロッコ仕様のアラビア語アンミーヤ(=地域アラビア語)。
③::趣味は旅行で、スペインが一番好き。
④::歳は61。
⑤::家族。聞きそびれた・・・。

⑥::性格。いいか悪いか不明。

だいたい、ものの良い悪いをいうときの善悪の基準というものは、それを言う者にセットされた、その時代その場所のイデオロギーの中心部分だから、それをもって他文化の中で暮らすアブドゥラの性格の善し悪しを言うというのも不遜ではあるだろう。オレはけっこう、こういうところ謙虚なんだ。

「そこに見えている、模様のある自動車はなんなの?」

と訊くオレ。

「ラリー車だよ。全部フランスから来てる。車はルノーの古いやばかりさ。このラリーの最終地がモロッコなんだ。有名なラリーだよ」

というわけで、上の絵に見えている、そんな自動車がタンジールへの交通の間中、いつもそのへんに途絶えることなくいるのだった。モロッコはかつてフランスの植民地だった。

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意外かもしれない。オレも意外だった。そのモロッコは不毛の砂漠の国ではなく緑の農業国なのだ。

高速道路A3を走っているところです。地平線の向こうは大西洋です。そこに陽が沈んでいきます。その下に光っっているのは何だと思いますか。プラスチックフィルムハウス(=日本でいう「ビニールハウス」)ね。それ、バナナの栽培ハウスなんだって。延々とそれがつづく。

そこに見えているのはバナナハウスだが、しばらく行くとこんどはそれよりかなり小ぶりなハウスになって、それはぜんぶイチゴハウスとなる。スイカやメロンの路地畑もある。

そして、そういうハウスとか野菜畑でないところは、全部牧草地。車窓から見えた家畜はウマ、ウシ、ヒツジ、ロバ。ニワトリは見えなかったなあ・・・。それにしたって、鶏肉も鶏卵もあるんだから、どこかに養鶏場もあるのだろう。

そこでつくられた農産物は多く欧州へ輸出されているのだという。というわけで、モロッコは農業国。

その農園は大きいので、そうなるとそれなりの資本が入っての農業だろうと想像して、誰がその農園で働いているのか訊いてみた。つまり、資本家対農業労働者っていう図式を思って、誰が働いているのかと訊いてみた。

「そのむこうの畑の中に村があって、そこにすんでいます」
「その農地は誰のものなんですか?」
「その農民たちのものです」

「資本家対農業労働者」図式での説明を避けようとするアブドゥラなのだった。そんなハズはないんだってオレは思っているが、そう説明されてしまうと、それ以上訊けなくなる。だって、ね。その牧草地の中には独特の衣装をきた、たぶんジプシーと思われる集団を散見したし、スペインに渡ってからは、オリーブ農園での収穫労働者はモロッコ人やアフリカ中央部からの黒人だって話もきいたから、モロッコでは尚更だろうと思う。

その牧草地の中に点々と人家がある。見る限りみんなセルフビルドな様子だ。そして、そんな原野が大都市、たとえば、カサブランカ、ラバト、ケニトラ、タンジールなどに近づくと、こんどは新築のアパート団地群が続々と建設されているのが見てとれる。

「町がどんどん大きくなってきています。大きくなりすぎています。喧しくて忙しくて、とても住みづらくなってきました。歓迎できません。そんなところに自動車で入りでもしたら身動きできませんです」とアブドゥラが説明する。

そういえば、日本もかつてそんなことがあった。それを都市のスプロール化といって、みんな心配していたことだったが、いつのまに話は立ち消えになって、いまや人口減少社会になり、地価は下落気味だ。モロッコはいまそれを追っているって感じ。

その専用車に乗って、アブドゥラからすぐ渡された日本語の文書が、モロッコ事情をよく伝えていると思うので、全文を引用して下記にご紹介しておきます。

『モロッコはチップ制の国で、大抵のことにチップが必要になってまいります。下記に大体の目安を記載しておきますので、参考になれば幸いです。

①::ホテル~空港間の送迎、または空港~ホテル間の送迎=10USD(=1000¥)
②::ホテル~駅間の送迎、または駅~ホテル間の送迎=10USD(=1000¥)
③::最初から最後まで一緒のガイド及びドライバー(スルーサービス)=20~25USD(=2000~2500¥)
④::半日市内観光ガイド(英語、フランス語)=15~20USD(=1500~2000¥)
⑤::終日の市内観光ガイド(英語、フランス語)=20~25USD(2000~2500¥)

また、上記の他にも滞在中にチップが必要になりますので、下記を目安にお支払いをお願いします。

⑥::トイレチップ=1~2DH(ディラハム、1ディラハムは10¥の感じ)
⑦::枕銭=お一人様一回分約10DH。お二人の部屋の場合は倍額を目安にお支払いください。
⑧::タクシー=基本的にメーターで乗れた場合は不要です。ただしマラケシなどの観光地では、タクシーは交渉でしか乗れませんので、その場合もチップは不要です。
⑨::レストラン=飲食代の約10%を目安にお支払い頂きます。
⑩::フナ広場の大道芸人=5~10DHを目安にお支払いください。(写真を取る相手にお金を見せてから、写真をお取り頂くと問題が少ないです。)
⑪::屋台などで食事をした場合=フナ広場などでは基本チップは不要です。
⑫::お店などのトイレ=買い物をした店や、ガイドがツアー中にご案内する店では通常はトイレチップは不要です。』

みなさん、いかがでしょうか。めんどくさいでしょう。でも、モロッコってどんな国かと訊かれて、これ以上よくモロッコを言い当てている言葉はないように思えます。

そういうことなんです。それで、この事情を知らずにモロッコ入りした場合、チョット危険で、そのチップを払わなかったということで「殴られたりして」酷い目にあう個人観光客もいるようです。ツアーの場合はそういうことがレクチャーされるだろうし、添乗員もいることなのでその心配はだいぶ軽減されるとは思いますが。

それは、結局のところ、自分の価値観を相手側に押し付けていることのいけなさなのだと思います。別筋だが似たようなことは日本と中国、日本と韓国の間で歴史認識の違いが問題にされることにも出ています。

そういえば、運転手のムスタファもガイドのアブドゥラもいつも小銭を用意していて、手を出されるたびにチップを渡していました。いえ、手など出される前から何やらの視線を感じると渡していたようです。

そういうチップが何に対して支払われるかというと「やってくれた仕事」に対してです。そして、その仕事は、こちらが「頼みもしない」仕事なのです。たとえば、海辺の駐車場の入り口に犬を連れた青年が座り込んでいる。車が入ってくる分には何事もないのだが、出てゆく時にその青年は立ち上がってそこに立つ。すると運転手のムスタファは運転席のコインボックスにある小銭をとって手渡すのです。そうした「仕事」はどこでも発生します。エレベータのボタンを押すこと。自動車の誘導をすること。にっこり笑って写真を撮らせること。ちょっとした荷物を運ぶこと。傍にきて声をかけること。みんな「仕事」。頼まれてはいないが「仕事」で、チップが払われる。

このことについて、ウチの隣人のアキヒが面白いことを言います。アキヒはオレなど及びもつかない「旅人(たびにん)」で、よくそのへん(アメリカ、インド、ベトナム、韓国、・・・、日本各地その辺)へ旅行します。

「ボクの場合は貧乏旅行なので、そういう人が取り付いてこないです。身なり、服装、人相などがどうみてもチップを欲しがる側の人だからと思います。泊まるホテルだって安宿だし。それで、だいたいそういう人たちと仲良くなって、お互いに生きてゆく苦楽を共有したりするんです。それで、一緒に笑うんです」

オレの旅行など「ブルジュア旅行だ」と言ってアキヒはオレを嗤います。どうしたものでしょうか。そういう旅行にちょっと嫉妬を感じるのですが、この嫉妬を精神分析してもらいたいオレです。あ~あ!

TVのモロッコ旅行番組などを見ているかぎり上記のことは一切伝えられていません。ですが、それはTVの旅行番組なのであって、その番組はそれを必要とするスポンサーの要求を第一に入れるでしょうし、それをつくる制作会社はその要求を満たすことによってしか収入がないでしょうし、それを放送する放送局も同様。そうして、その番組はわたしたちにスポンサーの意図をもって「見せられる」のです。見せるのはスポンサーの意図を実現するためでしょう。「真実は隠される」わけですから、その意図は隠されて番組は作られるということだ。そこに酷い目にあっている様子や殴られている様子などは不要を通り越して邪魔だから出てこないのだとおもいます。

番組には見えていないが、その番組を作るために多くのチップが支払われて、そうして作られたと思ったほうがリアリテをよく捉えているはずです。このことではTV番組は「百聞は一見にしかず」では、ない。

左の絵はその日の夕食。

「ホテルの周りに何かレストランはあるの?」
「ないです。ホテルの中にモロッコ料理のレストランとコンチネンタル風のレストランがあります。それをご利用ください」

つまり、ホテル モーベンヴィック タンジールは、タンジールの市街からはかなり離れた海辺のホテルなのでした。レストランの開店は2000から。1900にホテルに着いてちっと身を緩めて2000にレストランに。もちろん、モロッコ料理の方の店へはいりましたよ。

メニュー::ミネラル水+赤ワイン+ミックスグリル+子羊のタジン+クスクス。平べったいパンとオリブが「お通し」の感じでついてきます。

で夕食をしました。このレストランには舞台があって、キーボード1+バイオリン1+歌手1で、歌手はベリーダンスのダンサーも兼ねて、席までやってきて一緒に踊るよう誘います。

先にチップのことをいいましたが、この楽団の一人一人にもチップは必要のようです。それは、先客が帰り際に、舞台にまで出ていって、一人づつと握手をしながら、なにやら褒めたたえてチップを渡しているのをみて、そうだと知りました。オレもその先客のまねをして、同じようにしたです。一人あたり20DH(=200¥相当)。同額を給仕の二人の青年にも。給仕は帰り際に、

「あしたはあなた方にもっとピッタリの料理をお勧めできると思うから、ぜひ来てくれ!」

と誘われました。

上に見えている絵は明るいですが、実際は非常に暗く、何がなんだか分からないほどです。絵はPCで明るくしました。手前がクスクス、向こうがタジン。ミックスグリルはワインをうまく飲むために頼んだ皿で、もう食ってしまって、下げてもらっています。この三皿で二人では全部を食いきれない量がありました。

「アタイさあ、タジンがこんなに味わい深く美味しいものだなんて、思ってもいなかったヨ!」

その夜はよく眠りました。明け方、まだ薄暗いころ、アッラーアクバール(=神は偉大なり)のアザーン(=礼拝呼びかけ)で目が覚めたのは、イスラムの国の旅情でした。


 

2/24(月)メディナの衝撃

外は雨だ。そこに見えている海は地中海。10時にアブドゥラがタンジール観光に連れて行ってくれる約束で迎えにくるはずだ。

2/24 ジブラルタル海峡と言えば、その西側が大西洋で東側が地中海である。この二つの海が出会うアフリカ側の場所がこの Cap Spartel だ。絵はその地に立った瞬間の猿吉で、猿吉は感動一頻りなのだった。

15歳と言えば、少年が高校生になる年頃である。オレはいま65だから、その15を65から引けば65-15=50。ごじゅうねん!

