アドリア海東岸旧ユーゴスラビア

編集中 旅行記(3) 2014-12/20~作業中~??? 旧ユーゴスラビア旅行記

旅行に出るまで

2014-12/20 また旅行記をやってみます。実をいいますと、つまらぬ野暮用が身にふりかかって200万円ほど散財してしまって、こりゃあもう二三年旅行もお預けかな、と思っていたところ、傍らに暮らしている妻のQnSが、

「なに~! それじゃあ、アタイがおごってやるよう!!」

というのです。どこにそんな金を隠し持っているんだろう・・・。まあ、いいや。おごってもらおっと! というわけでまた旅行にいけそうなのです。

で、何処へ?

シリア・レバノン・イスラエル・ヨルダン辺りを旅行してみたかった。今年は地中海の西の果てのジブラルタル海峡を横断したので、来年はその真反対の東の果て・・・そこが、シリア・レバノン・イスラエル・ヨルダンでしたから。

でも・・・。ですよね。そこ、紛争地帯です。

やめておきます。

身の安全がどうたらこうたらというより、そこで苦しんでいる人たちの横を旅行だなどと良いご身分をさらして行く自分に嫌悪感があるからです。

2015-1/20 みなさん! そんなこと言ってボーとしてたら年もかわり2015年になってしまいました。そしてオレももう66才になりました。ついに本物の老人の仲間に入りです。

で、旅行の行き先は旧ユーゴスラビア(=現:スロベニア+クロアチア+ボスニア・ヘルツェゴビナ+セルビア+モンテネグロ+マケドニア)です。

*

セルビアの中には「コソボ地区」と呼ばれるセルビアから独立して一国になろうとしている地域もあります。欧州最貧国のアルバニアもそこには見えています。

アルバニアといえば、オレがまだほんの子供だったころラジヲの北京放送から甲高いお姉さんの声で「・・・、・・・、アフリカ人民、アルバニア人民への熱い連帯の挨拶を送るものである!!!」というエールが流されていたことが思い出です。中ソ対立が表面化してくるのが1960年代からで、アルバニアはこの対立の中国側についた国でした。のち同国はその中国と敵対関係になり、さらになんだかうやむやになり今日に至っています。そんな地域へ旅行するなんて感慨ひとしおです。

それに、旧ユーゴスラビア自体がかなり独自な社会主義体制の国でした。一言で言えば「個別労働組合の自主管理による経済運営を標榜する社会主義国家建設」をめざしていた。この「個別労働組合」を「個別営利企業」と概念交換してみるとなんだか私たちが日々暮らしているこの資本主義社会と同じことになるのではないか?。そこが計画型のソ連とも中国ともちがう社会主義でした。なのでその行く末が注目されていた。

しかし、このユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1992年に解体を完全に完了し現スロベニア+クロアチア+ボスニア・ヘルツェゴビナ+セルビア+モンテネグロ+マケドニアへと連邦を構成していたそれぞれの邦(くに)へ分裂し、「ユーゴスラビア」と名乗る国家は地上からなくなりました。東ドイツともソ連ともちがう社会主義国解体の具体例です。

その南はギリシャ。そのまた南がトルコ。更にその南がシリア⇒レバノン⇒イスラエル⇒ヨルダン。その南はついにエジプト。そこから地中海沿いを西に行けばリビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ。

それらはみんな地中海を取り囲む国々です。

ことしは、その中の旧ユーゴスラビアをQnSのおごりで連れていってもらうという手筈になりました。地中海沿岸諸国の旅の三回めです。

この旅行のきっかけは森進一の歌う『冬のリビエラ』で、そのリビエラというところへ行ってみたいと思ったことでした。そのきっかけから地中海沿岸諸国全体への興味となったのでした。

2015-2/15 前二回は行きたいところを自分で決めて旅行会社に相談してコースを作ってもらって行く旅行でしたが今回はおまかせ。ちょっと不満ですがQnSのおごりだし、手配もQがしてくれているので文句はいえません。貧乏なオレが行けるだけでハッピー!

取り扱い会社:: 阪急交通社
旅行名:: 「こだわりのクロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツェゴビナ・セルビア・モンテネグロ五カ国周遊10日間・添乗員つき」。
値段:: 旅行会社支払いが209,800円~389,800円/人。ウチらの場合209,800円/人。シーズンオフ値段なんだ。きっと。

旅程::  以下の通り。

3/3::1日目【13:30成田発アエロフロート261便モスクワ行】⇒(モスクワ乗り継ぎ)⇒【21:05モスクワ発アエロフロート2092便ベオグラード行】⇒①22:30ベオグラード着(泊)

3/4::2日目 ①ベオグラード(○セルビア正教会、○ベオグラード要塞、○聖サヴァ教会)⇒305km⇒②サラエヴォ(泊)

3/5::3日目 ②サラエヴォ(○カトリック大聖堂、○セルビア正教会、○モスク第一次世界大戦の発端サラエヴォ事件現場○ラティンスキー橋)⇒120km⇒③モスタル(○石橋、○旧市街)⇒140km⇒④ドブロヴニク(泊)

3/6::4日目 ④ドブロヴニク(○ピレ門、○オノフリオの大噴水、○フランシスコ会修道院、○プラツァ通り、○大聖堂、○旧港、○ルジャ広場、○スポンザ宮殿)⇒100km⇒⑤コトル(○旧市街)⇒100km⇒④ドブロヴニク(泊)

3/7::5日目 ④ドブロヴニク⇒220km⇒⑥スプリット(◎ディオクレティアヌス宮殿)(泊)

3/8::6日目 ⑥スプリット⇒27km⇒⑦トロギール(○聖ロブロ大聖堂)⇒60km⇒⑧シベニク(○聖ヤコブ大聖堂)⇒188km⇒⑨プリトヴィッツェ(泊)

