予定::【収穫(フキ・ニンジン)荷造り(フキ・ヤマイモ)出荷(フキ)作業(苗管理)その他(QnS(料理・洗濯) / 猿吉:「友との再会」(通し)再提出用Fづくり☚練習のみ】☚晴れ。

きょうから朝6゜00´からのフキ収穫をはじめる。

ますます金のために時間を使い、自由時間がなくなる。

しかし「自由時間」の意味は不明だ。

だいたい人に自由はあるのか。おれは「ない」と思っている。だから自由時間の意味がわからない。

きっと、自由時間とは「ゲームのルール」みたいなものだろう。別な言い方をすれば「物の見方」に属する。おれはそんなゲームに参加していいないし、そんな物の見方をしていない。だから自由時間の意味がわからない。フキの収穫をする以外にやることなんてないんだ。

でも「自由時間がなくなる」という言葉をおれが使うのはなぜか。

「選択の自由がある」というふうにみんなが物を見ているのが分かるからである。それにならっただけです。それをからかっているんです。

フキの収穫をするかわりに笛の練習をするという選択肢があり、絵を描くという選択肢もあり、詩を作るとい選択肢もあり、そのどれを採るかはかは「おれの自由だ」というわけでしょう。

そんな自由はありません。言葉をつかってそう表現できるだけです。言葉を使ってそう表現していると「そうだ」と思えてしまうものなのです。それが自由があるという事の正体です。これも言葉のチカラの一つでしょう。世界を秩序づけるチカラとでも言いましょうか。

おれにはフキを採る以外の選択肢はありません。笛の練習をする人は笛を練習するしか自由がないのです。けっきょく自由なんてありませんてば。虚構です。でも『ますます金のために時間を使い、自由時間がなくなる。』と言うことはできます。そうすると、じぶんにはありもしない自由があるように思えてしまう。そんな自分は不幸だと思えてしまう。そのことをからかいました。

そう思っています。そのように主体である「わたし」というものをしつけられてきました。それを止めたのは十年くらい前だったと思います。なにか「自由な主体=わたし」は、生きづらかったのです。やめてだいぶ楽になりました。大陸中国人や北朝鮮人などは今でもそんな風にしつけられていないでしょう。アメリカ人なんかの自由ってどんなんでしょ。やっぱり選択の自由なんでしょうか。

でも赤い服と青い服を出されて「どっちがいい?」なんて訊かれて赤い服を選ぶ場合いなんか、そこに自由があるように感じてしまうんでしょう。わかります。その自由行使の結果として赤い服を選んだあなたに「青い服を選ぶ自由なんかなかった」とおれは言うのです。

こように言葉を使うことができます。それが嘘かホントかのは判別はつかない。「言葉は嘘も言えるがホントの事も言えない」と警句的にいっておけばいいと思います。せいぜい社会に流通している言葉づかいではない言葉遣いをして生きる、ってくらいなものです。それがいいのか悪いのかは分かりません。

じゃあ。フキ収穫に行きます。