きょうの予定は?【①出/駅30点・・・②収/・・・③荷/ごぼ・・・④作/苗管理(4/23ものH内育苗プール温度管理・水管理、5/1もの発芽管理(五日目覆土)☚根の出よし!)、ゴボ収穫溝埋め戻し・新溝切り、とまフレーム解体(☚継続作業中)、鉢上げ用鉢(ハウス内清掃、鉢土づめ)・・・⑤他/・・・】です。

  • ・・・。
  • 昨夜は「世界卓球選手権」を見ていた。その女子団体戦の方だ。準決勝まで無敗であがってきて、突然「南北合同チーム」と戦うことになり、ソレに勝って決勝で中国と当たる、その試合だった。
  • どうやらスエーデンでやっているらしい。
  • それをそう教えたのは一昨日酒を飲みにきた兄ちゃんだった。
  • ミマ、ミサキ、ミウのチームである。
  • 途中23時を過ぎたころ、こっちは眠くなって寝てしまったが・・・。
  • ・・・。
  • 結果は、負け、だったと今朝知った。
  • 惜しかったね。

卓球のことを言いたいんじゃあなくて、「考える」ってことはどんなことなんだろうかってことを言いのです。テレビを見ながら、あの卓球選手たちは「考えて」いるに違いないと思ったからだ。

だって、あんな風に体が動くんだぜ。

音楽を作っているときや絵を描いているとき言葉を使わずに「考える」が、卓球だって言葉を使わずに体が動くわけだから、そのことを体が「考える」って言っていいんじゃないかって。

もちろんウッドゲンシュタインは、人はどんなことを考えられ、どんなことは考えられないのかという問題を立て、考えるとは言葉を使う事だとして、このことを言葉の問題にパラフレーズして考えた。そして「論考」を書き、ナンセンスな言語使用とそうでない言語使用を区別した。最後に「語りえぬことは沈黙しなければならない」と言った。そこに矛盾とトートロジーとナンセンスと無意味な命題を定義してのことだった。「語りえぬこと」とはナンセンスな命題のことである。が、オレに言わせれば、ナンセンスでも、語ったからには語りえたことではことではないかという疑問がのこる。沈黙するまでもなく、語りえぬことは誰も語らないはずだ。何を言っているのかよく分からないが、ハイデガーはともかく何かを言っている。

卓球だの相撲なんか見ていると、体のそういう使い方も「考える」こととして取り扱うべきなんじゃないかってさえ思う。考えることを言語使用にだけ独占させておくのは、絵や音楽がそうだったように、何か片手落ちだ。人は言葉を使わなくても考えることはある。

「考える」の外延(=具体例)として、言語使用だけでなく、身体の動作も入れるべきだ。ピアノが弾けたり、水泳ができたり、綱渡りができたり、玉乗りができたり、歩けたり、料理ができたり・・・。みんな「考える」ことの範疇としてとり扱う言語論はないのか?

言語論は行為論になるべきだ。そして、行為の一つとして言語使用を考えるべきだ。・・・しかし。

 

きょうの英語::I thought that as an extension of “thinking”, not only language use but also body movement should be included.

きょうの四小節::1856///「・・・」♭三つの(旋律的)ハ短調

余計なことはしない、で行ければ世話はない。