3/9::7日目 ⑨プリトヴィッツェ(◎プリトヴィッツェ湖群国立公園)⇒270km⇒⑩ブレッド(泊)

3/10::8日目 ⑩ブレット(ブレッド島聖マリア教会△ブレッド城)⇒105km⇒ポストイナ(◎ポストイナ鍾乳洞)⇒200km⇒⑪ザグレブ(○聖母被昇天大聖堂、○石の門、○共和国広場、○聖マルコ教会)(泊)

3/11::9日目 ザグレブホテル⇒18km⇒⑪ザグレブ空港【11:05ザグレブ発アエロフロート2041便モスクワ行】⇒(モスクワ乗り換え)⇒【20:00発アエロフロート264便成田行】⇒・・・
3/12::10日目 ・・・【11:40成田着】

う~ん・・・。パック旅行ってこういう事になるんですね。それは商品だから万人受けするようにありとあらゆる名所旧跡を盛り込むってことなんだ。

行って、どんな感じか味わってきます。

2015-2/14 憧れは遠く:: 現地の空港へ着く日と、現地を離れる日だけが決まっていて、その間はなにも決めていないっていうのが憧れる旅行です。下の例で言えば 「3/3にベオグラードに着いて3/11にザグレブを発つ」 だけを決めておいて、中の予定はなにもないってやつ。

ホテルの予約も電車の予約もレストランの予約もなにもない。現地に行ってその場で調達しながらして行く旅。いつかそういう旅行をする人になりたい。でもまだ遠いなあ。今のところそんなチカラないし。

若い人だったらBPとかになって平気でするんだろうけど。・・・そうでもないか。

レンタカーを放り出して電車の旅に切り替えた3年前のイタリアリビエラ旅行なんてそれに近かった気がする。そういうのが普通にできる人になりたい。それで充分旅を楽しめる人になりたい。

上の地図なんか見ているとイタリアのベネチアから始めてスロベニア⇒クロアチア⇒ボスヘル⇒モンテネグロ⇒アルバニアとアドリア海沿いを南下しながらイオニア海に入りギリシャのアテネまでいく旅なんか憧れるなあ。自力で交通機関探しながらね。

詩とかできそうだし。帳面につけたりして。

次回はホントにやってみようかな・・・。死なずに帰ってこられればいいんだもんね。やれば出来るかもな。

 


旅行に出ました


 

一日目・3/3(火):: 成田からモスクワ経由でベオグラードへ移動


 

二日目3/4(水):: ベオグラード観光⇒午後サラエボへ移動

旅行はこんな形で始まりました。

何かと差し障りのあるようなことも言うことになるかもしれませんので、同行者の顔など出せるものではありません。あとで抗議などされて謝るなどというのもいやですから顔はかんべん。それにオレがこんなサイトを持って有ること無いと書いているなんて知らないからそういう心配もないとは思いますが、念のため。

旅行も面白かったのですが、このようにして一緒に旅行する25人の集団とそれを取り仕切る添乗員アズサの挙動も面白かったですよ~。

この25人の集団の中にオレとQnSも入っています。

率いているのは添乗員アズサ(女子;添乗歴15年。独身。「白馬の王子」に何度かすがりつくも振り落とされっぱなしの「落馬姫」。コツマ南京型美人。大分県産)。

観光地では必ず現地ガイドがつきアズサがそれを通訳するという形で事が運ばれた。アズサとガイドとのやりとりは全て英語でした。

ドイツとスイスを除いて欧州では観光ガイドは「ガイド免許」がいるそうである。ローマの観光ガイドのシンコも試験をうけるとか言っていたが、この免許を取ろうとしているんだろうか。日本人でそんな免許持ってるやつなんてそんなにいねえだろうな。取れたんかな、シンコ。

ドイツとスイスではだれが観光ガイドやってもいいそうです。

で、で、現地ガイドを入れずに勝手にやるのが中国人団体なんだって。なんだかケチっぽくてみっともない感じがします。日本にくれば爆買いなんかするんでしょう。4~50年前の日本人の農協観光を思い出します。これって発達段階で一度は通る道?

3/24より記入(ベオグラードの続き)
上の絵の、みんなでゾロゾロ昇って行くのは旧ユーゴスラビアのチトー大統領記念館。時間が早く(8:30くらい)締まっていたので庭を見ただけで中はパスでした。

上の絵はベオグラード市内。時間的に出勤なんだろう。それと、欧州の大きな都市には必ず路面電車が走っている。これに乗って自由に旅行が出来るやつは通だ。旅行通。

サバ川を挟んでベオグラード市内をみているのが上の絵。ベオグラードって言うけどベオグラードとはベオ(白い=雪が降って白くなった)+グラード(都市、街、町、城)って意味だそうです。

スラブ語圏には『~~グラード』って都市がたくさんあるでしょう。たとえばペトログラート、レニングラート、スターリングラート、ボルゴグラート、カリーニングラート(以上ロシア)、チトーグラード(モンテネグロ)、そしてこのベオグラード(セルビア)。

チトー記念館からバスで10分ほどのところにあるセルビア正教会聖サワ大聖堂が右の絵。この絵はネットの中でよく見かけるでしょう。中にも入りました。中はまだ建設中でした。仕上がればすごくキレイになりそう。資金はあまり無さそうでしたがコツコツつくっている様子です。

いま「セルビア正教会」と言いました。

「国名」に続けてこの「正教会」を付けるとグルジア正教会・日本正教会・ブルガリア正教会・ルーマニア正教会・ロシア正教会などの個別教会がでてくる。しかし教会全体の名はあくまで単に「正教会」。そして正教=”Orthodox”(オーソドックス)ってことらしい。むかし東ローマ帝国の国教として発達し、今日では東欧において優勢をなすキリスト教が正教(オーソドックス)だ。