この世に世界地図というものがあるのを知ったのは、たぶん小学生くらいのときだったろう。その小学生は高校生よりもかなり若い。カレがその地図の上にジブラルタル海峡というものを識別したのが何時だったかの覚えはないが、そのことが気になり始めて50年以上の年月が経過していたということだ。

「地図」と「現実」というものの関係も気がかりな厄介事である。そういうものが気になりはじめたのは、たぶん青年期の入り口あたりだったろう。それは少年には決して訪れない問題だとおもう。そして、その地図をたよりに50年以上の歳月をかけて、いま現実のその場所に立った。

で、地図と現実の関係について何がオレに分かったのか。なんだかハッキリしない。はっきりしていることは、地図を頼りにこの場所に辿りついたということくらいのことである。

そして、その地図とは、今のオレにとっては、他者の「視線」の一つなのだということである。人は他者の視線に導かれて(または誘われて)しか生きられないのだという結論は「地図」と「現実」の関係とは別にオレがいま持っている結論だ。

注:: 上の絵の標識の下側はローマ字表記なのでなんとか読める(とおもう)。ポルトガル語ではないかと推察する。

問題は上のアラビア語の方だ。

文字としては右から左に読んで、ラー・アリフ・スィーン/スィーン・バー・アリフ/ラー・ター・ヤー・ラームだろう。が、一般にアラビア語では母音を表記しないので、どんな音として読めるのか見当がつかない。それほど「お題目性(=仲間うち性)」が強いのである。漢字の「海」から[umi]という音を得るには、海という字を[umi]と既に読めるようになっていなければその音が得られないのと似ている。とは言っても、上記の子音を持つ単語なのだから、音の示唆性は漢字よりは強い。Cap Spartel  が CΦp SpΦrtΦl と表記されていて、Φにどんな母音を入れるかは知っている人だけが知っているようなものだと思っていただければいいだろう。

”ラース スゥィバー ラタヤーラ” くらいのデタラメ読みしかできない。母音を[a]ばかりで読むとこんな感じなのだ。

アラビア語は日本語と同じく、その習得困難性第三類(=最高に難しいの類)に入る難物である。しかし、それも、母語として身につけてしまえば自分の本性のように全く自然なことだ。そして、日本語の習得困難性はアラビア語の比ではないというのがオレの意見だ。それがオレの母語=日本語なのである。70億人の地球人口のうちの1億人ほどがこの言葉を母語として、世界の東の果ての島国で、そこに意味を載せて互いに強く閉鎖的に交換しあっている。それが日本という国家の言語からみた特性である。

日本語は「お題目性(=仲間うち性)」の極めて強い言葉である。もし国家同士が野球とかサッカーとかバレーボールとかのスポーツのように、その勝ち負けを競って、勝った国家に利得が多くもたらされ、その国民にその利得からのトリクルダウンが多く配分されるというのなら、この日本語特性を大いに利用しない手はない。現代のリンガフランカ(=世界共用語)としての英語は大いに勉強しておいて、外国での「攻め」の場面にだけ使い、国内的には英語で話しかけられても知っていても知らないそぶりで「はあ?」とか言いながら、アホ面して、しらばっくれているのがいいだろう。社内公用語が英語だなんて、この見方からは有り得ないことだ。日本語の閉鎖性のアドバンテージは大いに利用すべきだ。それは目に見えぬ強固な城壁である。

こんな旅行に出ると、そんなことをしきりに思う。

タンジールに二泊三日した。二日目の、さっき、タンジールの町を英語ガイドのアブドゥーラに連れられて専用車に乗ってざっと一回りしたのだ。

その一回りのなかに、さきほどの Cap Spartel があった。

専用車の運転手の名はムスタファだ。この二人は客のオレとQnSのことなどそっちのけで、いつも二人で喋っている。二人ともモロッコ人といっていた。それも、アラビア語のアンミーヤ(=地域アラビア語)で話しているので何をいっているのかはサッパリわからない。聞きたいことがあったらこちらからどんどん英語でアブドゥラに話しかけて訊かないといけない。ムスタファは英語はできない。

上の二枚の絵は、オレが観光用のラクダに乗っているところと、アブドゥラに連れられて魚市場を見学しているところ。市場の中は魚屋だけではなく八百屋も香辛料屋も雑貨屋も肉屋も・・・まあ、なんでもある。そして、そこで売られているものにはむろん「値札」がつけられている。

そこでQnSはイチゴを1kg買った。値段は10€ほど。イチゴはよく洗ってから食うようにアブドゥラに言われる。味は・・・なんというか、ダイコンみたいでかなり戸惑う。見場はとってもいいんだけど。

商品に「値段」がつけられている、なんて変な言い方だと思いませんか。付けられているのが当たり前だし。魚市場の見学を終えて、次にメディナ(=Medina=旧市街)のなかに入るのですが、実は、そこで売られている商品には一切「値札」というものがついていない。そして。オレは、そのメディナの中で、冷や汗ものの「買い物」をすることになる。つまり「罠」にハマるのです。その買い物の値段は300€(300*141=43,200¥)ほど。

右の絵がそのメディナの様子です。つるされている商品に値札は一切ありません。店の前を通るとすぐ声をかけられます。

「ちょっと見ていきませんか! いいものが出来ていますよ! みるだけ見て損はありません!」

くらいの愛想のいい笑い声だ。

以下はガイドのアブドゥラの説明です。

「メディナの中ではいろいろな工芸品がすべてハンドメイドで作られています。民族衣装、革製品、貴金属製品、置物などです。全部本物です。外で売られている中国製の安物とはちがいます。ここでは品に値札はついていません。店の人との交渉で値がきまります。・・・。ここは、モロッコですよ! モロッコといえば、モロッコ絨緞じゃあないですか! そのすばらしさを一目みていただきたい! ぜひ、ごらんに入れたい店があります。店といっても、それは美術館のようです。ワタシはそこをぜひアナタにご覧にいれたい! どうぞ、ご案内いたします! ご覧になってください!」

ね。 これ、なんか怪しいでしょう。でも、オレさあ、これからオレがその美術館みたいな絨毯屋(=というか、骨董とか陶器とか貴金属なんかも飾ってあってとても大きく、ホントに美術館のようではあったのですが)で43,200¥相当の小さなモロッコ絨毯を買うはめになるとは思っていなかった。だいたい「絨緞」なんて大ッ嫌いだし・・・。

「モロッコ全体では何千もの絨毯の織り手がいます。織り手は全て女性です。その絨毯を世界中に輸出することで、その女性たちの生活が成り立っています」

とアブドゥラ。そこへ、なんだか英語のよくできるモロッコ人のおじさんが登場してきて、見学しているオレたちににこやかに笑いながら付き添う。この「美術館」の番頭みたいな感じ。ダブッとした民族衣装をきている。ここでアブドゥラは脇に退いて、このおじさんが説明をはじめる。

「どうです! すばらしいでしょう!」

確かにすごい。こんな絨緞しいて、誰がどんな生活するんだ。

「モロッコ人なら、みんな居間にも寝室にも敷いていますよ。それも先祖代々から子々孫々に伝えるものです。それがモロッコ絨毯です。ほら、これなんか、きのう、アメリカのお客さんが気に入ってお買い上げで、これから航空便で送ります」

と、丸めて荷造りしてある絨毯を指差す。いったい、これ、いくらぐらいするんだろう、なんて疑問がわく。

「いえ、いえ。小さな物もございます。なにはともあれ、そのすばらしいさをご覧に入れたい!」

と番頭が言った瞬間、若い二人の男が小さな絨毯を床に5,6枚、サッと並べる。それが下の絵だ。左にちょっと脚が見えているのがその番頭。

「ほら、ご覧になって下さい! こちらから見るのと、そちらから見るのとでは色あいが違うでしょう! 手触りもお確かめ下さい! これは絹の絨緞なんです! お子やお孫の代まで、宝ものとしてお伝え願えます!」

アブドゥラが脇からちょっかいを出す。

「染料はすべて自然のもので、化学染料は一切つかっていないんです」

そして、すぐまた脇に引っ込んで、ベンチにかけてこちらを見ている。なんだか、こりゃあマズイぞとオレは思う。QnSの顔は歪んでいる。Qが「要りませんよ!」と小声で言っている。

「こんなので、いくらするんですか?」

と、オレはいちばん小さいのを指さして、つい訊いてしまった。番頭はここぞとばかり計算機を出し660€(93,060¥)を示す。QnSの顔がまた歪む。「要らない」。買いでもしたら、Qは本気で離婚をいいはじめる可能性がある。この歳になって離婚はキツイ。

そこからオレは本気で断りにかかる。そんなものゼッタイいらない。

あれこれ理由をつけ、要らない理由を15個ほど並べ立てたのだが、すべてその番頭に論破されてしまった。そうやって本気で断った結果、660が300にまで落ちて、オレは何だか呆然としてその絨毯を買ってしまっていた。その絨毯がウチに必要なもののようになっていた。

たしかにオレの欲望はオレ(という自我=わたし)にその起源を持たない。その番頭に起源がある。いや。番頭を中心にしたこの状況に起源がある。つい変なことに感心してしまう。

支払いはカード。VISAカードならいざしらず、出したのはJCBカードだから、もしかするとそれでは決済できない可能性もある。その可能性にもちょっと期待したが、すんなり支払いはできてしまった。

モロッコ人なんてだいたいみんな英語はできないし(フランス語はよくできます!)、JCBカードなんて海外では使い勝手が悪いしするのに、こういうところには英語の達人みたいな番頭が出てきて、JCBがすんなり使えてしまう。

こんなの、ぜんぶ罠だとは思うのだが、この結果にそう悪い気もしないというのが不思議なのである。Qだって、「ものはいいものよ! 大事に使いましょうよ」 なんていって、先ほどの離婚の危機を孕んだような顔の引き攣りはなくなって、笑っているのである。

不思議な買い物経験だった。

こりゃ、ベルベル人(=アラビア人)手強いぞ。・・・ベルベル人が手ごわいというより、この全体は「~~商法」に属するだろうが、本気で断りにかかって、そうなったのだから仕方がない。オレの負け。

こんどあなたがウチを訪ねて来た時には、この絨毯をそのへんに敷いてご覧に入れます。まだ荷解きはしていませんけど。あ~あ。

それでも一言付け加えると、個人旅行を組み立てて、その手配をして仕事にしている旅行会社としては、その旅行の中にこれが組み込まれているというのは必ずしも会社の利得にならないだろう。評判を落とす可能性はかなり高い。世間知らずの若い女の子なんかだったら泣き出してしまうかもしれないし、新婚旅行の若夫婦なんかにもこれはキツイだろう。ウチは結果OKだが、冷や汗ものではあった。

つまり、状況としては、ロッククライミングをしていて、上のガイドにロープを確保してもらっている時に、ガイドが「あれ~、なんだか1,500¥足りねえぞ。あると子供に蛇のおもちゃ買ってやれるんだけどなあ・・・。おたく、1,500¥持っていたら、ちょっと貸してくれねえかな」とかいわれるようなものである。それを持っていりゃあ、そりゃあ貸すでしょうよ。なにしろ命綱を握られているんだから。ガイドの機嫌をそこねりゃあ・・・ってわけだ。これが、この状況の本質だ。そのことを「罠」と言った。We were caught a trap! But the trap was very interesting!

そのメディナの中の岬から。目の前にスペインはアンダルシアのタリファ岬が見えているのか? 泳いで向こうまで行けそうだ。たぶん、違うとおもう。湾内の対岸だよ。しかし、この海峡に海底トンネルが掘られ、欧州からの鉄道がカサブランカまでのびるのが2025年だとかアブドゥラが言っていた。

しかし、こちらのイスラム文化とむこうのキリスト教文化とでは相当な齟齬があるだろう。その鉄道、うまく運行するだろうか。その齟齬のために、かつて、イベリア半島でレコンキスタ(=領土再制服)があったのだし。

なんで、アラブイスラム文化はレコンキスタでキリスト教文化負けてしまったのだろうか。なぜイスラム文化は世界を凌駕しないのだろうか。そういえば、トルコ(地中海の東端に位置するペルシャ語圏の国)では最近アラビア文字の使用をやめてローマ字にしてしまった。なんなんだろう。

対岸に見えている岬の向こうにアルフェシラス行きの高速フェリー乗り場があり、対岸のアルフェシラスまで30分。オレたちはそれには乗らない。ここから車で45分ほど東(=絵でいうとそこに見えている岬の更にその先の方)へ行ったタンジェメッドという新港から大型フェリーでアルフェシラスに渡る予定だ。それは2時間かかる。それはあしたのこと。この旅行の目的はそれだ。

Google Map で見るとタンジェメッドからはジブラルタルにしか航路が引かれていないが、ちゃんとアルフェシラスにもいけるのである。このへん、GM地図も相当いい加減で、それを頼りに旅行をすれば酷い目にあいそうだ。北アフリカのモロッコのタンジールでさえこの通りなのだから、アフリカ全体では、地図とは言っても、そういうところがかなり厄介模様である。

その対岸アルフェシラスの隣町が英領ジブラルタルだ。


 

2/25(火)モロッコからスペインへ、ジブラルタル海峡を渡る。コルドバ泊、タベルナ初体験

2/25。ジブラルタル海峡を渡れば右手にジブラルタルの町(英領)=絵。行き先はこの絵の左手のアルフェシラス(スペイン領)だ。

そのアルフェシラスから電車に乗ってコルドバまでゆく。左地図赤線部分。『電車・3時間14分乗り換えなし』と見えるルートだ。

この旅程で起こったことといえば、①1000発1230着予定のフェリーの出航が二時間遅れたこと②1503発の電車に乗り込んだのは発車1分前だったこと(海峡を渡りアルフェシラスに着いて、電車発車まで2.5hの余裕が見込まれている計画だったのに!)③コルドバで危うく電車を乗り過ごしてしまいそうになり、QnSが電車のドアに挟まれたおかでげドアがもう一度開いたので下車できたことの三点である。全体どうにもならない話だが、③を除いて不可抗力だ。③はボ~としていて「この電車はコルドバ終点だよ!」とか言って油断していたQnSが悪い。この①②③について記録しておく。これ以外は順調であった。

