予定::【収穫(ハクサイ)〇。荷造り(トマト・ジャガイ)✗。出荷(トマト)〇 。作業(ハクサイ畑「不織布かけ」〇・▽畑片付け「雨よけフィルム」〇・▽麦踏み✗)・その他(QnS「料理・洗濯」〇、 猿きち「掃除・(笛: :お洗濯ワルツ「❶D.S. al Coda、❷通し、練習」)」〇】☚☚7゜07 ´晴れ。風(北西、3m/s)。
::よくぼうが ですぎているんだ ふこうとは (のうりょくあげて おっつけばいいって)::欲望が 出過ぎているんだ。 不幸とは (能力あげて 押っ付けばいいってか・・・)::I have too much desire, that is why I am unhappy.
〇「やった!」▽「途中だ!」✗「出来なかった!」
・・・
不幸とはいうが、毎日オレが嘆いている『う~』とか『苦しい』とか『叶わないよ』とかは不幸の指標なのかも知れないと思った。その指標があるオレはきっと不幸なのだ。と、おれはソレを言葉で言っているので、それが嘘かホントかの判断はあなたにはできない。
不幸の解消の仕方は、①欲望を実現する能力を持つこと、か、②欲望の矛先を変えること、の二つで、①、②を使えば幸福には『なんとかなれる』という話を三十分前に聞いた今朝だ。
①の『欲望を実現する能力を持つ』ように努力している間に、人生は終わる。この意味で人生は短い。誰に百メートルを8秒で走りたいなんて欲望がわくのかって問題もある。「死にたくない」という欲望は、死なない能力を持つことはできないと知られているので、その能力は持てない。
②の『欲望の矛先を変える』って、そんなん、変えようと思えば変えられるんかって疑問がわく。変える「自由」が人にはあるのかという疑問だ。ここでも「死にたくない」という欲望で考えてみて欲しい。矛先を変える場合、どう変えられますか? 意識のある限り「死にたくない」という欲望を持つのだったら矛先が変わっていません。自死は欲望に従った行動だが、死の受容だったら、それは欲望と呼ぶことができない。いヤダけど受け入れるんだから、そこには何の欲望もない。理不尽があるだけだ。
オレなどはその欲望の「起源」のことが気になって仕様がない(ことは何度も言い続けている)。人には自由なんか全くないという結論になっていて、それでもちっとも困らない(ことも何度も言い続けている)。自由とは虚構に属していて、人間にとってはこの虚構が大事で、人間社会はこの虚構なしでつくれないと思っている。
三十分前に聞いた話は、例の、あのNHK日曜カルチャー『人間を考える 今をよりよく生きるための哲学3』で、話題は「自由と幸福」。そこで紹介されたテツガク者はフッサール。講師は苫野一徳。トマノのセンセイは竹田青嗣だそうだ。
おれフッサールは好きです。きっと影響を受けていると思います。トマノのいうことには同意できませんでした。が、これも聞くことをお勧めします。いろいろ考えさせられました。
笛: :お洗濯ワルツ「❶D.S. al Coda、❷通し、練習」::通したい・・・::よくない知らせだ。 先生イシダ::『・・・』