というわけで、セルビア正教会聖サワ大聖堂です。

キリスト教といえばこの「オーソドックス」と「カトリック」と「プロテスタント」ですよね。ほかにも細かいのは数え切れないほどあるが大きく分けてこの三つ。この三つの区別がつくと欧州旅行はかなり楽しみ方が変わりますでしょう。なにしろ欧州はそこいらじゅう教会だらけですから。

キリスト教ついでに今少し宗教話をすると、キリスト教はユダヤ教の中から出てきたものです。ユダヤ教の教典は「旧約聖書」。ですがキリスト教のそれは「旧約聖書+新約聖書」。それがそのことを示している。

イスラム教はこの「旧約聖書+新約聖書」の伝統の中から7世紀に地中海アラビア語圏に成立してくる宗教である。

上のセルビア正教会の絵はパターンとして記憶しておくといいですよ。これをパターン認識していればどこに行っても正教会は見分けがつきます。みんなこのパターンのバリエションだ。

イスラム教の教会は一目みればあの特徴的なミナッレット(尖塔)とドームで分かります。

なんだか三角形に尖ったやつはカトリック。実をいうとオレ教会を見てカトリックとプロテスタントの違いを言い当てる見識はありません。まだまだ初心者のオレだ。

ユダヤ教の教会は「シナゴーグ(ヘブライ語: בית כנסת、英: synagogue)」と呼ばれます。外観は正教会に近い。???。でもないか。よくわかんない・・・。一筋縄でいかない。ポストモダンなシナゴーグまである。

『旧約聖書』って言いましたけど、ユダヤ教の人が自分の宗教の教典に『旧』なんてつけるはずありませんよね。それを『旧約』っていうのはキリスト教の立場から見てのことです。ユダヤ教自身の立場からはこの旧約聖書は『ミクラー』とか『トーラー』と呼ばれます。決して『旧約』などではありません。ミクラーでしかないんです。ユダヤ教からは旧約も新約もなく神の言葉として『ミクラー』があるだけです。

よけいっ事を付け加えるとウチダ・タツルの師のエマニュエル・レヴィナスはユダヤ人でユダヤ教のレヴィ(祭司階級の一つ)です。そのレヴィナスは例のあのホロコーストの生き残り。この立場から物を言う人であることは『夜と霧』の著者のヴィクトール・フランクルと同じだ。

でもね、キリスト教始祖のJ・キリストは、このユダヤ教のレヴィたちが古代ローマにおいてローマの検察に「ローマ帝国への反乱を画策している不届き者であるから死刑にすべきだ!」と訴え、それをローマ検察がみとめて死刑判決が出てレビたちによって死刑にされたのだ。そうしてイエスはゴルゴダの丘に引っ立てられて行った。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の根は一つ。一つの根が根深く地中海をとりまく。

ギリシャ神話とかローマ神話といわれるようにかつて古代では地中海沿岸は多神教世界だった。が、それが上記三つの一神教にとって変わられる歴史を私たちは経験してきていることになる。

・・・。

いまベオグラードにいるわけだから、ぜひしなければならないのが「川」の話しだ。なに川だと思いますか。

ドナウ川ですってば。ダニューブ川とも呼ばれます。

ヨハンシュトラウスの「美しく青きドナウ」って曲名で知られるドナウ川です。これからご案内いたしましょう。

でも、ちょっと待ってて。この曲を後ろで流しながら読んでもらいたいよ。

準備いい? じゃあ行くよ。
Y.T音楽が削除されましたので取り下げます。

ドナウ河とサバ河の合流地点。

これドナウ川です。左から流れこんでくる濁った川はベオグラード市内を貫いて入ってくるサバ川。ドナウの方が幾分キレイだが、ドナウ自体もそんなに青くはない。濁ってる。

川向こうに見えている森は島になっていて、その名もなんと「戦争島」。すごい名前だ。「戦争島」だもんね。それを見ているこちら側は「ベオグラード要塞」だしね。戦争だらけって感じだ。

じゃあ、ドナウ川って源流がどこで河口がどこかご存知ですか。

源流::『ドイツのシュヴァルツヴァルト地方にあるフルトヴァンゲンの郊外から流れ出す川はブレク川と呼ばれ南東48㎞下流のドナウエッシンゲンの街で北から流れてきたブリガッハ川と合流する。この地点からドナウの名を与えられる』(Wiki)。

河口::言わずと知れた黒海のドナウデルタ。このデルタでいく筋かに分流して黒海に注ぐ。

全長は2,850 km。欧州で二番目に長い川。

じゃあ、いちばん長いのは? ボルガ川3,690kmです。ボルガも黒海に注いでいます。「カスピ海に注いでいる」って話もあるけど、まあ、分流して両方に注いでいるってのがホントのところでしょう。

なにが凄いんだか分からないけどこういう時は「凄いね黒海!」って言いたいじゃない。だからオレはボルガもその河口を黒海にもってきたかったんだ。

ドナウはドイツのシュバルツバルトの森に発しオーストリアを抜けスロバキアを通りここセルビアのベオグラードを掠めハンガリーに行きそこからルーマニアとブルガリアの国境となって最後またルーマニアに入ってドナウデルタを作って黒海に注ぐってわけ。

オレさー、上の段の文、地図見ずに書いたんだよ。何だか三年で欧州の地理に詳しくなったなーって自分に感心するぜ。でも、上の文、何言ってるか分かんないでしょう。上の文からその地図が思い浮かぶヤツがいたら、それはオレよりすごいです。オレ書きはしたけど、そんなこと言われたって、その文から地図は思い浮かばないから。

じゃあサー、欧州三番目に長い川はなに? ・・・オレ、知らね!