アブドゥラが800にホテルに迎えにきた。ええい! もうこの際だから知っている限りのアラビア語を叫んでモロッコを締めくくろう。サバ~フル・ハイル!(=おはよう!)。・・・。そして最後にホテルのロビーから車に見送りにきた4名のボーイに「イラ~ッ・リカ~!(=さようなら!=また合う日まで!)」と叫びつつ荷物をトランクに押し込んでくれたボーイに1€のチップを渡す。この時点でオレはもうすでにモロッコでは貨幣はDH(デラハム)だけでなく€(ユーロ)だっていいんだと知っていたから€で渡した。DHはさっき枕銭としておいてきてしまったのでもうない。ユーロなら成田で両替してもらったものがあった。

アブドゥラもチップをばら撒いている。かれがチップを撒く理由はよくわかる。自分の仕事のフィールドを快調にしておきたいのだ。仕事をしやすくしておきたいのだ。アブドゥラが客を連れてこのホテルにくれば、それはその場にいる者にとって利得であるように躾ておくことがアブドゥラにとっては必要なことだからである。それはホテルだけではなく、アブドゥラが客を連れて回る全てのコースにおいてそうだろう。これで、アブドゥラや運転手のムスタファがチップをバラまく理由がよくわかる。人は自分に利得をもたらす者を邪険にはしないからだ。仕事がやりやすくなるからだ。チップは彼らにとっての必要経費なのである。

こうして、タンジールからタンジェメッド(=タンジェ新港)まで地中海沿いをムスタファの運転する専用車に乗ってアブドゥラに伴われて行った。ムスタファに35€、アブドゥラに45€、別れぎわの握手の中にいれておきましたとさ。

その景色はすばらしかった。そこでは地中海に面する高級分譲マンションの建設が盛んだった。その値段は5千万円ほどだとアブドゥラが言っていた。内陸部の分譲集合住宅では300万円ほどのものからあるから、これは相当の高額である。

①:: 900から出国手続きが始まり、930くらいにはフェリーに乗り込んだ。1000出航だから、あと30分だ。と思うのだが、港にはまだフェリーに積み込まれていないトラックや乗用車が、絵に見えるようにそこにいる。どうするの。その積み込みがだらだらと続いて、何度かアラビヤ語とフランス語と英語でのアナウンスがあるのだが、なんのことか分からない。そして時間が来ても船はでない。またアナウンス。

船が港を出たのは1200である。ちょっと計算してみてもらいたい。1000出航で1230着を二時間遅らせる計算だ。1200出航なら1430港着じゃあないか。電車は1503発だぞ。入国手続きに30分かかるとすると、アルヘシラスの港で1500時。三分で駅までなんていけねえ!

②::  青くなって税関を通って外に出て、すぐタクシーに乗り込み「エスタシオンアルフヘシラス、ポルファボール!(=アルフヘシラス駅へやってくれ!)」と怒鳴ったら、運転手もコルドバ行の電車の発車時間を心得ていて「急がねえと間に合わねえぞ!」とオレタチを急がせ駅まですっとばしてくれた。電車はまさに発車寸前。運ちゃんが駅の中まで送ってきてくれて何とか電車に間に合ったってわけ。肝を潰しました。ここで乗り遅れたらかなり厄介ごとになるところだった。ほ! 運ちゃんにチップははずんでおきました。ほ!

コルドバに行く電車の窓から見える景色は、モロッコでの風景に似てはいるが、こちらのほうがずっとスッキリしていた。起伏する緑の丘にヒツジ、ウシなどがいて、所々樹が生えていて、その中に人家が点在するっていう風景です。

③:: あれ? と思いました。乗客が乗り込んできたからです。どこで? コルドバでですよ! なにしろオレたちはこの電車はコルドバ終点だと思い込んでいますからね。そこで乗り込みの客があるなんて! いけねえ! ここは終点じゃあねえんだ! 心臓が一瞬止まって、気が狂ったように荷をまとめて出口に飛びました。

「ぎゃ~」、とドアに挟まれるQnS。ああ、終わった。と、諦めた。そしたら、ドアが異常を察知して開き直して、Qが外へ転がり出た。負けるもんか!とオレも出口に体当たりをかけて外へ出た。もう! 腐れアマ! どこがコルドバ終点なんだよ! たく!

ホントに危なかったです。乗り過ごしちゃったら、これもまた厄介ごとですよ。㋐二人とも乗り過ごす㋑Qだけ降りてオレだけ乗り過ごす、の二つのばあいがあったわけですが、㋑なんかすげえ厄介です。だって、オレのスマホなんてもう電池切れですからね。ソケットが合わなくてずーっとチージできないでいるんですから・・・。別れちゃったらどうやって連絡とるんです? ここで夫婦生き別れだ。

Qはどうやってここスペインのコルドバで生きていくんだろう。ジプシーになるか乞食になるか家政婦をやるか。オレはきっとマドリードまで連れていかれ、そこで宿を求め仕事を求め新しい妻を求め・・・労働者として暮らしていくのかなあ、なんて妄想に怯えました。ああ。

なんとか二人とも降りられてホントによかったです。まったく、フェリーといい、電車の乗り降りといい、肝をつぶしっぱなしの一日でした。

上の絵の右に見えている長方形の建物がコルドバ駅です。その駅を後にしてホテルに向かっています。ホテルへ向かう方向を振り返って見たのが上の絵です。オレたちは駅前ホテル(=AC ホテルコルドバ)の前にいます。なんだかここにこうして降り立っていることが奇跡の積み重ねの上に成り立っているのでした。ここではもう、気が抜けていました。気の抜けたビール・・・みたいになってた。

その苦労した夜の夕食が右の絵です。ホテル近くの飲食店街の中の一軒でした。

だいたい、『食べるな、飲め飲め!』というが、この場合の「食べるな」は「タベルナ」であり「タベルナ」は スペイン語の ”taberna” で「飲み屋、居酒屋、酒場」の意味である。どうりでここでは「飲め飲め!」と命令されると思った。

モロッコからスペインに入って先ず行ったのがこの ”taberna” で、ここまで来られた旅行の無事を祝って祝杯をあげた。”!Salud!=カンパ~い!”

スペインの飲食店はバル、タベルナ、リストランテの三種だと心得ておけばいいらしい。今夜はそのタベルナ初体験だ。なかなかいい。ビノ・ティント(=赤ワイン)でしこたま酔いました。

ホテルに帰りついたのは真夜中でした。


2/26(水)イスナハルの田舎屋『B&Bどんぐり荘(=Casa Lural, Finca Las Encinas)』

2/26 きょうは1300時にレンタカーを借りてここから100kmほどグラナダ寄りに行ったイスナハール(=)という村にあるB&Bどんぐり荘というところへ行く予定だ。

いま830だからそれまでチョット時間がある。この時間を使って世界遺産のメスキータを見学しようというわけ。

ホテルからメスキータまでは1.5kmくらい。歩いてゆくことにした。歩けばそこは道路沿いの公園みたいになっていて、さすが、バレンシア、じゃあなかった、アンダルシア。植木にオレンジが使ってある。落っこちている実を拾って食ってみたが・・・食えるものじゃあ、ありません。苦くって。

歩いていって、まず出るのがグアダルキビル河で、そこにはローマ橋がかかっている。絵下。この橋も、メスキータも、その北側のユダヤ人街も、みんなひくるめて「コルドバ歴史地区」として世界文化遺産に登録されている。
こうやってローマ橋の写真をオレがここに掲げる意味って、なんなんだろう。そう疑う。疑わずにいられない。

だって、こんなの、世界遺産登録されているわけで、それなりの写真集もあるだろうし、ネットの中には無数にそんな写真はUPされている。GoogleMapの中にだって見られる。そこにオレがまたこうやってその写真を掲げるとすれば、それは、そういう有名な場所にオレも行ってきたんだって皆さんに言っている、ということ以外の理由がない。

そして、そうやってそんなことを自慢ぽくいう自分がいやなのである。それだから、こんなふうにローマ橋の写真を掲げる自分を『疑わずにはいられない』。なにやってんだろうオレ、って疑いだ。

そう言うと「じゃあ、よせばいいでしょう!」というみなさんの声が聞こえそうだ。・・・、でも、止せないでいる自分の不甲斐なさに参るのである。

そこで、だいたい、観光旅行などで「どこをみたいの?」なんて訊かれれば「その街のノラ猫と、ゴミの収集現場と、暮らしを楽しんでいる人の顔ですかね」なんてカッコつけたようなことを言って、ごまかしにかかるオレだ。
このメスキータの正門もそう。なんでこの写真をいまさらオレはここに掲げるのだろうか。「わ~凄い!」とか「オレも行ったよ!」とか「流石だね!」とかの感嘆の声をあげて盛り上がるためだろうか。みんな行くところだからさぁ。

メスキータの中に入った。結局、そこはもう数え切れない人の目に晒されてきた場所である。何が「凄い」のかと言えば、この『数え切れない人の目に晒されてきた場所』であることが凄いのだと思う。次から次へ訪れる人の波は絶えず、同じ場所が見られ、今では例外なくスマホのようなものがかざされて写真がとられてゆく。そことが凄い。

そのことにチョットへそを曲げたオレが撮ったのは、いわゆるメスキータのイスラム教様式とキリスト教様式の融合した建物内部の絵ではく、なんだか表情豊かなキリスト教の聖人たちの像だった。
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メスキータの見学を終えて、ユダヤ人街を散歩していたら赤ん坊を抱いた若いジプシー女に声をかけられた。”Can you speak English?” と訊いてくる。”Yes, I Can” とオレ。ここから変なことが起こりはじめる。

「アタイはこの赤ん坊を育てなければいけません。ミルクを買うお金が必要です。つきましては、いくらかでも助けていただけませんか?」 と言ってきた。

“Yes, I Can” と言ってしまっているので、無視するわけにもいかず、ポケットをさぐれば1€60¢ほどあったので、それをみんなやった。それで一件落着と思ってその場を去った。と思ったのがだ、そのジプシー女はオレにずーっとついて来て離れない。

「あしたの分も恵んでください! 5€にしてください! ミルクを買うんです!」

というのだ。さすがオレも怒って「うるせえ!」と日本語で言って、後は虫した。

以前ローマのシンコが言っていたが、こういう場合なにしろ「目」をみてしまうとダメです。目をみておいて、更に “Yes, I can” なんて言ったらもっとだめ。そのことは知っていたのですが、突然虚を突かれた感じで、そうなってしまった。でも。経験としては悪くなかった。

それにしても、スペインのコルドバにいるジプシー女がなんであんなに英語ができるんだろう。QnSなんかよりずっとできる感じだ。5€出してでも、そういうことをもっと訊いてみればよかったと思う。こんどチャンスがあったらぜひそういうインタビューをしてみたい。・・・それで、ジプシー女といい仲になれたりしたらどうしよう・・・。あ~なんだかくすぐったい。

そんなことをやって歴史地区で馬鹿げていたら、もうレンタカー屋との約束時間が迫ってきている。来るときは歩いてきたが帰りはタクシーを拾ってコルドバ駅にやってもらった。駅でスマホなどのバッテリチャージ用の
ソケットを買った。そこで売っていることは、ホテルの受付で訊いて知っていたからだ。

ホテルに預けてあった荷物を受けとって、駅前にある ハーツレンタカーの営業所に行った。予約はしてあるし、基本料金も払ってあるからバウチャーも持っている。以前イタリアのピサで借りた経験もあるので「楽勝さ」と思っていた。ぐたぐたしたことは言わないが、ここで大変なことになるのだ。

任意保険に入る必要がある。オレはまあ保険は「フルカバー」にする。こんな外国に来ているわけだし。それはかなり高額な保険料になる。三日間でこの保険だけで1.2万円くらい。その支払いはカードだ。

そのカードが使えないと受付の女事務員がいうのである。まあJCBカードだからそういうこともあるだろう。で、こんどはVISAカードを出す。

「え? これもダメ?」

事務員がカードを機械に突っ込むのだが突き返されてくる。かなり青ざめるオレ。VISAカードはもう一枚持って行ったのでそれを次に出す。

「ああ! もうだめだ!」

最後のその一枚も使えなかったのだ。事務員は日本へ電話してみろという。オレ電話してみましたよ。でも、誰もでませんがね。日本は真夜中で、営業時間外だから、営業時間になったらかけ直せと録音の声が言ってる。

『ぐたぐたしたことは言わない』といいながら、かなりぐたぐたいいました。結局3枚のカードは全部使えなかった。ここで完全に諦めて、気持ちはギブアップ。でも、どうやって「B&Bどんぐり荘」まで行けばいいんだろう。

