予定::【「収穫(▽カボチ〇・サトイ・ヤツガ・コンニャ・キク〇)。荷造り(キク)〇。出荷(なし)。作業(なし)。その他(QnS「調理・洗濯」〇、猿きち「掃 除・(笛::お洗濯ワルツ「❶26~33やり直し、❷D.S. al Coda、❷通し、練習」)」〇】☚9゜00 ´晴れ。北風、風速0.5m/s.。 「身体から 教えられたり 心とは (歌うほどでは ないものだとか)」
〇「やった!」▽「途中だ!」✗「出来なかった!」
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きょうは体が動きたがっている。だいたい「体を動かそう」なんて「思った」って、思いの自由になるようなものではないのが体だ。腹痛が起こって「腹痛になるな」と思ったってダメなのだ。そうは「言っても」思うだろうけど。HJで「2m50跳んでやる」と思ったって跳べるものではない。オレなんかそんなことまったく思はない。
そんな階層性が意識(=思う)と体の間にはあったのに気づかず、SocialMedia情報にやられない手はないかなどとウジウジしていた。
SocialMedia情報は何がしか「言う」事に属しているだけなのだ。「思う」*「言う」*「する」に即して言えば「思はない」*「言う」*「しない」情報がメデイァ情報である。SocialMedia情報では「どう言えば生存有利になるか」が主題になっていると思う。そこで皆んながお互い言いあっている情報がSocialMedia情報だ。そこでは発信者本人がそう「思っている」かどうかなんか問われない。発信者が「しない」ことは明らかだ。言いはするが、しはしない。シミズもヤストミも言いはするが、することはできない。しているのは言っているのと別のことで食って、寝て、ウンコして、息してる。そして言ってる。言ってることについてやってはいない。その立場にないので出来ないのだ。
オレなんか「言って」しまった後で、そんなこと「思って」いたんだと気付くことが多い。言ってしまってからそう思っていたという意識をもつ人も多いとおもう。だから「言う」*「思う」の前後関係(=階層性)は不明である。言ったことを思ったと感じるのかもしれないのだ。
ウッドゲンシュタインなどは「言う」事が「思う」事だ(=『論理哲学論考』)としたんじゃないかな・・・。「言う」ことができなければ「黙る」しかないとも言ったと記憶する。ここでは「思う」は「内言として言う」こととしたい。
ここにはもっとわけの解らない問題が多い。音楽や絵画などは言葉ではないのに「思う」ことができることがそれである。「モナリザ」と言えば言葉だが、同時にマナリザの絵も思い出せる。その絵は言葉ではない。
感覚していることは「思う」こととしていいのか、もある。
ついに意識があることは「思っている」こととしていいのか、となる。
そうなると「からだ」*「思う」*「言う」*「する」の組み合わせでものを見たほうがいいと分かる。からだの部分の脳で「思い」はするが、からだ全体は凡そ無意識に属する。その体が、からだよりもっと無意識の層の深い「世界」と繋がっている。だから「世界」*「からだ」*「思う」*「言う」*「する」になるだろう。
「世界」*「からだ」*「思う」*「言う」*「する」を組み合わせた個人が「社会」をつくるのだが、その正体はまたも不明だ。しかし、そうして出来てくる社会は「世界」の一部となっているはずで、まったく、この蛇の「する」が「世界」呑み込むウロボロスだ。
ウロボロス構造、一個発見!
笛::お洗濯ワルツ「❶26~33やり直し、❷D.S. al Coda、❷通し、練習」::きょうはやりたいね。