ドナウ川を目の前に見ながらあれこれこんな解説をしてもらっていたわけですが、前にも言いましたように、ここは「ベオグラード要塞」って場所です。ここには「戦争博物館」ってのがあって、上の絵はその博物館の前庭。大砲などはすべてホンモノ。だそうです。ま~ず戦争に明け暮れる地域なんです。50年として平和は続かない。ほんの二十年ほど前まで「ユーゴ内戦(ユーゴスラビア連邦の解体にともなって発生した民族紛争)」をやってた。

そのユーゴスラビア連邦自体がその前の1941〜45年の枢軸軍(ドイツ・イタリア軍)に対するヨシップ・ブロズ・チトーが率いるパルチザン戦争が勝利を収めてできた国だったし・・・。その前も、またその前も、そのそのまたまた前も・・・戦争と紛争ばかり。

なんだか気持ちが暗くなる旅行の始まりです。

要塞の出口には土産物屋が何軒か出ていた。気持ちが暗くなるのはいけないと思って土産物屋を覗いていたらおもちゃのリコーダーがあったので買いました。何本か吹かせてもらいましたが音程が正確に出るものは皆無。それでもご愛嬌に買いましたよ。上の絵のおもちゃのやつがそれ。 3ユーロでした。

セルビアの通貨はディナール(DIN)。1€=約113DIN勘定。1DIN=約1.17円勘定。

ということは3€=113*3=339DIN。339DIN*1.17=396.63¥。約400円だ。

通貨はディナールなのにユーロで平気で買い物ができました。

ベオグラードの北には木製おもちゃを作る有名な村があるのをTVの旅行番組で見た覚えがあります。きっとそのへんで作ったおもちゃでしょう。

おもちゃでも音階がしっかりしたものをつくった方が村ののちのちのためになると思いますが、いかがでしょうか。H.パーセルのロンドを吹いてみましたがこのおもちゃでは苦しいです。上の二本ならバッチリなんですけど。でも400円じゃあしょうがねえか・・・。

ああ、また重苦しく暗くなってる・・・。

これでベオグラード観光はおわり。

途中で昼飯を食って一路305km先のボスニア・ヘルチェゴビナのサラエボへ向かいます。バス運転手マルコ、頼むぜ!

右の絵がセルビアからボスニア・ヘルツェゴビナへ出入国するための検問所です。全員のパスポートをアズサが預かって運転手のマルコと一緒に検問事務所へ行ってハンコをおしてもらってくるのでした。

今回は「五カ国周遊」ですから何度も国境を出入りします。でも、出入国手続きはどこでも上記と同じでした。日本人観光客の場合は審査はそんなようなものだそうです。中国人の場合は検査官が乗り込んでくるそうです。なにしろ旅行途中で行方不明になる中国人なんかもいるようですし(アズサ談)。

でも、こんなところで母国籍を離れてどうやって食っていけばいいのか心配です。誰か闇で雇ってくれたりするんでしょうか。それじゃあまるっきりジプシー化してしまうではありませんか。

どこの国家の国民でもない者として生きるのって大変だと思います。そうなったその人に人権ってあるんでしょうか。あるとして、その人権をだれが擁護してくれるんでしょうか。その人を殺したら、殺した人は殺人罪に問われるでしょうか。問われないと思いますよ。だって、その人、人間として登録されていないんだもの。人間の形をした野生動物だもの。

ベオグラードではジプシーに遭いませんでした。きっとそこはジプシーが生きていけない場所だったのだと思います。モスクワにもきっとジプシーはいないだろうな・・・。

イタリア、フランス、スペインにはいたけどなあ。ジプシーはやばいけどいないのは寂しい。

上の絵はベオグラードからサラエボへ向かうバスの車窓風景です。穏やかできれいなんだけどねえ。

このあとすぐ雪が降り出し、雪の山道をサラエボへ向かうのでした。QnSは隣で車酔いしはじめています。ああ!

 


 

三日目・3/5(木):: (サラエボ~モスタル~ドブロクニクまで)

ボスニア(=ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボにきている。着いたのはきのうの19:00くらいだった。外は雪が降っていた。今も降っている。道がぬかるんでいる。かなり重い雪だ。

1984年にはサラエボで冬季オリンピックが開かれている。その時はまだ国名はユーゴスラビアだった。いまはボスニア・ヘルツェゴビナ。冬季オリンピックが開かれた場所に雪が降るのは納得できる。

サラエボのホテルからみる廃屋

泊まったホテルの名は「hotel radon」。その七階の自室から目の前に廃屋が見える。なぜその建物はここに見世物のように放置されるのか。いちばん考えられるのはその建物の持ち主がかつて難民となりまだ帰ってこないということだが・・・。この絵が青いのは窓が青色ガラスだから。

サラエボ:: この地名をきいて幸福な印象は持てない。それでもなにか言ってみたい。言わなければこの旅行にきてサラエボを観光している意義がない。

しかし、なにから言えばいいのだろうか。第二次世界大戦後最大最悪の民族紛争だったのがボスニア紛争(=ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)でそこでは20万人(10万の数字もある)が虐殺され200万人(180万の数字もある)が難民化した。難民化した者のうちまだ数十万人の行方が知れないという。国道沿いの穏やかで美しい町並みのあちこちに、あるじを失い廃屋になっている家が点在していた。

大体、ボスニアの人口なんて390万人弱でしかない。そこでの上記の数値だ。いかにひどかったか分かる。

自然災害でもペストのような疫病でもなく人為としてこういうことをやるのが人間化したヒトなのだ。

書家で詩人のアイダミツヲが『にんげんだもの』などという詩を揮毫している。

つまづいたって
いいじゃないか
にんげんだもの

だそうである。こういう詩を額に入れてかざって自分を励ましている人の気がしれない。オレはアイダミツヲが嫌いだ。

ボスニア紛争での人間の「つまずき」を「いいじゃないか」などといって許し、そのように許す理由が、それをしたのが「にんげんだから」ではどこにも救いはない。明らめ(諦め)もない。