「現金で保証金をつめばお貸しできます」

と事務員は言った。

げ、現金? そんなのどこにあるんだ? QnSの顔をみるオレ。顔を引きつらせるQ.。

現金としては「どんぐり荘」の支払いが現金払いと分かっていたのでQはそれを用意しているのである。でもねえ、それ、腹巻に入れて下着の下にあるんだ。それに、その金をここで使ってしまえば「どんぐり荘」の支払いはどうするのよ。「どんぐり荘」は田舎だからカードは使えないって言われているわけだし・・・。

すったもんだの大騒ぎの末、Qの下着をずりおろして、ありったけの現金をだし、それを保証金にして自動車を借りましたってば。きついなあ・・・。しかし、きつさは、この後も留まるところを知りません。

何かというと、ウチから用意して来たカーナビ(=ガーミン)の取り付け場所がこの自動車にないんです。貼り付け用の両面テープがフロントのどこにも張り付かない。・・・結局フロントガラスに吸盤で直に吸い付けて解決。これ、たぶん道路交通法違反でしょう。でも、背に腹は変えられない・・・。ああ。

あれ? だけど、ガーミンの電源ソケットは? わかりませ~ん! そのへんで車の整備をしている若いアンチャンを呼んできて教えてもらった。まだまだ困難が続く。

次。ガーミンのコース設定。

あのねえ、オレ、ホントはモロッコからアルフェシラスへ渡ったらそこですぐレンタカーを借りて、それで旅行したかったのね。でもQnSの大反対にあった。その理由は「オマイ、高速道路の運転なんか大丈夫なんか? ああん?」ということなのである。アルフェシラスからコルドバに行くにしても、アルフェシラスから直に「どんぐり荘」に行くにしても、ガーミンは高速道路を通す道を選択してくる。その高速道路の運転が、「オマイ、大丈夫か?」 というわけなのである。

オレもあまり自信はない。そこで、高速道路を通らないで済むようなコース設定をしたのだが、アルフェシラスからコルドバ間は、この設定でいくと時間がかかりすぎてよくない。そこで、レンタカーのピックアップをアルフェシラスからではなく、コルドバからということで妥協した。

コルドバ~どんぐり荘間は、N-432という国道とA-333という道を通って行くようにガーミンを設定してあった。時間もたっぷりとってある。

でもダメでした。その場になると、ガーミンったら、A-45という高速道路にオレを連れ込んだのです。速度制限 120km/h ね。何度かN-432に戻ろうとあれこれやってみて、実際N-432 の途中にある村に入ったりはしたんです。それが上の絵。でも、そこからまた、ガーミンはA-45に入れるようナビをする。結局、精魂尽きてガーミンの言うとおりにしようと諦めたのでした。

A-45は120km制限の高速道路ですね。でも怖くありませんでした。案ずるより産むがやすし、でした。

それにスペインの高速道路って、金取らないのが多い(らしです)。日本の高速道路って必ず金をとる。かつて民主党政権だった時の公約では、これを無料にするって言ってたんだけど、果たされませんでしたね。

スペインの高速道路A-45は無料でしたよ。

レンタカーを運転してコルドバから100kmほど田舎にある『B&Bどんぐり荘=Casa Lural, Finca Las Encinas』へゆく途中のことである。どう走ってもどこもかしこもオリーブ畑ばかりの中に、ちょっとハンドルを右に切って角を曲がったとたん、突然この白い村が現れたときは息を呑み歓声をあげずにいられなかった。後で分かったことだが、こんな村はそのへんにごろごろしているのだ。上の絵はA-331上のどこかです。

高速道路A-45から、道路を(A-331)~(A-333)へと乗り換えて行きました。上の絵の中に見えているA-333という文字は、これGoogle Map からのパクリなので、地図としての都合上そんな文字が入っていますが、実際の道路にその文字はありません。

そこの絵の道路の右に見えているのはバス亭です。どんぐり荘のしている道案内では、そこを左に曲がって800メートルほど行くと、樫の木に赤い四角のサインがあるから、そこをまた左に曲がり50メートルほど行った右手が “casa Rural, Finca Las Encinas (= B&B どんぐり荘)” だと案内してある。

事実として、この道案内はまったく正確である。

ちなみに、その赤い四角のサインはなんだとお思いになりますか。どんぐり荘が目印のために出した印、ですか。はい、残念でした。そういう勝手な看板だのサインだのはここアンダルシアでは一切出せないのだそうです。そういえば道路に看板とかなかったなあ。じゃあ、その赤いのは何?この辺が禁猟区であるという印だそうです。ドングリ荘のマキがそう教えてくれた。

ところが、オレはここで、またトラブルにあうのだった。それは何かと言うと、Google Map と Garmin Navi のマッチングの悪さなのです。

どんぐり荘の住所を Google Map に入れれば地図上のその場所に赤マークがつきます。その赤マークの場所は Garmin Navi に転送できる。だから、Garmin Navi は使い勝手がいい。というのがガーミンの売り文句です。オレはそうして、どんぐり荘の場所をグーグルマップからガーミンに入れておいた。ところが・・・。

ガーミンはオレをどこに連れていったと思います? とんでもないところ、です。「とんでもない」といっても、同じ集落内でしたから、よかったです。そこからどんぐり荘のマキに電話して、案内してもらった。結果的には、上の絵にあるバス亭を探して、そこを左に曲がって、樫の木の赤い三角を見つけて左に曲り、どんぐり荘へ行き着いた、というわけです。で、

①::ガーミンには上の絵に見えている、その左に曲がる道がありませんでした。

ガーミンを日本で使っている時の日本地図は既にナヴにセットされている。でもヨーロッパでガーミンを使う時には「GARMIN Map Source City Navigator ヨーロッパ microSD/SDカード 」というものをセットして、ヨーロッパ仕様にして使う。その地図に上の絵の左に入る道がないんです。 オレが連れて行かれたのはその道よりづっと細い今にも崩れ落ちそうな山道でした。

②::Google Map に示された赤印はどんぐり荘の場所ではありませんでした。

マキの話によると、その集落内での番地はかなりいい加減で、お隣が30番っていってるから、それじゃあウチは31番にしておきましょとか、の程度のものらしい。そこに行政が絡んできて、なんだか番地がはっきりしないのだという。グーグルって、そういうのどう調査するんだろうか。役場の出すデータをたよるんだろうか。

③::それと、これは最近のことですが、Google Map に示した赤印をガーミンに転送できないということを経験しました。ガーミンに問合わせてみたら、「グーグル社の都合でそうなっている。うちの責任ではない。グーグルに問合わせてくれ」といわれた。

ということは・・・。グーグルとガーミンが契約上のことでもめて、グーグルが地図の転送をさせないようにする、なんていうことが起こった場合、ガーミンから言わせればそれは地図の転送を止めたグーグルのせいだということになり、グーグルから言わせればそれはガーミンが条件を飲まないからそうしたのであり、ガーミンのせいだ、ということになる。

これじゃあ、その地図を使って、そのナビを使って、旅行している旅行者のことなんかそっちのけじゃあなあいですか。もしかすると、そのことでこの旅行者は命を落とすようなことになるかもしれない。ガケから落っこちたりして・・・。

この間のフクシマの原発メルトダウンは文明のもたらす深刻な危機を露呈したが、この「ガーミン~グーグル関係」のようなことも、そうした文明の危機の萌芽として意識しておくべきだろう。そういうことが生活上に災厄をもたらす可能性がある。ますます、その手の危機は増えるだろう。やばい・・・。
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は~ぁ。いろいろあった一日だったなあ。それもなんとかやり遂げて、こうやって夕食にありつけた。なんだか、よくわかんないよオレ。なにやっているんだろう。合理性ということで言えばチッとも合理的でないことをオレはやっている。単にどんぐり荘へ行くということを合理的にやろうとしたら、もっと合理的に(=コストパフォーマンスよく、って意味だけど)やる方法はいくらでもあるだろう。しかし、それじゃあ面白くないんだよ。

生きて行くことって、あまり合理的なことじゃあないんだってつくづく思う。


2/27(木)落ちこぼれとはオレのことだ

2/26,27,28. そのどんぐり荘に三泊した。マキという日本人の女子が女将をしているB&Bだった。そこで近くのオリーブ精油工場の見学とマキの夫のクライブ(イギリス人料理人)に料理教室を願った。二人にはカイという小学6年の男子が一人いて、村のなかの散歩の案内をしてもらった。
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ドングリ荘のマキに連れられてオリーブ油の瓶詰め工場を見学に行った。この工場は30代に見える兄弟が経営している。兄の方が社長で弟の方はオリブ油の専門家で、元はケミストだと言っていたから化学関係の何かだったのだろう。

兄の方は一週間前まで日本の北海道のニセコでスキーを楽しんでいたのだという。二年くらい前までは上海で(国際)弁護士として仕事をしていたが「なんでも金、金って、目の色を変えている上海の暮らしが嫌になって、スペインに帰ってきて父の後を継ぎました。金だけで測られる価値の中に暮らして、ちっとも幸福でなかった」という。中国はいま発展途上だからそういうことになってしまうのだと思う。たしかに金、金で競いあっている社会の中で暮らすというのは疲れるものだろう。・・・金は欲しいけど。ね。

というわけで、その会社の応接室でオリブオイルの解説をしてもらった。オリブ油は4種類に分けられている。

①::エキストラ バージン オイル
②::バージンオイル
③::ランパンテオイル
④::精製オリーブオイル

日本には①しか輸入されていないそうです。で、問題は③ですね。これがオレです。そう。オレはランパンテなんだ。では、「ランパンテ」について説明しましょう。上の右の絵の青いカップが三つあるのをご覧下さい。スクリーンを使ってオリブの品種だの収穫方法だのの説明を受けたあと、上の絵にある一番左のポットの蓋をとって匂いを嗅いでみろ、といわれる。

「お、いい匂い!」 とオレ。
「???。良くない!」 とQnS。

次に同じことを一番右のポットでやるように言われる。

「す、すげえ、新鮮なクローバの匂いだ!」 とオレ。
「ほら~、ね!」 とQnS。

何かというと、左のがランパンテで、右のがエキストラバージンなのでした。その差は歴然。エキストラバージンの勝ち。二つを比べるとランパンテは吐き気がする。エキストラバージンは飲みたくなる。

にも関わらず、オレ、始めの左のやつを「お、いい匂い!」と言った。オレってそういうやつなんです。ホントは気持ち悪かったんだけど、人の顔色を伺いながらそんなことを言っちゃうオレです。でも、比較させられるとエキストラバージンの優秀さにかないません。脱帽。「実はオレ日本うそつきクラブの準会員なんです」といってあやまっておきました。みんなに笑われたことは言うまでもありません。あ~あ。

で、その一番左の、吐き気がするような匂いのオリブ油の「ランパンテ」ですが、これは地面に「落ちこぼれ」たオリブの実を拾い集めて搾油したものなんだって。オレもさ、日本社会の落ちこぼれだからさ、ランパンテなんだぁ。こうしてランパンテとエキストラバージンの匂いを嗅ぎわけながら奇妙にランパアンテな自分自身に納得してしまいました。

④の「精製オリーブオイル」はこのランパンテを化学薬品を使って加工したものだそうです。②のバージンオイルはこのランパンテとエキストラバージンとの中間に位置する品質です。

オリーブオイルの、この品質の決定は、この地域の12人の評議委員会の鑑定によるそうです。弟の方のケミストはこの評議委員の一人なんだって。

そのへんのスーパーに行くとオリブオイルは5L入りのペットポトルで売られています。値段ですか? 忘れた。始めっから覚えていなかったかもしれない・・・。

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世界のオリーブ油生産の60%がスペイン産で、その内の80%がここアンダルシア産とのこと。すると、アンダルシア産は世界生産量の0.6*0.8=48≒50%。そういう場所に来ています。どこもかしこもオリーブの木ばかり。

でも、オリーブが植えられる前の自然の植生はなんだったんだろう。オレの見当では樫(カシ)なんですけどね。この辺はイベリコ豚の産地でしょう。その豚の餌がドングリで、ドングリは樫の木の実だからさあ。そんな樫の木がオリブ畑の中に点在したりしているのも見ましたし。

いま、この農協のオリブ集荷場に持ち込まれているのは、落ちこぼれの実ばかりです。手摘みのシーズンはもう終わっていました。その労働力はモロッコ人が多いそうです。もっと従順に働く人として中央アフリカの黒人が最近入ってくるようになったとマキが言ってました。モロッコ人の方はなにかと文句が多く、裁判沙汰になったり、いざこざが多いが、黒人の方はおとなしいらしい。そういうモロッコ人も黒人も、農家の別棟に住んで農業労働者として働くのだそうです。日本の高原野菜の産地の中国人労働者(=「研修生」という名目でやってくる)と似たようなものだとおもいました。

上の絵に見えているトレーラ。これにオリブの実を入れてトラクタで引っ張って運んでいた。
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合間に、プリエゴ デ コルドバ (Priego de Cordoba) という田舎町を訪ねて散歩した。このへんでは、村と言えば「白い村」である。なんだかみんな白い。

そこで、トイレを求めてバルに入り、エスプレッソコーヒを注文しておいて、ドンデエステセルビシヲ?(=トイレ、どこ?) なんてスペイン語を始めて使った。大成功さ。バルのなかにたむろしていた三人の爺さんとハゲ頭の店主と仲良くなって、別れ際にはしっかりアディオスアミーゴス、アスタルエーゴ!(=じゃあ、ね! またいつか!)と言っておいた。むろん、チップ1€をトイレ代として、付けるのを、この日本人は忘れてはいませんぜ。

「エラそうに言うねえ! アタイさあ、ここでちょっと言わせてもらいたいことがあるんだけど。」

なにぃ?

