予定::【「収穫(なし)。荷造り(トマト・ジャガイ・カボチ)。出荷(小麦粉・トマト・サトイ)。作業(精麦製粉「ライ麦25㌔」麦踏み)。その他(QnS「カキ皮剥き・料理・洗濯」、 猿きち「掃除・(笛::お洗濯ワルツ「❶D.S. al Coda、❷通し、❸26~33二再度、練習」)」】☚2゜24 ´不明。風不明。外は暗く天気を確かめられないから。                                        「何処なのか ここはそうして いぶかれば (地図が浮かんで 宇宙がうかぶ)」::何処なのか ここは? そうして いぶかれば 地図が浮かんで 宇宙がうかぶ)

 「やった!」▽「途中だ!」「出来なかった!」                                                    

      ・・・

そういうことってあると思う。自分が居る場所のことである。暫くして地図が浮かび宇宙がうかぶ。そして「そういうところ」に居るのだと思う。それがそういうことである。

しかし、自身としては地図作りにも宇宙の観測にも関わっていない。飛行機にのってたまに外国旅行に行くことはあるが、その旅行は地図形成や宇宙像の形成の経験ではない。むしろ逆に、地図や宇宙像の中を旅行しているのである。その像は社会が与えるものだ。天気予報なんか毎日日本列島の地図を出して、そこに山梨県を特定している。『社会がどんな幻想を与えるんだ?』と訊かれたら今度からは「地図と宇宙がいい例だ!」と応えよう。

しかし自身の経験ではなく社会が与えるからと言って、地図や宇宙像が間違っているということにはならないだろう。それでは差し当たり「自分の居る場所」のことが不明になってしまう。不明より分かる方がいい。それが『共同幻想(=虚構)』ということだ。

かつて地の果ては『海がすべて滝となって流れ落ちるところ』と観念されていたというではないか。それだって分かんないより分かる方が良かったのだ。『ここは 地の果て アルジェリア 、、、』では海が滝となって流れ落ちているにちがいない。

地獄極楽だって「死んだあと人はどうなるんだろう?」の疑問には応えている。地獄か極楽のどっちかに行くのだ。両方には行けないことになっている。両方とも行かない人は不信人だ。不信心な人は地獄に行く。坊主にとっては上手くできている。俺達も極楽へ行けるように努力するからから丸く治まる。そこに『善人なおもて往生とぐ。いわんや悪人をや、、、』などとなって親鸞の人気もあがる。

そんな共同幻想(=虚構)は社会が与えるしかしかない。みんなで「そうだ、そうだ!」と盛り上がるか、「そんなことはない!」と断るしかない。断れば地図が使えなくなる。そうすると約束の場所に行けなくなり「約束を守らない人」の烙印を捺され、仕事はなくなり、カネは得られず、飢えて死ぬ。共同幻想(=虚構)を受け入れずに生きることは、このようにできずらい。この共同幻想(=虚構)の下に、みんなで盛り上がる「盛り上がり」のことを「社会」と言ってみてはどうか。

地図や宇宙像も共同幻想(=虚構)だ。昔との違いは科学が入っているかどうかだけである。詩や小説や戯曲を除いて、物語作法に科学を入れなければならないとなったのはごく最近のことだった。しかし神話に基づいて作ったアクロポリスの丘の石づみは科学でなければならなかっただろう。そうでなかったら作ったそばから崩れちゃう。

旅行ではなく、旅というなら、人の一生をこそ旅と呼ぶべきなのではないか。それは自身で経験して行くしかないからである。どんなに友達がいて夫婦あい和していても、そこは一人旅である。実存とはそういうものだ。旅行は産業だが旅は実存なのだ。旅は実存だが、そこにも社会(=共同幻想=虚構)が関与しているなあ、という感慨である。

 

笛::お洗濯ワルツ「❶D.S. al Coda、❷通し、❸26~33二再度、練習」::う~

先生イシダ::『いちばん最初の音「低いファ」が少し裏返気味だったようです。他はほぼ良かったと思います。まだ確実性や「余裕」は十分でなさそうですので、このような遅いテンポでの練習をよく続けてください。もう1度、目標テンポで第2部分を聴かせてください。』

猿きち::またやり直しきゃ・・・。

 

 

 

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