アイダのそんな科白で通じ合える人たちの間での間抜けな受け狙いとしか感じられない。

アイダミツヲって詩人は馬鹿じゃないのかって思う。それを有難がって唱え「生きる力」にしている人たちのオメデタさに辟易する。なんという反知性だろうか。そんなものたちの仲間になるのは御免こうむりたい。

しかし、受けを狙って、受けるだろう科白を言ってみて、それが実際に受けて、それで利得できるのだとすれば、その意味でその詩人はバカではない、かもしれない・・・。しかしアイダミツオは詩人として何を利得したのか。

そういえばウチのトイレにもなんだかそんなような額がかけてある。

泣いたり
怒ったり
笑ったり
ずっと、ずっと、あなたらしくいてネ

とある。これはアイダの詩ではないだろうが反知性的であることに間違いはない。こんな額、外して処分してしまいたいのだがそれを掛けたのはQnSで、それをそこに掛ける理由もオレは知っているから、そうもできない。トイレに入るたびにこの「お題目」みたいなものを唱えるはめになりオレのなけなしの知性が磨り減っていく。

必要なのは「人間であるとは時にもっとも邪悪なことである」という認識だ。その認識を日々の生活のごくこまごまとした対人関係の中にまで貫徹させ、そこに自分の邪悪さを見つけ出して痛むことだ。その痛みが「人間であることの邪悪さ」をいくぶん和らげるのではないだろうか。

「自分の邪悪さ」を痛むことが大切である。「他人の邪悪さ」を指摘してそれを成敗しようなどとしてはいけない。このボスニア紛争だって全編「他人の邪悪さの成敗」によって成り立つものなのだからである。

以下にこのボスニア紛争についてごく手短にまとめておく。

期間::1992年3月5日。ボスニアがユーゴスラビアに対して独立を宣言し、独立した。この瞬間にボスニア紛争が始まる。そして1995年『10月13日に停戦が実現して戦闘が終結した』(wiki)。紛争期間は三年半。

いまは2015年だから、停戦の実現は2015-1995=20年前のことになる。そこから二十年たった今、日本の観光会社主催による『こだわりのクロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツェゴビナ・セルビア・モンテネグロ五カ国周遊10日間』の旅の客となってオレはこの場所を観光している。というわけだ。

いきさつ:: 上記のユーゴスラビアからの「独立」に反対するボスニア内の勢力が武装蜂起したことによる。

その勢力とはボスニアの人口の1/3を占めるセルビア人勢力である。

ボスニア内のセルビア人はユーゴからの独立など望んでいなかった。彼らの生活の安寧はユーゴスラビア国家の国民として暮らすことのうちにあると観念されていた。

なぜなら、独立を推進しているのはこの国の人口の約1/2をしめるボシャニック人だったからである。

ボシャニック人はイスラム教徒だった。ボシャニック人は自分達が主人公になれる国を、自分が主権者になれる国を、つくりたい。そのための独立なのである。ということはユーゴスラビア国民としては彼らは民族的不利益を蒙っていたという気持ちあがある。

しかしそうなれば、セルビア人はこれからどういうことになるのか。セルビア人はオーソドックス(正教)である。自分達が危ない。こんな独立は潰さななければならない。幸いユーゴスラビアの本体はセルビアであり、ユーゴ全体ではセルビア人のほうが多数である。

ユーゴスラビア自体もこんな独立は苦々しい。こうしてボスニアのセルビア人の武装蜂起をユーゴが援助したのである。

もうチトーはいない。ユーゴスラビアの大統領としていたのはセルビア民族主義者のミノシェビッチだった。

他方、多数派ではあってもそのボシャニック人に武器を援助するものは誰もいなかった。こうなれば結果は明白。セルビア人武装勢力によるボシャニック人の虐殺となるより仕方ない。

ボスニアの首都サラエボは盆地の町である。周囲の丘をセルビア人武装勢力に取り囲まれ外部からの一切の交通が3年半のあいだ遮断されたのだった。それに、サラエボに住んでいたのはボシャニック人だけではなくセルビア人もクロアッチア人もいたのだった。こうしたなかで彼らは生きなければならなかった。

これが今オレたちが観光しているサラエボの町の20年前の姿だった。

ここらへんのことはテレビやラジヲや新聞で報道されたからオレの記憶にもある。

雪のサラエボ

20年後の平和になったこの町に来てオレたちが観光しなければならないものは何なのか。そのことについての案内はボシャニック人観光ガイドのハサンからも添乗員のアズサからもなかった。

アズサが語ったのはそのような状況の中で女子がどんなレイプをされたかだった。

女子はまとめて管理されレイプされた。そして妊娠させられた。そこから更に監視され出産までさせられたのだという。何のために出産まで? 出産までさせる理由はセルビア民族の血を広めるためだそうである。

レイプしたセルビア人がそうして産まれた自分の子供たちを養育したかどうかは訊き忘れた。

ラテン橋

サラエボと言いえばもう一つ重要なのがこの橋だ。いまは「ラテン橋」と呼ばれるが元は「プリンツィプ橋」と呼ばれていた。1914年のサラエボ事件の現場である。

この橋の上で『オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボを視察中ボスニア出身のボスニア系セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件で、この事件がきっかけとなって第一次世界大戦が開戦した』(wiki)。

オレは歴史をほとんど理解できない者なのでソウ言われても困るのだが、この事件によってオーストリア・ハンガリー帝国はボスニアに宣戦布告し、それに絡んで欧州全体が中央連合国側と連合国側に別れて戦争状態になる。これが第一次世界大戦。第一次世界大戦は欧州戦争とも言われる。