「オマイねえ、このバルにトイレ借りに入るまで、どれだけアタイがいやな思いしたか言ってみおし!」

なにぃ?

「アタイはね、スーパマーケトが好きなんね。でもさ、オマイと一緒にスーパーに入ると、オマイは決まって「気持ちが悪くなる」んだよね。さっきのスーパ、おもしろかったんだよ! オリブオイルは売っているし、ハモンは骨付き一本まるまるで売っているし、目が点だったよ! だっていうのに、オマイはぁ、アタイに「気持ちが悪いから出よう」って言うでしょう。めんどくさいんだよ、オマイは。」

だって、吐きそうなんだから、しょうがねえだろう。

「いいよ! それで外に出たと思ったら、こんどは「小便がむりそうだ」って言うのね、オマイは! どこでするって訊いたら、またスーパーに戻ってトイレ探そうっていうから、また入った。」

だって、オレ、小便が近いんだ。もう老人だからさ。何とか性何とかっていう病気だよキット。過活動性膀胱だったっけ? でも、どこを探しても、スーパーにトイレはなかったねえ・・・。

「まったく、面倒くさい男なんだから。スーパーに入ってまた気持ち悪くなって、小便はしれないままで、どうすりゃいいっていうのさ!」

しょうがねえだろう。もう老人なんだし! あの世に行くまで今少しだから、ちょっと堪えて付き合ってくれたっていいじゃあねえかよ!

「・・・」

プリエゴデコルドバって町は、いい町でした。賑やかな町です。でも、午後2時ころになったら人影がなくなってしまったのには驚きました。これがスペインの「シエスタ(=昼寝休み)」なのかなあと思いました。

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「料理教室でいちばん面白かったのは「マスの骨抜き」だったよ。詰め物する前にマスの骨を完全に抜く技ね。あれがいちばんためになった。こんどオマイにつくってやるよ!」

でもさ、オレ、マスはあんまり好きじゃあねえんだ・・・。

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そうして料理教室でつくった料理で夕食をいたしました。「飲み物は?」と訊かれたので、ためらわず「フィノ!」としたところです。

なお、フィノ酒はシェリー酒の一種で、シェリー酒は『スペイン南部アンダルシア地方カディス県の町ヘレス周辺の三角地帯とその周辺認定地域だけで作られる強化ワインである。それ以外の地域で作っても、1935年以降は原産地呼称統制法によって世界商標会議の加盟国は「シェリー」という名を使用することはできない』そうです。白ワインです。これの『熟成法によって「フィノ」と「オロロソ」に大別される』んだって(『』内Wik.)。

 


 

 

2/28(金)疲れきって、一日じゅう養生していた

今夜ここに一泊させてもれえば、明日のあさ900にグラナダへ向けて出発する予定である。レンタカーは明日の1300までに返すという約束だから、ここを900に出れば1100くらいには返せそうだ。そんな心づもりをしている。

絵でみてもらって分かるように、どんぐり荘にはプールがある。さっきクライブが水温を測っていたので覗いて見ていたら9°Cだった。深さは1.5⇒2.5の傾斜だというからかなり深い。

「夏には水温が30°くらいになるよ」

という。なにしろここの気温は夏だと45°くらいにまであがるのだという。そんなに高くなっても湿度が低いので日陰に入りさえすれば快適だそうである。そんなスペインだから、昼寝の習慣シエスタは必須なのだろう。

いつも夕食の紹介ばかりで申し訳なかった。ここでの朝食の紹介もしておきたい。①トースト+にんにく+オリブオイル②ハモン+ケソ③ジャム三種④果物(チリモヤ、オランジ、キューイ、イチゴ・・・)⑤飲み物(コーヒ)⑥くらいの定番である。

「ジャムといえばパンにつけるものと思っていただよ、アタイは。トーストにはニンニク+オリブ油+ハモンで十分美味しかったのでジャムは食わなかったんね。クライブに「チーズにジャムをつけて食うとうまいんだ」といわれて、ああ、ジャムはチーズにつけてくうためにあったあんだって気がついた。そういえばチーズの近くにジャムがあり、パンの近くにはなかったよ」

だってさ。オレは、トーストにニンニクを擦り付けて、その上にオリーブオイルをたらして食う食い方が新鮮だった。このへんではパンにマーガリンなんてなくって、パンにオリブオイルなのだ。オリブの前にニンニクを擦り付けるところがにくい。
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QnSが女将のマキに聞いたところによると、その息子のカイは、どうやらかなり優秀らしい。なぜかというと、カイはいま小学六年生だが、二年間の「飛び級」をして六年生をやっているらしいのである。そりゃあスゲエや!オレなんか飛び級なんて考えられないのである。だいたい飛び級の反対の「落ち級」ばかりやってきた気がする。いま65になっても中学生程度のことが分からず、日々慌てることが多い。

そのカイに村内案内をしてもらった。

カイに連れられてその辺を散歩していると、家の中から声をかけられる。スペイン語なので、なにを言っているのかはよく分からないが、まあ、学校の調子はどうかとか、朝飯は食ったのかとか、きょうはなんで学校へ行かないのかとか、そんなことだろうと思う。そんな話が一頻りあった後、オレは、オレが日本から観光でここへ来たことを(英語で)つけたしておいた。そして、

「それにしても、こういうところに暮らせていいですね! うらやましいです!」

といっておく。すると、

「日本からこんなところまで遊びに来れれるあんたの方が羨ましいよ!」なんて返事が返ってきて恐縮する。

「なに、おっしゃいます! ここはスペイン、アンダルシアじゃあないですか。世界の東の果ての国の日本人は、世界の西の果てのアンダルシアを一目みて一生を終わりたいと願うもんです」

とかえす。

アメリカを新大陸と言うが、新大陸は1492年にコロンブスによって発見された。それまでは日本は世界の東の果てだったし、スペインのこの辺とかポルトガルとかが西の果てだった。

そんなことを思って歩いていたら鶏が死んでいる。それを見つけたカイが見入っている。こういうとき子供はなにを思うのだろうか。
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そこに見えている集落のいちばん奥にどんぐり荘はある。そこから散歩してこんなに高いところまで来てしまった。村内散歩していての強い印象は「犬」だった。どの家にもそれなりの数の犬が飼われているようなのである。どんぐり荘にもスモーキーとクッキーの二匹が飼われていた。といってもこの二匹は愛玩犬である。ところが、散歩中にみた犬はどうみても猟犬もようなのだ。きっと、狩猟もさかんなのだろう。なにが捕れるんだろうか。イノシシかな。シカは? まさかサルはいないだろう。

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今日の夕食である。

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3/1(土)借金す。そしてグラナダの日本人フラメンコダンサーのヒロシ

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3/2(日)悔しがるQnS

今夜はアルハンブラ宮殿のなかの宿泊施設『パラドール』に泊まるので、パラドールに1000ころ到着して、フロントに荷物を預け、宮殿内を散歩した。その散歩中にみたアーモンドの花。日本の梅とか桜と感じが似ている。しかし、こうした廃墟の壁の前に置かれると、それとはなんだか印象が違う。わるくない。しかし・・・。

しかし、夕食の時に悲劇が起きるのだ。QnSの長年の夢が微塵に砕かれるのである。それは、・・・。

さて。では。「しかし・・・。それは・・・」の内容について話したい。

この旅行の失敗中の失敗話である。

パラドールのレストランで右の二皿を注文した段階で、QnSは何かに気がつき、嘘をいえば、その場でへたりこんで小便を漏らしてしまったのである。そして部屋に引き上げ、ベッドに横になり、身じろぎもせず息を殺していた。傍から見ていてそれがよく分かった。

「100ピースのジグゾーパズルのぉ、最後の1ピースでぇ、完成という時にぃ、肘が引っかっかってぇ、床に落としてぇ、ああ、一巻のおわり、って感じだったヨ」

そして付け加える。

「オマイが、へんなオーラを出してぇ、アタイを責めるからぁ、アタイは何か変だと感じていても、そう言い出せなかったのだ。こうなったのはオマイのせいだ!」

というのである。

スペインのコース料理では、だいたい、プリメーロプラト(=前菜=スターター)⇒セグンドプラト(=主菜=メイン)⇒ポステーロ(=デザート)くらいで構成して、そこに何か飲み物をつけるくらいである。と、QnSは語る。

1000くらいにパラドールに着いて、荷物をフロントに預け、宮殿内を散歩した。下にある幾枚かの絵はその散歩中のものだ。オレがここにその絵を掲げる意味などないほど、それらの絵はネットの中に充満している、ありきたりなものだが、夕食の失敗話に行き着くにはそれを抜かせないので、しばらくご勘弁ねがいたい。

宮殿は外周を城壁で囲まれている。上の絵はその城壁内の菜園だ。欧州ではこの城壁というものがひとつの歴史遺産である。かつて街はだいたい城壁で囲んで、外敵の侵入から身を守った。その街の中心に領主の館と教会があるという構成だ。そして、そういうものは今では、だいたい「旧市街」と呼ばれて観光資源になっている。このアルハンブラ宮もその類である。宮=Palace, だから、Palace が街か、と言われるとちょっと違うが、その類ということで堪えてください。

この城壁という守りもやがて役立たなくなる。それを打ち破って街を攻める武器として重火器(=大砲)が発達してきたからだ。かつてスペインはその重火器を携えてアメリカへ渡った。そこでは原住民の殺戮が大々的におこった。

ポルトガル語といってもスペイン語とほぼ同じようなものだから、ポルトガル語国のブラジルも含めて、南アメリカはすべてスペイン語圏となって今まで続いている。北アメリカだって、ロスアンジェラス(=天使たち)とかラスベガス(=いくつもの草原)とかスペイン語地名はやたらと多い。

いまでは重火器はミサイルにまでなって、その先端に原子爆弾をのせて大陸間を飛ぶ。どんな城壁も、もう何の役にもたたない。

何の役にもたたないだって? ちゃんと観光資源として役立っているじゃあないか! ミサイルも原子爆弾もとてもよい観光資源として役立つ、そんな時代にならないものだろうか・・・。

時代かあ・・・。オレはこのところ時代感覚というものがなくなってしまっている。若いころはナカジマミユキの歌などもあって、そういう時代というものを信じていたのだが、今ではすっかりその感覚をなくした。時代というより状況という方がオレがオレのいまここを生きている感覚だ。

状況は状況であって歴史(=時代)ではない。状況は信じられるが、歴史は既に一つのイデオロギーとして退けようとしているところだ。イデオロギーは信じられないのである。イデオロギーをお題目として信じて利得している分にはいいのだが、信じて駆り立てられて酷い目にあって一生を終わるなどという事態は御免被りたい。それに、利得しているにしても、その利得の仕組みに無意識だというのもカッコ悪い。

歴史は今や一つの筋を持った物語としてではなく、客観的時間(=時計時間)に沿って並べられた出来事の集合になってしまっており、オレがオレの生きているこの状況を知ろうとする場合に、いつでも参照できる百科事典のようなものとなって機能しているだけのものになった。

歴史はそれ自体での物語性をすてた。

いま『歴史が終わった』と言われるときの歴史とはこの謂である。

そして歴史はその装いを変えて再登場してきている。みなさんもお気づきのことと思うが、ありとあらゆるものが、この装いを変えた歴史の中に書き込まれるようになってきている。宇宙の誕生から生命の出現、人類の誕生、ソクラテスにプラトン、アリストテレス、そして徳川家康から日本国首相アベ君、更にあなたの日常まで。いまや歴史とは一種の普遍的登記簿へと変質した。

その一つが町に設置される無数の監視カメラであり、CPネットワークである。

殺人事件が起こると、監視カメラの映像が(過去から=つまり歴史から)取り出され、あれこれ調べられ、犯人逮捕となる。つまり、登記簿(=歴史)に登録された映像が参照されて犯人が特定される。歴史はそのようなものとなった。こうして、歴史それ自体での物語性をすてた。

