- 予定::【収穫(なし)。荷造り(トマト・カボチャ)〇。出荷(トマト・カボチャ)〇。作業(麦踏み二回目)▽。その他(石和のオジサン「廃品回収」〇・ツキタ大工「下地調整/二人」〇・QnS「料理・洗濯」〇/ 猿きち「掃除」〇・雪の夜に「1~70通し練習☚続き!」✗)。】☚09゜41´::晴れ。
::(〇「やった!」 ▽「途中だ!」 ✗「出来なかた!」)
・・・。
う~んと・・・。あれ、何だっけ? あ、そうだ!「後悔」の事だ。
「あのとき手を挙げていれば、今こんなことになっていなかったのに!」っていう「後悔」のことです。そんな後悔の一つや二つはあるんではないでしょうか。
国レベルでは「真珠湾攻撃なんかしなけりゃよかったのに!」なんていうやつのことです。
実際は手は挙げず、真珠湾は攻撃しちゃった。
後悔って、やったことの結果が出た後でするものです。それで『後悔先に立たず』と言います。英語では ”There’s no use crying over spilled milk.” とか ”it’s too late to be sorry” とか言います。ミルクは零しちゃっているし、悔やんだところでもう遅すぎる、ってわけ。
この後悔の問題は自由の問題と分けて考えることができない、ってことを言いたかったのです。人は何かを「してしまう」んですよね。「してしまう」ことには自由はないでしょう。後悔したって「してしまった」ことは変えられない。
道はこの先で二股に分かれている。そのどちらに行くかは「あなたの自由だ」って聞かされてきました。だから「よく考えて行動しろ」って言われた。右の道を行って熊に襲われて酷い目に遭う。そのとき「左の道を行っていたらこんな目に遭わずに済んだのになあ」と後悔する。二股に分かれている道の右を行ったのは「わたしに自由があり、そのわたしが右を選んで」行った、ということになっている。ホントかなあ・・・。
ここに登場するのが受動意識仮説です。その仮説ではやってしまった「あと」で、「自分がやった」という意識が生じるというのです。右にはもう行ってしまっている。それを「自分が選んで」右に行ってしまったと、後から意識にのぼる。0.3~8秒くらい後でそういう意識が生じる、と、その仮説はおしえます。少なくとも0.3秒前には体はもう右に行っていた。それを0.3秒後に「右に行こうと思って右に行った」と思う。そうだとすれば人間なんて自動機械じゃないですか。それが受動意識仮説です。
どうです? 「自由社会」の住み心地?
問::意識は何の役にたつのか。答え::自由を行使するためではなく、欲望をのせるために役立つ。そのために人の意識はうまれた。意識は「わたしは何を欲望してよく、何を欲望してはいけないのか」を人に背負わせるのに役立っている。陛下は陛下が欲望してよいことをその身にセットするし、される。同様に欲望してはいけないことも。それが陛下の意識である。こうして意識にセットされた欲望は自動機械を動かすプログラムとして働く。これが意識と無意識の繋がりである。この意味では「人は皆同じ」ではない。あなたが陛下と同じ意識では暮らして行けない。破綻する。つまり・・・。