サラエボ名物チェバプチチ

オレがまだ高校生だったころ世界史のマズラ先生が第一次世界大戦の始まりについてこの「プリンツィプ橋」の上で「オーストリア・ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナント夫妻」が暗殺されるシーンをまるで講談師の語りのように話してくれたのを思い出す。オレは内心マズラ先生に向かって「なんでそんなことアンタが知ってるんだよ」と思った。それはオレがアマテラス大御神を知っているのとどこがちがうって言うんだ、そういう歴史への懐疑だった。

いまでもコノ懐疑は解けないまま残っている。

第一次世界大戦は日本もそこに参戦してたんだって。この時は連合国側だったらしい。モンテネグロは中央連合国で参戦していて、その後日本とMNは講和条約を結んでおらず、お互い無関心のまま時がすぎ、気がついてみたら書類上は日本~MNは戦争状態のままだったらしい。最近慌てて講和したとか聞いた覚えがある。

モスタル:: しかしボスニアはボシャニック人(イスラム)とセルビア人(オーソドックス)の対立だけで話しは終わらないのである。そこに登場するのがクロアッチア人(カソリック)である。これでボスニア紛争の三役者が揃うことになる。ボシャニック、セルビア、クロアチアだ。

スタリ橋とネレトバ右岸

上の絵の景色があるところとして知られている場所がモスタルだ。といってもモスタルの人口はいま7万人弱あるから、街全体はそこに見えている絵よりもずっと大きい。そして、この町にセルビア人は一人もいないのである。いるのはボシャニックとクロアチアのみ。上の絵はボシャニック(イスラーム)の特徴を示している。

橋の名は「スタリ橋(スタリ・モスト)」。川の名は「ネレトバ川」。モストは橋、モスタールは橋(モスト)のある場所(モスタール)。

「トルコ旅行に行ったことのある方はお分かりでしょうが、ここはほとんどトルコ的です」と解説を入れたのは添乗員アズサだった。その横に立つモスタルの観光ガイドのオリオは、オレの見るところクロアチア人である。さっきまでサラエボでボシャニック人の観光ガイドのハサンの案内を受けていたので、それとの違いオリオは振りまいている。なんだかそれが分かる。

絵に見える対岸(ネレトバ右岸)の景色はイスラム的であるが、その絵を撮っているこちら側(ネレトバ左岸)もイスラムなのである。その二つのイスラムを結び一つのイスラム勢力圏をつくっていたのがスタリ橋というわけだ。

スタリ橋の上からネレトバ左岸をみる

「つくっていた」と過去形で言ったが、その橋はかつてクロアチア人勢力のカトリック民兵の砲撃を受けてネレトバ川の中に崩れ落ちたのだった。『1993年11月9日午前3時のこと』(wiki)だった。

いま絵に見えているその橋は『その後ユネスコの支援を受けたトルコ企業によって再建されたものである。再開通は2004年7月23日のこと』(wiki)。

世界文化遺産登録は『2005年に「モスタル旧市街の古い橋の地区」の名でユネスコの世界遺産に登録された』(wiki)。

1992年3月5日~1995年10月13日。これがボスニア紛争の期間だ。

1992年3月5日はボスニアがユーゴスラビアに対して独立を宣言した日だ。ボスニアという国はその名がなにかボシャニックと似ているのにお気づきと思う。そう。ボスニアはボシャニックの国という意味なのである。そのようにボシャニックが言えるのはボスニアのなかでボシャニックが人口の1/2近くを占め議会で多数をとれるからである。

このことに危機を感じて武装蜂起したのがボスニア内の人口の1/3を占めるセルビア人勢力だった。だからボスニア紛争のしょっぱな出始めはボシャニック対セルビアの紛争だった。そしてセルビア勢力にはユーゴからの武器の供給があったがボシャニック側にはなかったので戦況はセルビアの圧倒であった。

しかしボスニアにはクロアチア人もいる。多数派のボシャニックの国が出来てしまえばクロアチア人の立場はどうなるのか。セルビア人と同じ? そう。同じ。政治的、経済的、民族的に疎外されるにちがいない。そういう危惧があるのはクロアチア人もセルビア人と同じだった。

そしてボスニアのクロアチア人たちは「クロアチア人防衛評議会」という民兵組織をもっており、ここがクロアチア本国から武器援助されるのである。

モスタルも例に漏れずセルビア人勢力に包囲されていた。

セルビア勢力と戦うには武器がいる。それを持っているのが民兵組織「クロアチア人防衛評議会」だ。モスタルではボシャニックからの必要によってボシャニックとクロアチアが手を結ぶ。そしてセルビア勢力との戦いがはじまる。これが1993年。

当時モスタル人口12万のうちボシャニック人(ムスリム)35%、クロアチア人(カトリック)34%、セルビア人 19.0%、その他のこり%、である。

ボシャニック35%とクロアチア34%が手を組めば約70%になる。この勢力がセルビアと戦うのである。この70%は武器をもっているのだ。これが「ボスニア・クロアチア連合軍」だ。

先ず、モスタルを包囲していたセルビア勢力がボスニア・クロアチア連合軍に撃退され撤退してしまう。

そうなると、モスタルの市内はどういうことになるだろうか? そう! 民族浄化。

『セルビア軍がいなくなるとモスタルのセルビア人は身を守る術をすべて失った。ボシャニック人とクロアチア人は市内のセルビア人のほとんどを虐殺するか追放しセルビア正教会の聖堂や修道院はもちろん住宅や墓地にいたるまでなんの痕跡も残さず破壊し尽くした』(橘玲ブログ)。