極限の想像を働かせてみよう。河原に一個の丸い石が転がっているとする。その石にものを尋ねる技術のことである。その技術が開発されれば、
その石は今までの記憶をあなたの必要に応じて語って聞かせるだろう。そうなれば、あなたはあなたの今生きている状況を知るために、その一個の石の記憶(=歴史)を利用できる。状況を知る必要は、そこでどう振る舞えばいいかを知りたい、あなたの必要からだ。

残念ながら、その技術はまだだか、そのかわり、ちいさなレンズと情報変換素子と記憶素子を組合わせたカメラが一個の石のようにつくられ、そのへんに大量にばらまかれ始めたのである。こうして、あらゆる出来事が歴史に登記されはじめた。

PCネットワークの中には、オレがいまここに書いているような、どうでもいいようなことさえ登記され、誰かがそれを必要とすれば参照可能な過去(=歴史)となってそのへんに転がる。

さしあたりはカメラだが、もっと違う装置の方がよさそうだ。映像ばかりでなく、音も臭も味も・・・その他なんだか分からない情報でさえ記憶するちいさな石。それを作れたら、そこに、どんな世界が出現するか。そしてその石の記憶が誰にでも利用可能な世界が出現するとすれば。

石にこだわるわけではない。石のかわりに道路でも都市でもビルでもかまわない。空気だっていい。そういうものが情報を記憶すればよい。そういう技術をあなたが作ったら、あなたは英雄だ。ビルゲイツなんか問題にしない英雄だ。

それはあらゆる人があらゆる人を過去に遡って監視する多視線歴史監視社会である。決して悪い社会ではない。そこでは悪は駆逐されるだろう。なぜなら、あなたが昨日誰と何をしていたかが、その情報を必要としている人に、その石や道路や都市やビルに記録された情報の中から、歴史として引き出され参照されてしまうからである。政治家の裏取引などはこうして不可能となり、万引きをしたのが誰かもすぐ突き止められ、浮気はばればれだ。それでいいとオレは思う。まったく正直者でしか在り得ない社会である。

それは核弾頭ミサイルでも壊せない、人間の城壁になるような気がするが。いかがだろう。

そうして街が城壁で囲まれたら、じゃあ、その城壁の外はどういうことになるのだろう。

その絵が左である。絵の左下にちょっと手すりが見えるが、この場所は崖の上で、その手すりを越えて飛び降りれば十分に自殺可能な高さだ。

つまり、外には日本でいう城下町が開けるのである。その城下町の外側が農地になり、農地の外側が森林原野として残される。農民はその農地に住む。城下町には商工サービス業者が住む。芸人や売春婦や太鼓持ちや乞食などもいたはずだ。

なんだかそんなことでいうと、本質的なところで文明は世界共通だなあと感心してしまう。

雨が降っている。こうもり傘をさしての宮殿内散歩である。宮殿内はそれなりの広さがあり、一筋縄ではいかない。それに、中心部分は警備も厳重で、指定された時間に決められた人数しか入れない。

日本を後にした雪の白州町よりはずっと暖かいとは言え、それでもかなり寒い。そんなこんなで、もう、はやくパラドールの自分の部屋に入って休みたくなってきている。もう1500近い。

というわけで、宮殿の散歩を終えて、パラドールのフロントで鍵を受け取り部屋に入った。

「おまい! ルームサービスとって昼にしよう、な!」

とQが言う。

誰がとるんだよ。オレがやるんだろうが。できもしない英語使ってさ。内心そう思いながら、それでも部屋にあるメニューから、なんとかサンドウイチと、なんとかガスッパッチョ(=冷製スープ)がいいと相談して、ルームサービスをとった。

それはすぐ来たが、そこでQはコーヒーを淹れるために部屋にある湯沸しに水をいれてスイッチを入れる。・・・。が、どうにも湯が沸く気配はない。

「おまい! この湯沸し、壊れてる!」

仕方ないなあ。オレはまたフロントに電話し、湯沸しが壊れているから交換してくれるように頼む。すぐ係りの者がくる。で、来た時に湯沸しはよく働いて湯が湧き始めていたのだ。なんだか、Qのプラグの挿し方が悪かったみたい。

ホントにもう、仕方ないなあ。係員に謝って、ちょっとチップを渡すオレ。この辺からオレの肩から、なんだかQを責めるオーラが出始めたようなのだ。

バカ女、腐れアマ、ビョーキ女、めんどうくせえオンナ、などはいつも面と向かって言っていることだが、それにはじめじめしたところはない。ところが、このオーラはなんだかとんでもなく湿りっけを帯びていたようだ。そのへんからQの感覚が狂いはじめる。つまりオレに対してなにか「負債」感覚が生じる。そうして、遅い昼食をして昼寝に入った。

疲れていたのでよく眠れた。

気がつくと1900ちょっと前。長いことQが憧れていたパラドールでのディナーでっせ! Q-ちょっとおしゃれを決め込む。そしてレストランにお出ましだ。それが1915くらい。

“Can we have a diner here?”

カマレーロ(=給仕係)にそう訊くオレ。返事は「もちろんですとも!」ときた。さあ、夕食だ。先客も何組かいる。

いつもどうりハモン(=生ハム)とケッソ(=チーズ)を前菜のつもりで頼んで、飲み物にはカバ(=発泡白ワイン)ではじめる。

「だけどぉ、アタイさぁ、その時さぁ、ちょっと変だとは思っていたんだよ。メニューがさ、写真付きで、説明調で安っぽい。変だとはおもったヨ。でもさあ、オマイが変なオーラ出しているから、何も言えない。ああ、これがアタイの憧れパラドールでの夕食なんだっておもって、ちょっとうっとりはしたヨ」

そして次に主菜のつもりでコロケット(=コロッケ)を頼んだ。主菜にコロケットとはなんだかしみったれているが、メニューにそんなものしかないのだから仕方ない。

「たしかに、変なんだよ。フロントに飾ってあったレストランのメニュがここにはないしさぁ。でも、さ。オマイが変なオーラだしているから、アタイ、変だって言い出せないでいるんだ。言えばまたオマイの負担になりそうな気がしてさぁ。そうかといって、アタイにそれを何とかする語学力もないしさぁ」

そして注文したコロケットが運ばれて来た瞬間である。Qが氷ついた。そして、

「ちがう・・・」

と低く呻いた。

オレは何がどう違うんだか分からない。が、Qの視線を追って全てを了解した。

オレたちはパラドールの中のレストランで夕食をはじめたのでのではなかったのだ。そこはカフェテリアだったのである。

なぜなら、そのカフェテリアの奥の一角に明かりが灯り、入り口のドアが開いたのが、そのときだったからである。ドアが開いてしばらくすると、それなりに着飾った宿泊客が三々五々その中に入っていったからである。レストランは20時からの開場だったのである。

“Can we have a diner here?” と訊いて、「もちろんですとも!」の返事のどこにも間違いはない。カフェテリアで夕食は、できる。それだけのことだった。こちらの真意はパラドールのレストランでそれなりの夕食はできるか、の問だったのだが、たしかに質問のなかにその意味は入っていない。

そのときはもう食欲など消え失せていた。出されたコロケットもハモンもケソも、それ以上手をつけられることはなかった。かろうじてグラスサーブされたカバをやっとのこと飲み干し、よろけながら部屋に戻ってベッドに倒れこんだというわけ。

これが事の顛末の全てだ。そういう目で冒頭の夕食の絵をご覧になっていただきたい。なんともミジメではないか。それは、一言でいえば、洗練されていない田舎者の悲哀である。そんなひどい目をみるのはオレたちがそれなりにホンモノの田舎者だからだ。

それにしても、このパラドールのレストランとカフェテリアの建築的構成は人に誤解を与えるまづさがある、くらいな苦情は言わせてもらいたい。何もかも自己責任で背負い込むのでは負担が大きすぎる。

ここでのただ一つの救いは、翌朝Qが何事もなかったように、カラッとしていたことである。そのレストランでコンチネンタルスタイルの朝食をする時には、Qはすでに何もそのキズを引きずっていなかったことである。これが唯一の救いだった。

旅行には人を殺す毒薬が仕込まれることもある。その毒による毒殺が生物的な命の断命でないのなら、立派によく死んで、少し賢くなって再生してくればよい。そういうことを学んだ一件だった。


 

 

3/3(月)タクシードライバーのカンヂード

3/3 アルハンブラのパラドールに1000にタクシーに迎えに来てもらって下にある地図の経路を通ってその辺を一回りしようという計画である。その辺といっても、目的は「フエリヒリアーナ」と「ミハス」の両村である。ともに「白い村」としての観光地だ。タクシーにはすでに   ”Occupied(=貸切)” の札が架けられている。先ずはグラナダの街を丘の上からひと眺めしてから出発だ。

タクシーの運転手の名前は「カンジード」。オレは人の名前がよく覚えられないたちなので、ここでは内心「股が痒くてカンジード!」と唱え、股に巣食う「カンジダ菌」から運転手の名前のカンジードを引っ張りだそうと試みた。だが、だめだった。すぐにトリコモナスだのインキンタムシだのバイドクなどが出てきて邪魔をする。仕方なく何回か本人にその名を訊いた。きいているうちオレもやっとのことでその顔からカンジードの名が出るようになったのだった。

このタクシーの手配はグラナダの「日本語情報センター」のヒロシにしてもらった。そういうわけでヒロシは、そういった日本人観光客を連れてくる者としてそのあたりではかなりの人気を誇っているようである。

「金は取れるのかい」と訊いてみたら「細かいものでもチリも積もれば、ってところですかね」との答えだった。そういうところに仕事を見つけるというのも日本人の生きかたとして面白いとおもう。落ち目とはいえ、まだまだ日本は経済大国だ。その国民は、だからよく旅行もする。そこに仕事が一つ成り立つというわけだ。

なにはともあれ、カンジードへの注文は「フェリヒリアーナ」と「ミハス」の観光である。

下の地図にあるコースをひとまわりして、またグラナダへ帰ったのは2030ころだった。2030-1000=10時間30分で、その中で自由時間が2(フェリヒリアーナ)+2(ミハス)=4時間。だから車が動いていた時間は1030-400=6時間30分くらい、ということになる。

そのフェリヒリアーナに着く手前に上の絵にある「白い村」に出くわした。なんという名かは不明だが、たぶん「ネルハ」だと思う。しかし、モロッコからスペインに渡って、もうこの手の景色にはだいぶなれたのでそれほど強い感動というものはない。

が、それにしても、なんだかすごい。その凄さとは人間が生きてゆく生き方の多様性の一つとして、そこにそういう村があるということだ。ブラジルのジャングルの中で人知れず暮らしている野生人がいるし、そこにそうして白い村をつくって生きているスペイン人がいるという生きる執念の凄さである。

そのネルハからちょっと山の中に入ると、目的のフェリヒリアーナがある。写真下。

みんなでバルに入ってビールをいただいた。そうは言ってもカンジードったら飲まないんでやんの。コカ・コーラなんかのんでさ。

「運転手だからかい?」
「うん」

そういってコーラを飲んでいた。けっこう真面目なスペイン人って感じだ。欠点は英語がまったくできないこと。スペイン語のみ。時間の打ち合わせなど「適当に分かったフリをしていたのではマズイ」話をするときはそのへんの英語のできるスペイン人を探して通訳してもらう必要がある。あとは、まあ、オレとQの「適当スペイン語」でなんとかごまかす。

オレとQnSはビールを引っかけた。つまみが何だったか忘れた。酔っていい気分になる。ここで二時間のフリータイムだ。さあ、村を歩こう。

左の絵に見覚え、というか既視感はありますか? オレ、あります。どやらこの絵を描く人はこのフェリヒリアーナの人らしい。その人用の美術館があった。美術館といっても、画廊のような感じで、十数点の絵が展示されて、値付けされて、買うこともできる。

描いた絵が売れさえすれば、絵描きというのはいい商売(失礼!)だとおもう。売れるんならオレだって絵描きになりたい。そして、この絵は売れるだろうと思う。だって、気持ちがいいし・・・。「スタイル」があって、それが安定しているし。買って、一枚持っていても、損はない(失礼!!)。

絵自体を見れば、建物の背景の風景などは中学生レベルだろう。それだっていいのだ。絵を描いて、その絵が他人とコミニケーションできるレベルのスタイルに行き着ければ、それで食える絵描きになれる。しかし、そこまで行き着ける人はほとんどいない。いたら世の中絵描きだらけになってしまうだろう。「絵を描くのが好き」なひとは世の中にとても多いのだから。

