日別アーカイブ: 2021-03-20

予定【収穫(こまつナバナ・はくさいナバナ・レンソ)荷造り(こまつ、はくさいナバナ・レンソ)出荷(こまつナバナ・レンソ)作業(作業場屋根手直し。ニンジン除草、のち追肥・G除草・HKnM除草・トマ接ぎ木ProJ・苗管理・駅葉菜荷揚げ)その他(QnS :料理・洗濯) / (猿吉:「メヌエット(25~40)F作り」☜練習はした・その他】

 

言語論::201

きょうも一日が終わってから「予定」を書いている。

「予定【〇〇〇】」に「予定【〇〇〇】」と、横線は入れてある。

しかし、なぜもう終わったことに「予定」と書けるのだろうか。

言葉だからでしょう。嘘が言えるのが言葉だ。客観的実在とは関係がない。客観的実在は在ると予想はされるが、それがどんなものかは言葉によって言いつのる以外の方法がない。

::なぜ嘘を言ってはいけないのか。::言葉を使って何かを言うとは嘘(=虚構)以外のことが言えない。だから嘘を言うしかない。それが嘘だというなら、何か一つでも本当のことを言ってみるがいい。

「今21時39分だ」「これは500円でした」「あしたも来るだろう」「地球は丸い」「電車は朝七時十分に発車します」「・・・」。どこに本当の事なんてありますか。ぜんぶ嘘(=虚構)でしょう。

それは「予定(という言葉)」だって同じことだ。

「証拠をお見せしましょうか?」だって! 上等じゃねえか。見せてもらおう。証拠とやらを。

証拠(=客観的実在)って在るとは予想はされるが、それ自体は認識できない在り方をしている。証拠は見た瞬間に虚構になる。それが視覚情報というものだ。情報は物そのものではないからである。