そうしてモスタルの地からセルビア人がいなくなるとこんどはボシャニックとクロアチア人の間がおかしくなってくる。モスタルへ各地からボシャニック人が避難してきて10万ちょっとの町に2万人近くのボシャニックが加わる。そのときのセルビア人の焦り。

こうしていまモスタルの街は国道一本を隔てて一方はボシャニク人地区、他方はクロアチア人地区となり、それぞれの行政が独立して二つあり、この二つは互いに交流しない。

われら観光客はそんなことは何も知らず、アホ面して国道をあちこちするのだ。そしてモスタルのネレトバ川の風景の情緒を楽しむ。

観光産業と自動車産業の経済規模はほぼ同じで、十数兆円ほど/年・地球、だと教わったことがある。とくに欧州では観光収入が大きい。そういうこともあって、彼らにとっても観光客を呼び込むことは経済的に必要なことで、アホ面観光客でもありがたいことなのだろう。そこに観光客として行くかぎり何の危機も感じない。そこにそういう現実があるんだということは、こんなふうにその旅行をしてきたあと、こうやって調べて分かることに過ぎない。

こうしてボスニア・ヘルツエゴビナにおいては三つの民族が対立し合っている。みんなそれぞれが自分の主権を持ちたい。

現状は一つの国の中に互いに交流しあったり一つになったりしない三つの行政が別々に独立しているという姿がボスニア・ヘルテェゴビナだ。

いまボスニア・ヘルテェゴビナと言った。なぜボスニアではなく「ボスニア・ヘルテェゴビナ」なのか。

①【(ボスニア:ボシャニック人)・(ヘルツェゴビナ:クロアチア人)】+②【(スルプスカ:セルビア人)】連邦なのだ。もしセルビア人が「俺たちの名前もいれろ!」と主張してくればボスニア・ヘルツェゴビナ・スルプスカとかなりそうである。三つの民族がそれぞれ自治しており一国の体裁をなさない。

WCサッカーへの参加などは一国一代表のルールなのにボスニア・ヘルツェゴビナからは三チームが名乗りをあげてきてしまう。三チームで決勝戦をやって代表を一つに絞ればいいだろうになどと思うのだが、彼らにしてみればそんな気楽なことではないのだ。

まえ全日本サッカーの監督だったイビチャ・オシムはこの国の人だった。日本で監督時に患った脳梗塞もかなり癒えて上記問題の解決のためにボスニア・ヘルツェボビナで尽力しているという噂をきいた。イビチャは何かの「ゆめ」をみているのだ。その夢が実現すれば人々は彼のユメのなかで生きることになる。そう願う。

このことはEU参加を巡っても同じ事情があり、すでにEU加盟は決まっているのにEUから求められる基準を満たせず通貨が€(ユーロ)にならない。マルカのままだ。

ユーゴスラビア解体過程のなかでいちばんの悲惨を味わったのがこのボスニア・ヘルツェゴビナ。それはたった20年前のことだった。

ここはモスタルである。ここを観光してしまえば後は140kほど離れたアドリア海一番の観光都市ドブロクニク行きだ。バスの運転手のマルコは30歳くらいにみえるセルビア人の青年である。モスタルのこの地でセルビア人は虐殺されたし、バスがいま駐車している場所はクロアチア人地区の土地で、その前の国道を挟んで向こうはボシャニク地区なのである。マルコにはどんな緊張があるのだろうか。彼の顔に笑いはなかった。

スタリ橋の上からネレトバ下流をのぞむ

ボスニアヘルツェゴビナはアドリア海に面して20キロメートル程の海岸線を持っている。が、その海に面する町ネウムに大きな港はない。南と北をクロアチアに挟まれている。これからそのネウムの街へ出て、そこで買い物をしてクロアチアの飛び地のドブロクニクへ入る。

ネウムでは赤ワインと生ハムを買うつもりだ。ホテルについたら部屋でQnSと酒盛りでもしよう。

それと、ドブロクニクへ入ってしまうと物価がとても高くなるのだという。買い物はみんなネウムでするらしい。


 

四日目・3/5(金):: ドブロクニク観光⇒南の隣国モンテネグロのコトルへ。コトル観光⇒ドブロクニクへ帰る

ドブロクニク全景

上の絵がドブロクニクの全景です。着いたのはきのうの夜の2000ころでした。ですから、その段階では上の絵の景色はみていません。これは午前中市内観光をして午後隣国のモンテネグロのコトルへ向かう途中の展望台からの写真です。

上の絵の海の真ん中につきでているところが旧市街。城壁もみえます。まわりは多くは別荘地とのことでした。地価の高さはメンタマ飛び出しものらしい。一区画億はかるく超えるとのこと(アズサ談)。『高級別荘地として欧州の富裕層などを対象に開発され売られている』(ドブロブニク(4) 青山貞一)そうだ。

見えている海は地中海のなかのアドリア海。なんだかいいです。

「相手」て言葉であることを記憶しています。相手⇒アイテ⇒ア・イ・テ⇒㋐アドリア海㋑イオニア海㋢テオニア海ってわけ。よかったら地図で確かめてみてください。そういう中のアドリア海の東側のクロアチアのドブロクニクから眺めています。そういうのがなんだか快感なんです。

余計なことを言いますが「旅行の快感」ってそういうことにもある。「そういうこと」がどういうことかと言うと・・・。

朝ホテルの窓から

やりましたよ。きのうQnSと部屋で酒盛り。そのときは気付かなかったのですがこのホテルの窓も色付きガラスだ。おとといのサラエボのホテルでもそうだったから、きっと系列のホテルでデザイナーも同一人物なのだろう。オレはこの色付きダラスに賛成できませんけど。なにかイヤだ。

