• 予定::【収穫(なし)。荷造り(なし)。出荷(なし)。作業(ゴボ畑「種まきの続き」・トマトフレーム解体「誘引紐片付け・残渣片付け」)。その他(QnS「生活馴らし・料理・洗濯」、猿きち(掃除・インテルメッツヲ「1~8練」)】☚6゜21曇り。無風。雨になるか?きょうは起き抜けの仕事は「なし!」とした。なにしろGWが終わったから。

::〇「やった!」「途中だ!」「出来なかた!」

・・・。

 

『見られる不安』と『見られない不安』というときの「見る」は他者の「まなざし(=視線)の質」としてよいだろう。オレとしては「まなざし」より「視線」という方が好きなのでそうさせてもらいたい。汚らしく・不潔で・無能で・唾棄すべき者として「見られる」のが『見られる不安』だ。『見られない不安』は「それそのもの」なので何も言う事はない。たとえばあなたがギャング団の一員だとして、そのギャング団の仕事にとってどんな役割を果たすかが、その「視線の質」である。社会は包摂関係を持っているので、もっと広い範囲の社会からみればギャング団なんて「汚らしく・不潔で・無能で・唾棄すべき者」の集団であるとの視線を向けられるだろう。1930年ころのアメリカでポニーとクライドっていう男女が作ったギャング団があった。『残虐な行為を繰り返してきたボニーとクライドだったが、意外にも彼等を支持した者は多かった』とWikiにある。こういう視線もあるのだ。『見られる不安』と『見られない不安』によって人のアイデンテーは作られる。人は何かになりたい(=アイデンティを獲得したい)者なのだ。おれのこの日記なんてこの『見られる不安』と『見られない不安』からできているのはご承知の通りです。その意味でつまんない物ですが「あなたはコレを見ずにいられますか?」って反問もある。

::「まなざし(=視線)の質」は視線だけで決まるものか。答え::決まるわけないでしょう! 視線に添えられる表情、言葉、肯定否定の態度、笑っているか泣いているかなど、添えられるすべてのものによってその質は決められる。いやよいやよも良いのうちでしょう。縄文の目の大きな土偶(=遮光器土偶)からだけで、その視線の質を言い当てられる人なんていないでしょう。もっと研究が進んだその先に遮光器土偶の視線の質がきまります。つまり視線だけでは、その質は言い当てられません。しかしその遮光器土偶のどれもが目を持つことは象徴的だ。

 

 

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