日別アーカイブ: 2018-04-19

きょうの予定は?【①出/・・・②収/・・・③荷/ごぼ、やまい・・・④作/ごぼ収穫溝埋め戻し、同新溝切り、やまい収穫、新ゴボ畑作り(☚割付・施肥・再耕耘、種まき)、ねぎ除草(☚まだまだ)、にら移植(☚もう少し)、トマフレーム解体(☚継続作業中)、育苗プール整備(☚まだ手つかずさ)・・・⑤他/・・・】です。

  • きょうは良く晴れて気温も上がりそうだ。
  • 頑張ってやってみます。
  • はい。

 

メモ::言語論的第167番::セクハラ・援交・結婚

それはそれとして、フクダ君(財務事務次官)とかヨネヤマ君(新潟県知事)の性にまつわる行為が話題です。フクダ君はセクハラ発言、ヨネヤマク君は援助交際でした。みなさんはどうご覧になっておられますか。これらもまたマスメディアによって伝えられてきた「情報」です。わたしたちは直に、その情報が未分化なフクダ君やヨネヤマ君や、そのお相手に触れることはできませんし、性については彼らとはちがう現実をわたしたちは生きています。

QnSなどは「男って、ばかだね~。トウダイとか出たってその程度なんだ。なんだかアタイ、女に自信持っちゃうよ。ちょっとそのへんめくって、ちらっとさせれば墜落してくるんだ!」とか言っています。そうやって墜落させておいて、そこに『呪文をかける 愛が遠くへと 行かないように / きらびやかな夢で しばりつけたい』という、性を交換資源とした女の生き方の可能性を見てのことのようです。

これはソクラテスだって、プラトンだって、アリストテレスだって、シャカだって、ヨセフクリストだって、ムハンマドだって、久米の仙人だって、おとこであるかぎり同じだろうとおもいます。みんな、偉そうなことを言ったって、ダメなんです。みんなバカです。そういう意味で、女性は自分の性のチカラに自信をもっていいです。

オレもフクダ君やヨネヤマ君と同じ男なので、女性のそういう力はよく分かります。その手の経験もあります。今までに何人の女のひとのパンツをおろそうとしたことがあったかなんて、ヒドすぎて言えませんけど・・・。ああ。失敗だらけのオレのじんせ・・・おっと、シィ!

小四のとき級友のコヤマ君がハナ子に後ろから近づき、しらばっくれて不意にハナ子のパンツを引き下ろしたときには、コヤマ君のことを内心「すげ~」と称賛したものです。ハナ子は股を丸出しにして、呆然として泣いていました。泣きながら、ハナ子が自分の性のチカラをどう受け止めたかは分かりません。Qの言うように、「なんだ!男なんてちょろいもんだ!」としたかどうか(は不明です)。逆にショックを受けて、一生を独身で過ごした可能性も(あります)。

追記::それをやってすぐ、コヤマ君は、担任の若い女のヨネザワ先生にどこかへ連れていかれました。三十分ぐらいして帰ってきましたが割合へいきな顔でした。教育学では、こういう場合の取り扱いマニアルみたいなものはあるのでしょうか?

なんで先生がこれを知ることとなったかというと、同級生の女子が何人か慌てて職員室に駆け込んでチクッたからです。そうする男子はいませんでした。オレもしていません。泣いているハナ子の股をぼーと見ていただけです。

経験とはそういうものです。「それが何であるか」を名指す言葉が必要なのです。その言葉がない場合は「何が何だか分かんない」ので途方にくれてしまう。それを「何だか分かんない」こととして経験する。しかし、この経験は一般には経験とは呼ばない。言葉で名指されたとき、それは経験となる。何だか分かんないことを経験したときは、それを何とかして名指す言葉にする必要がある。詩人などというものはそううことをしようと肚をくくった者のことだ。

フクダ君のお相手はそれをセクハラとして経験し、ヨネヤマ君のお相手はそれを援助交際として経験した。フクダ君自身はそれをセクハラとして経験せず、ヨネヤマ君はそれを援助交際として経験している。QnSなどはそれをオレとの結婚として経験し、オレはそれを・・・言わぬが花、か・・・。

それをどう名指すか。それはまさに言語使用の問題でしょう。じゃあ、言語使用とはなんなのですか?

「賭け」です。別名「投企(または「企投」)」。

「賭け」はバクチ用語。「投企」は(マルテン・ハイデッガの)テツガク用語。そして「投企とは賭けである」とするのがオレ。

あなたは賭け事はおすきですか? パチンコとか賭け麻雀とか競馬とか🎴とか🎲とか。言語使用にもこの賭け、と同じ面があります。今回は、これについて何か言ってみたいです。

朝、道で知り合いに会って「オハヨウございます!」と挨拶することに、なにか賭け、を感じることはありませんか? フクダ君はそれを冗談と名付けづ、取材記者(女子)はセクハラと名付ける。ヨネヤマ君はそれを援助交際と呼び、お相手もそう呼ぶ。Qは同じような事態を結婚と名付た。オハヨウございますと知り合いに挨拶するのと同様に、彼らはそれを、冗談と言ったり、セクハラと言ったり、援交と言ったり、結婚と言ったりする。それは、それを聞く相手になにかの賭けを仕掛けている。そう感じませんか? オレは、そう感じています。そうとしか感じられない。

ウッドゲンシュタインは言語ゲーム論ですし、オースチンは言語行為論だった。オレも似たようなものですが、言語カケ論としたいです。言語使用とはある種の賭けをすることである、というわけです。それがどんな賭けなのか。それを描き出すこと(=つまり、名指すこと)ができれば、言葉とは何かについて何かを(少し)言ったことになると思います。

語呂合わせみたいになってしまいますが、賭けは確かにゲームの一種ですし、賭けは賭けをするという行為でもある。言葉を使って何をしているかと言えば、賭けをしているのだ。というわけです。

 

1::言葉は言語共同体の中にある。

1-1::その在りようは、それが日本語なら、日本語を日々の用を足す、その使用に供することによって、その用の成就から、その存在が担保されるような在り方をしている。そのような在り方として言語は確かに存在する。

1-1-1::それは貨幣に似ている。というより貨幣の本質と言語の本質は同じである。言い過ぎを承知で言えば、貨幣が言語の真似をしたのだ。そうして作られた制度が貨幣制度である。言語も言語制度の中にある。

1-1-2::まったく使用されない言葉は存在しない。

1-1-3::使用とは発話することである。

1-1-3-1::発話には発話相手がいる。自分自身か、他者か、その両者かである。通常、自分自身が発話相手にならない発話はない。他者に対する発話であっても発話者はその発話を聞くからである。

1-1-4::『用を足す』の用とは、・・・。

 

(忙しい。また後で・・・)

 

きょうの英語::I will do my best and try. Oh! No!  it’s my bet. 

きょうの四小節::18419///「・・・」

ついに♭×7だぜ。長調なら主音はCes(=ハ♭=ド♭=dod(=B=si=シ=ロ))。短調ならAs(イ♭=ラ♭=rar(=G♯=sso=ソ♯=ト♯))。

ね! ひどいでしょう。一つの音を経験するのにこんなに色々な言葉で主音が名指しされる。これじゃあ気が狂いますってば。オンガクの非関税障壁みたいなものだ。とっぱらってもらいたい。

まあ、長調のつもりでB(=シ=si、つまりCes)を意識して作りました。でも、自分が何をしているのかよく分かっていません。

はい!質問~ん!::「♯でも♭でも、なんで八つ以上は付かないの?」。答え::「わ~かりませ~ん!」

分かったようで、分かんない「音階」です。