じゃあドブロクニクについての一つの引用文からはじめよう。

『クロアチアの最南端に位置するドブロブニクは、13世紀以降に地中海交易の拠点として栄え、「アドリア海の真珠」と呼ばれるほど美しい街に発展しました。1667年の大地震で大きな被害を受けますが、市民たちは美しいゴシック様式、ルネッサンス様式、バロック様式の教会、僧院、宮殿、噴水などを、「自由と自治」の精神とともに大切に守ってきました。
「シリーズ世界遺産100」では、1991年のユーゴスラビア内戦の中で破壊され、ユネスコの危機遺産リストに載せられたドブロブニクが、市民の手で再建されるまでの様子を紹介します。平和がもどるとドブロブニクの市民は直ちに街の再建に取り組みます。古文書を調べ、破壊された様式を守り、同じ石材を集め、すべてを元通りに修復・復元しようとしたのです。材料を加工する道具は、昔と同じものを作って使用しました。瓦も昔と同じ色・形のものを造りました。街の再建には多くの専門家や、外国からのボランティアが参加して進められました。そうした努力が実を結び、内戦終結から3年後の1998年、ドブロブニクの街はその美しさを取り戻し、危機遺産から脱したのでした』(NHK;世界遺産ライブラリー。ドブロブニク旧市街)。

NHK的な文です。

まあ入り口、こんなんでいいでしょう。でもドブロクニクでの一番の問題は「都市国家」について考えることだと思っています。日本ではいま盛んに「地方創生」などと言われイシバ君が地方創生大臣などに任命されていますが、地方創生は都市国家創生なのでしょうか。そのへんのことも絡めれば都市国家はきわめて今日的問題でもある。

ドブロクニクは都市国家でした。いまわたしたちが住んでいる日本は「国民国家(=国民・国土・主権をもち一つのまとまった主体として振る舞う集団のこと)」です。ドブロクニクの景色を楽しみながらこのことについて考えたり調べたりしてみたい。そう思ってこの文を書いています。ちなみに都市国家とは、

『都市国家(としこっか、英語: City-state)は、ひとつの都市とその周辺地域が、独立した政体としてひとつのまとまった形態をなす国家のことである』(Wiki)。

だそうで、そのようなものとして知られているのは、

『アテナイなどの古代ギリシアの小国家群・古代ローマ、古代インド(インダス文明)の小国家・古代中国(黄河文明、中国語では「或」や「邑」と呼ばれた)の小国家・日本では加茂岩倉遺跡、吉野ヶ里遺跡の発見から、弥生時代に都市国家群を形成していたと推定でき・アメリカ大陸のマヤ文明諸都市・ヴェネツィア共和国・日本の堺や博多・自由都市ダンツィヒ、フィウーメ、バトゥミ・ハンブルクやブレーメン・香港やマカオ・アトス自治修道士共和国・ジブチ、ナウル、サンマリノ・バチカン』

などなのだそうだ。

そして上の絵に見えているドブロクニクはその典型的な都市国家なのだ。いまはクロアチア(←国民国家)に属しているが、いまでも都市国家的なのである。ドブロクニクはそういう特徴をもっている都市である。

人口;42,641人/11年。クロアチア人が住民の88%/01年、を占める。

『1991年1月1日、クロアチアは独立を宣言(ユーゴスラビアに対して)。(そこで)ドブロブニクで住民投票が実施されドブロブニク住民の94%はクロアチアにとどまることを支持した』。ので現在ドブロクニクはクロアチアに属している。

このとき「ドブは俺たちの領土だからね!」と言ってそれを認めなかったのが,
その時点でまだユーゴスラビアだったセルビア・モンテネグロで、ドブロクニクはセルビア・モンテネグロのモンテネグロ部分から執拗な武力攻撃をうける。が、ドブでのセルビア人はたった6パーセント。・・・。これじゃあね。クロアチアに属したいよね。クロアチア人が88%なんだもの。そういう訳でドブ市民はそのとき自分たちを攻撃した20km隣りの国モンテネグロに恨みをもっている。そんなことも旅行中には分からなかったことで、単にバカ面観光客をやっていただけでした。あ~あ。アズサだって職務遂行上そんな鬱陶しい解説しないからね・・・。

(旧ユーゴスラビアからスロベニア、クロアチア、ケケドニアが独立してしまって残った部分がセルビア・モンテネグロ。のちここからモンテネグロが独立する。ボスニアヘルツェゴビナも独立してしまって、今そのセルビアからコソボが独立したがっている。旧ユーゴスラビアの中心だったセルビアはかなり嫌われている)

「ドブロクニクには金持ちか貧乏人かの二通りの人しかいません。日本のわたしたちのような中間層がいないんです」(アズサ談)。そうなんだ。金持ちの方になりてえなあ・・・。どうすればドブロクニクで金持ちになれるんだろう?


 

五日目・3/7(土)::


 

六日目・3/8(日)::


 

七日目・3/9(月)::


 

八日目・3/10(火)::


 

九日目・3/11(水)


 

十日目・3/12(木)


旅のあとに

旅行が終わった。

旅行中になにげなくできた詩を掲げて「旅のあとに」で締めくくりたい。

ありがとう 旅なれた人が旅に出る / 旅なれぬ人は家に居る // 旅に出るから旅なれる / 家に居るから旅なれぬ // 旅なれぬ俺も旅に出る / たった一人で旅に出る // 二度と帰らぬ旅に出る / みなさんありがとう ごきげんよう

なんと別れの歌になっている。

「締めくくり」だから「さようなら」でいいのかもしれない。それも仕方ない。そうしたいんだから。

別れといえばこのあいだ逝ったタカクラ・ケンの声を思い出して歌っているオレだった。みなさんにも口ずさんでもらいたい。ありきたりに歌えばいい。ケンさんの声を思い出して奇をてらわずに歌えばメロデーはみんな同じようなものになるのではないか。きっと。

この歌は亡き人タカクラ・ケンにささげる。さて・・・。と。