左の道をのぼってゆくと、下の絵に見える場所にでる。下の絵は有名な景色である。Qとオレがそこに出会えたのはちょっとして偶然だ。はじめからそこを狙ったわけではない。

この旅行で覚えた旅の手筋に「ここで一時間ほど時間があるんですが、どこか見るのにオススメの場所はありますか?」と、その辺の人に問いかけるという手筋である。いちばんいいのは観光案内所でそう訊くのがいいのだが、そうもいかないときは、そのへんの親切そうなご婦人にきくのがいい。左の道はそうやって教わった道である。

「そこを行ってみなさいよ! きれいな道だよ。村の誇りさ!」

と言って勧められた。

そうしてのぼって行って、目の前に開けるのが下の絵の景色。この絵はネットの中にいくつもあるし、GoogreMap の中にもある。

ちょっと湿りっけがあって海と空の境ははきりしないのが残念だが、目の前の海はスペインの地中海=コスタ・デル・ソル(=太陽海岸)である。

ここで、オレは黙って、例の、あのベッケルの詩を暗唱する。

ため息は風となって、空へゆく
涙は水となって、海へゆく
それじゃあ、ねえ、きみ、
捨てられた愛は、何になってどこへいくのか
知っていたら教えてくれないかい

よくこんなくすぐったいような詩を暗唱したものだと自分にあきれる。あ~あ。

捨てられた愛がどこへ行くかについては、すでにベッケルがその詩の中で答えているとは以前に言ったおぼえがある。捨てられれば、それは溜息となり、涙となるのだから、当然その詩にあるように、空にゆき、海に行くとするのが順当だろう。そういうことを何気ないように言うのが詩人というものだ。そして「詩人とは真実を言う言葉づかいをする人だ」などといって詩人はオレを嫌がらせるのである。オレは詩的な言葉づかいと宗教的な言葉づかいに太刀打ちできないのである。なんとかしなくっちゃ、と、焦るばかりでどうにもならない。

だから、わたしたちは空を求め、海を求めて旅をする。と、いえば蛇足にすぎる。過ぎたるは及ばざるがごとしだから、こうして言ったことの全体が及ばぬこととして無価値になる。あ~、言うんじゃなかった・・・。そんな後悔の積み重ねがオレの人生だった。なんて思いながらコノ景色を見るものだから、もうだめ。胸が一杯だ。涙が流れたかどうかについては、言えない。

そうして昇って行って、この景色を楽しみながら細い道を降りてくると、ちょっとしたステップ(踊り場)に陣取ってカメラを構えている若い女子がいた。声をかけようかどうか迷ったが、Qと一緒でもあることだし、やめておいた。

その女子はどうみても日本人なのである。韓国人や中国人とはかなり空気がちがう。以前イタリアのピサで日本人陶芸女子に遭ったことがあったが、その彼女も一人旅をしていた。ここでカメラを構えている、この女子も一人旅にみえる。

なんだか、日本人女子が頼もしい。そのうち日本でもきっと宰相が女子になる日がくるだろう。ひとり旅をする日本人女子を見ていてそう思う。たのむぜ、セニョーラス!

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マラガの町。ピカソはこの町にうまれて11歳くらいまでここで育ったはずである。その美術館もあるが、目的ではないので行かない。かしかに、こういうところにうまれて育てば、日本人などとは違う感覚が宿るだろうとおもう。それがどんな感覚かといえば「貧乏でもちっともくよくよしない」とでも言えばいいだろうか。

ミハスに行くにはここを通ってフエンヒローラに出て、そこから行く。カンジードがちょっとマラガを見渡せる丘の上に連れてきてくれて、見せてくれた。それはマラガにあるパラドール(=スペイン国営歴史建造物利用ホテル)の庭からだった。こんどマラガに来ることがあったらここに泊まってみたい。

「白い村」としてはミハスよりフェリヒリアーナの方の印象が強い。だからミハスの絵はもう掲げないが、ミハスには観光馬車と観光ロバ車があって、馬車の方は二人乗りで30€、ロバ車の方は15€である。ウチは当然15のロバ車で村内観光をしました。
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そうやって地中海沿いに走って一回りして来て、2030ころホテルに帰り着いた。すぐチックインして、ヒロシに教わったバルへ出かけて夕食にした。メニューは、ビール(タパスつき)+トルティジャ・デ・サクロクロモンテ(豚の睾丸&脳みそオムレツ)・・・だった。

あしたはバルセロナだ。シンコが登場するのが楽しみだ。

ちょっと付け加えると、もとの計画では今日の2100くらいに「ホテルトレイン」に乗ってグラナダ駅から夜行でバルセロナサンツ駅へ800くらいの着予定で行くはずだった。が、なんだかホテルトレインが運行されていない。そこで、グラナダにもう一泊して、明日の朝の900ころの飛行機でバルセロナに行くよう計画変更をしたのだった。

バルセロナの目的はガウディ作品を見ることとシンコにあって盛り上がることである。


 

3/4(火)Romaのシンコ登場

3/4 グラナダ~バルセロナ間の移動をホテルトレインで組んでくれたW.Tのアリコだったが、運行されていないのでは仕方ない。急遽飛行機にしてもらった。電車だと10時間ほどかかるが飛行機なら1.5時間である。

バルセロナかあ。最近バルセロナのあるカタルーニャ州は独立運動がされている。この州はかつてフランコ独裁政権のとき、かなりいじめられた。言葉だってカタルーニア語(=カタラン)をもっている。独立運動をするということは、スペイン国から独立して独自の一国となったほうが経済的にも文化的にも有利なのだという判断が彼らにあるのだ。欧州各国がEUとして統合され国境がほとんど意味をなくしていることがわたしたちの一種の希望(=世界に国境がなくなり、より自由になれるという希望)となる一方で、こうしたことも同時に起こっている。

そういえばウクライナのクリミヤでもそんなようなことが起こって国際問題化している。国境問題は一筋縄ではいかない。この地中海の東のつきあたりの、現シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、イラクなんかをみれば、紀元前数千年来、国境線の引き直しの歴史だった。

1100にバルセロナ空港について、ホテルへ直行した。チェックインは1600からだから、先ずは手荷物を預かってもらって、そこからシンコに電話した。元気そうな返事が返ってくる。

「いまさ~、近くのデパートで買い物中なのよ! 終わったらすぐそこへ行くから!」

という。

シンコが誰なのかについては、もう皆さんご存知のはずだ。Romaの観光ガイドである。そのシンコがなぜバルセロナにいるのかって、あなたは訊きたいわけでしょう。わかるわかる。なぜかと言うと・・・。

俺たちと会って、バルセロナで一緒に遊びたいというのがシンコがここに来ている一つの理由である。ことに間違いないのだが、この恋多きオンナは、別な理由ももっている。「恋多き」というように、それは彼女のボーイフレンドとのデートの場所として、このバルセロナを選んでいる(らしい)のである。その彼氏は、イギリスだかドイツだかに住んでいて、ここバルセロナで会おうということのようなのだ。

オレはシンコの恋愛についてあれこれいう資格はない。だが、なんだか心配になってしまう。オレからみると、シンコは恋に「入れ込み過ぎる」ようなのである。それで、男のほうが引いてしまう。そういう感じがする。

というわけで、オレたちのホテルのロビーに登場したシンコなのだった。

それにしたって、まだ、みんな昼飯を食っていない。QnSとしては、ここバルセロナに来れば、やってみたいのがサン・ジュセップ市場へ行って、そこのバルで一杯やることである。その旨シンコに言うと、そこからのシンコのフットワークの軽いこと、軽いこと。オレ達をつれて、あっという間に地下鉄へ案内した。

ホテルから地下鉄へ向かう道すがら、出ました! ガウディ建築=カサ・バトリョ! ホテルからだと五分くらいのところにある。hげ~。感心するオレ。絵本では見たことがあったが、本物初体験。

ガウディ建築を見ていて一番に思うのは「合理性」ということである。ガウディの建築に合理性はあるのだろうか、ということである。翻って、ここにわたしたちが合理性として考えているものは(浅薄な)「金銭合理性」のことを指しているのではないかという反省である。ちょっと喩え話を使えば、A~B2点間を結ぶ道は直線がいちばん合理的だとする考えに犯されてないかということである。

ガウディのように建物をつくれば、設計は込み入ってくるし、材料は余計にくい込むし、施工は困難を極め、手間暇の掛かり様は尋常ではないだろう。その生活空間を普通に「合理的」に作るのより3~5倍くらいの金がかかるのでないかと思う。その意味でのコストパフォーマンスは極めてわるい。誰が、どういう意図をもって、そのコストを負担するのだろうか、という疑問がガウディ建築にはつきまとう。農業で言えば、有機農業とか自然農法とかに対する疑問と共通する問である。

ガウディが天才だという言い方もあるが、上記の意味で、それは、その天才を天才たらしめた、ここスペインカタルーニアの凄さだろう。才能といったって日本でだったら東京都庁のタンゲケンゾくらいどまり。それを見に世界中から観光客がくるなどということは起こらないのである。そうしてみると日本の江戸、明治にガウディがいたとしても、落ちこぼれ間違いないと思う。現在の日本にもスター建築家は多くいるが、その才能はガウディとは違うものである。時と所に選ばれた才能が「天才」と呼ばれるものだ。人間のばあい、その時と所は文明の発達段階がつくり出している。

バルセロナにアグアタワー(=バルセロナ水道局事務所)がある。こちらは現代建築であるが、どうも感心しない。欧州では最近この手の公共建築物が多くなってきた。よくない。美しくない。みんな同じ。詩がない。

それは、一種のグローバリズムをその精神としている。その精神が美しくないということだろう。一つの時代と一つの地域と、そこに訪れたガウディという才能の幸運な一瞬の出会いに対する人々の郷愁が、世界中からそれを懐かしみにやってくる観光客だと言っていいのではないか。

「あたしの場合の旅行のポリシーは・・・」

とシンコが言った。なに? おまいの旅行のポリシーは?

「その街に住んでいる人みたいにすることね。電車、バスをつかって、スーパーで買い物して、好きな店で一杯やって、その街に住んでいる人みたいにする旅行がしたい」

あ~、そう。だけど、おまいの場合、その街に「住んでいる人のように」旅行するのじゃあなくて、実際その街に「住んでしまう」って旅行をしてきたのじゃあないのかい。今だって、ローマに住んでいるのだし・・・。その前はオーストラリアのどこかに住んでいたのだろう。そして、そうなるについては、だいたいおまいの場合「恋愛がらみ」となっている。

そこがシンコの旅行の危なさだが、これをオレ自身に当てはめれば、オレだって日本の山梨の山の中に「住んでいる」。この「住んでいる」については、RomaだろうがYamanashiだろうが共通だ。違うのは、どこから来て今すんでいるその場所にたどりついたかだけだ。

この「どこから来て、そこに行き着いたのか」を旅行(=旅)とすれば、旅行は人生の換喩になりうる。このことは、いまだかつて生まれた国を出ず、生まれた街を出ず、生まれた家を出ない人にも成り立つ。出発した場所が行き着いた場所になっているような旅行として、である。人生それ自体は複雑すぎたり、無意識部分が多すぎたりするので対象化するのが困難だが、旅行ならそれがだいぶ楽に行えるし、そのように対象化するのでなければ旅行それ自体をすることができないということによる。

それに、ローマからバルセロナにやってきて、その街に住んでいる人のようにバルセロナを旅行するとは、なにをどうすることなのか不明である。電車、バスを使って移動し、好みのバルを見つけ出してそこで一杯やることが、必ずしもその街に住んでいる人の誰もがやることではないような気がするからである。

まあ、いいや。そういうわけでシンコはあっという間にオレとQnSをつれて、地下鉄を使ってサン・ジュセップ市場に連れていってくれた。おまい、さあ、バルセロナなんてそんなに慣れていないのでしょう? おまいは、スゴイ! プロでんな~。もうバルセロナ地下鉄自由自在かぁ。

市場の入り口の乾物屋でQはすぐに生ハムを買った。しかし、ここには買い物に来たのではなく、昼飯を食いに来たのである。市場の中はなんだか混んでいる。

やっとのことでバルを探しだしたが、昼飯時で席がない。こういうとき、またシンコが実力を発揮する。ありもしない席をなんだかんだと言って、ごねながら、そこにつくってしまう。そして「乾杯(=サルー)!」。

こうしてシンコは約束通り、ここバルセロナでの再会を果たしてくれた。こういう女には幸福になってもらいたい。俺たちもできるかぎりのことはするからさぁ。恋多きオンナ、不幸な恋愛に落ちませんように! シンコについてはそこだけが心配だ。

???。そうしてそこで飲んでいると隣の席のご婦人が「おまえは、日本人か?」と英語でオレに尋ねてきた。そうです、と答えたら、その婦人はなんと、

「♪どんぐりころころ、どんぶりこ♪♪」

と歌い出したのである。なにぃ、このひと?

