• 予定::【収穫(ナバナ)。荷造り(ナバナ・ゴボ)・出荷(ナバナ・ゴボ)。作業(コンバイン「無負荷運転1h」そのさい左クラッチが入らないことを発見。すぐゲンタに連絡した。ワイヤ交換とのことである・ライ麦「発送」・フレーム「解体❷」・トマ畑「施肥」)。その他(QnS「養生・料理・洗濯」、猿きち(上水道水漏れ「調査・配管出し③」・掃除・ガボット「1~40通し練・再提出もの」)。】☚7゜11´::晴れ。無風。新緑まえの静けさだ。

::(「やった!」「途中だ!」「出来なかた!」)

・・・。

『わたしたちはどういう世界に住んでいるのか』って疑問も確かにあります。生身の体がそれぞれ違っているのに(例:性・歳・国籍・母語・・・などがそれぞれであること)、その疑問は正当性があるのでしょうか?だって、『わたしたち』って、そういう実存をすてて、みんなまとめてってことでしょう?

論理的には「同じ」と「ちがう」の区別でしょう。つまり「わたし」と「あなた」は同じなのか違うのかって問題だ。同じなら『わたしたちはどういう世界に住んでいるのか』って疑問が成り立つ。例えば電子なんて「どれも同じ」なのでしょう。水分子はH₂Oと書かれますが、ここにある水とそこにある水は在り場所を異にしています。が、それは同じ水でしょうか、違う水なのでしょうか、って問題です。

そういう「同じ」と「ちがう」の問題があって、『わたしたちはどういう世界に住んでいるのか』って疑問に対しても、実存をこえて存在をイコールで結べれば議論の余地はあるだろうと思います。

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