このご婦人はフランス人で、三日間の休暇を夫と一緒にスペインで過ごしているのだという。そういえば、なんだかそれらしい男がその向こうに座っている。そうなのですか。で、「どんぐりころころ」を日本人のオレに向かって唄うのはどういうワケなのでしょう?

「ワタクシワ、三歳の時から四年間日本に住んでイマシタ。そのとき覚えたのがコノ「ドングリコロコロ」デエス! ニホンジンみると、懐かしくナッテ、ワタクシ、ウタワズニハ、おられません」

ということのようなのだ。上記、変な日本語だが、このご婦人は日本語を話せない。ご婦人にとっては外国語である英語をつかって、そう話し、それを聞いているオレからみても英語は外国語なので、その妙チクリンさをそんなふうに書いてみた。

スペインでは、このご婦人だけでなく、何人かの外人さんから日本語で話しかけられるという経験をしたことを追記しておきたい。その中で、30数年前に日本人と結婚して、日本で男の子を出産し、のち離婚してスペインに帰って暮らしているというご婦人の日本語の流暢さは特筆に値する。その流暢さを使って話した内容は、日本に残した息子と、その息子の住む日本にまた行ってみたいという憧れだった。息子とは電話でよく話しているという。

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はい! 次! 昼飯を食って、次はガウディのグエル公園ゆきです。なにしろオレとQnSのバルセロナでの目的はガウディめぐりですから。そして、このグエル公園への道案内をしてくれたのもシンコです。よく分からないうちにまた電車に乗って、次々に続く長いエスカレータに乗って、行き着いたのが下の絵にある場所で、グエル公園はこの場所の下にありました。

最近、イエス・キリストの最後の言葉というのを覚えた。「わが神、わが神、何故、あなたはわたしをお見捨てになるのか!(=エロイ・エロイ・デバ・サバクタニ!)」である。

釈迦にしろイエス・キリストにしろムハンマドにしろ、それは誰なのかという問題は、オレにとって、づ~と未解決の問題である。

ほんとうに誰なんだろう。俺自身の父や母については、それはそれなりにそれとして知っている「自明のこと」なのだが、シャカ、イエス、ムハンマドなどとなると途端にどうしていいかわからなくなる。ところが上記三人に加えて卑弥呼だの徳川家康だの坂本竜馬なども、それが誰だかは同じように不明だと感じる。

しかし吉田茂とか昭和天皇とか美空ひばりなどでは、それがだれかという問に対する切迫感はかなりうすい。そのこと(=それが誰かということ)はかなり自明もような感じがする。

最終的に「それは誰か」と問うべきこととして、そのように問うている他でもない「このわたしは誰なのか」という問が残る。これは難問中の難問らしい。その難問に打ちひしがれているのが、ここグエル公園にやってきたオレだ。顔が悩んでいるのが見てとれる。

「そんなん、簡単よ! わたしってのはわたしのタマシイのことよ。 そのことをわたしがそれで納得すれば、その問題は、それでわたしにはオシマイだわ! ハイ、解決ずみ!」

というのがシンコの言い分で、これはオレが彼女にはじめて会って飯を一緒に食って話したときから変わらない彼女の「わたし観」だ。・・・。

ふふふ。よ~し。これをちょっとおちょくってみようか。シンコ、済まない。ちょと厭な気分にさせるかもしれないが、サルの妄想として無視してください!

まず、以下のように「人」を列挙してみよう。

㋐::人の列: ①天照大御神~②イエス・キリスト~③卑弥呼~④徳川家康~⑤昭和天皇~⑥美空ひばり~⑦あなた(=わたし)の父母~⑧あなた(=わたし)の兄弟姉妹~⑨あなた(=わたし)

そこで、まず、⑨の、あなた(=わたし)とは「わたしのタマシイのことである」とシンコは言うわけです。つまり、シンコはわたしとはそういうものだと知っている。だからオレにそう表明する。そうですよね。

このばあい、その表明が正しいか正しくないかは全く問題にしなくて結構です。もしかすると、わたしとはわたしという霊(タマシイ、たましい)のことではないかもしれない、それが「間違い」であるかもしれないという可能性を、まったく気にしなくてもいいですよ、ということと同意です。

上の「人の列」は一週間ほどまえにやった毎年の花見の席ではじめて言いました。というのは、オレはこのところキリスト教に出会っていて、その中でイエス・キリストとはどういう人かについて知るようになってきたからです。そして、では、なんでキリスト教になんか出会うようになったかと言うと、上の絵に見えている地中海沿岸諸国をめぐる旅行をするようになって、来年どこへ行こうかと考えて、その場所として「シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン」を考えるようになったからです。今回は地中海の西端の旅行をしたから来年は東端だ、とおもって、そこがどこかと地図で見ていたら「シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン」あたりだと知ったことが発端でした。

キリストはそのへんで産まれて生きて死刑にされて死んだ。ヘブライ語と類縁のアラム語を話す人だったのです。そのようにオレはイエス・キリストという人を知ることになりました。A.D(Anno Domini=主の年の)1年に産まれA.D34年(つまり34歳の時に!)に死刑にされた(歴史学的にはB.C3~A.D30とされている)。死刑へ至る筋道は、ユダヤ教のレビ達に「ユダヤ人を唆(そそのか)してローマ帝国からの独立を画策している危険人物」として訴えられ、それがローマ帝国の行政府に認められ死刑が許可されたからだ。そして遂にゴルゴダの丘にひっぱ出され磔刑にされた。そのときキリストが言った最後の言葉が上記の「エロイ・エロイ・デバ・サバクタニ!(=我が神、我が神、なぜあなたはわたしをお見捨てになるのか!)」だった。最後の晩餐をしていた弟子たちは全てがイエスを裏切ってしまい、この最後の言葉を聞いたのは何人かの女弟子たちだけだった。こうして、キリストがその教えを布教した期間は2年と6ヶ月ほど。

そのキリストの教えが何故世界宗教にまでなりえたのか。

裏切った弟子たちのうち、なんとかという人は、その裏切りの苦痛に耐え切れず精神のバランスを崩して自死する。しかし、このキリストの教えを布教し世界宗教にまで広めていったのは、そのイエスを裏切った弟子たちだった。なんで? 裏切ったくせに?

その裏切りが許されたからです。誰に? 当のイエスによって。あれ、イエス、死刑にされたんじゃあなかった?

弟子たちの「心のうちに」イエスは復活して、そこで裏切った弟子たちを確かに許した。このように許すことを「アガパオ」といい、その名詞形が「アガペ」。この許しのこと(=アガペ)がキリスト教でいう「愛」の定義だ。

では、なぜ弟子たちの心のうちにイエスは復活しえたのか。それは弟子がキリストとの伝道の期間を共にして、そのように許す人がイエスだということを、その布教の期間にイエスの言行を見聞することによって刻印されたから。だから、イエスは弟子たちの上に復活しえた。

人は責められるよりも許された時のほうがその罪を深く認め、本格的に悔い改められる、というわけ。ソクラテスなんかだと、相手をせめてせめて責めまくって「オレのほうがお前よりましだね。だって、オレ、自分が馬鹿だって知っているけど、お前それを知らないもんのね!」なんていう。

 

・・・だけど、そういえば、ソクラテスも死刑にされた。どういうわけなのだろう。二人ともこの地中海の東の果てのひとだった。

つまり、そういう人としてオレはイエスという人を知るようになった、といういきさつをここまで言ってみましたです。

ね! これでしょう! 「わたし」というのが誰なのかという場合の「わたし」という「人」もこれと同じ仕組みでわたしたちはそれが誰かを知るようになるのではないか、というアイデアが閃いた。んです!

さて、ここで、こんどは「天照大御神」。いきましょう。そこに「神」とあるように、アマテラスは人ではないが、人に似せて思われている(=表象されている=この場合は「擬人神観されている」)何か(=神)だ。擬人神観されているわけだから、この天照大御神に対しても「それは誰?」と問うていい。それに、わたしたちは、天照大御神についてまったく知らないというわけではなく、なにがしか、それがどういう「人」かについて知っている。どうしてアマテラスを、そのように知るようになったのかという問題である。ここが解ければオレがイエスは誰かを知ったように、わたしたちがアマアテラスは誰かを知ったように、このわたしが誰かを知る、その知り方が分かるのではないかという見込みなのだ。

花見の席で「それは・・・」と言ったのはS.ヨーコだった。「言葉によってだよ!」と。

そう。たしかにそう。わたしたちは言葉によってアマテラスがどういうものかについて語られたのを聞いて、それをそういう人だと知った。だから、その言葉とは何なのかと悩んでいる。

発話されて空気が振動する言葉にしても、ペンをもって紙にかかれたインクの染みである言葉にしても、こうしてPC画面の上にある文字列である言葉にしても、それはかつて「誰かのアタマの中にあったもの」の現れである。

これも結構あやしくて、その反対に、言葉は表明されたことによって、その言葉を表明した人の「アタマの中にあったもの」とされるのが事の順序かもしれないのだが・・・。

こうして言葉はかなりきわどい。

際どいとは言いながら、形而上~形而下という二分法に従えば、言葉はどう見ても形而上に属するものだ。典型的には形而上に点や線や面があるが、そんなものは形而下には、ない。ないが、その形而上の点や線や面を使わなくては形而下にある「もの」を扱うことができない。

上記の意味においてではないが、それと似たようなことを言ったのが、これまた、いま目の前にしているその地中海の東端の国ギリシャの紀元前***年紀のソクラテスの弟子のプラトンだった。プラトンはそのことを「イデア」と言った。それを受けて、プラトンの弟子のアリストテレスが、そのイデアは形而上(=メタフィジカ)にあることとしたのだった。それは二千年以上前のことだったが、それを形而下との関係においてリニューアルしてみたいというのがオレの欲望である。

タレス、~、ソクラテス、プラトン、アリストテレスと来て、そのお隣ではユダヤ教のもとにイエス・キリストが出てムハンマドが出て、その後の人間の運命(=文明の形成の仕方のこと)に抜き差しならない方向性を与えた、そのなれの果てにわたしたちは生きている。この間に人々の間にペストは流行ったし、この間はフクシマで原発がはねた。彼らが知らないことをこの2000年の間に私たちの先輩は経験してきた。その経験を参照して・・・。

と思う。

ここはレイアール公園という。その公園の周りにはレストランが何軒かある。そのうちの人気レストラン=ラス・キンザ・ニッツに案内してくれたのも、また、シンコだった。時間としてはここで2000時くらい。

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3/5(水)ナガ葱とデンデン虫とイベリコ豚。ガウディだって? よいせやい!

ついにやってきてしまった・・・。聖家族教会だ。でも、一体、「神聖な家族」とはどういう家族なのだろうか。

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スペインで飲食店というとバール、タベルナ、レストランくらいの分類になる。ここは「カンチョラーダス」(=www.canxurrades.com)という名のレストランである。といっても、感じはタベルナに近い。HPではレストランとして紹介されているが、実際の店の看板は”Taberna(=居酒屋、酒場)”となっている。

タベルナから「食べるな」を連想して「食べるな!飲め飲め!」といえば日本語のダジャレだが、きょうはスペイン最後の夜。場所はバルセロナ。そこにシンコがこの「カンチョラーダス」を見つけてきた。長くスペインで観光の仕事をしてきて、最近ローマに転勤になった同僚の紹介だそうである。

シンコは焼きネギを食いたがっている。QnSはイベリコ豚を食いたがっている。オレはカタツムリを食いたがっている。三人とも食いたいものがみんな違う。違いはするが、それらはみんなバルセロナの名物食材である。なんと、この店のパンフレットにはその三つが揃って紹介されているではないか! 注文は簡単。このパンフレットの絵を指差してエスト・イ・エスト・イ・エスト!(=これと、これと、これ!)でおしまい。飲ものにビノチント(=赤ワイン)を一本注文してカンパ~イで夕食を開始したのだった。

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3/6(木)さらばバルセロナ、さらばカタルーニア、さらばスペイン、また何時か会おう!

きょうの1745発の飛行機に乗って、このバルセロナからイスタンブルまで行き、そこで成田行の飛行機に乗り換える(2205)。それまでちょっと時間があるので、ガウディのカサ・ミラと、ごく初期のカサ・カルベを見学しよう。

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バルセロナはカタルーニア州にあり、そのカタルーニヤ州はスペインの中にある。そこから日本に帰るということはバルセロナに別れを告げ、カタルーニア州に別れを告げ、スペイン国に別れをに告げるという順序になるのだ。