日別アーカイブ: 2023-05-14

予定::【★収穫「なし」 ★荷造り「なし」 ★出荷「なし」 ★その他「苗管理・トマ苗(鉢上げ、4/23分)▽22トマ畑(フレーム錆止め入れ)23トマ畑(石灰窒素撒き)」 ★QnS「OnLine料理教室・料理・洗濯」・猿きち「掃除・笛:お洗濯ワルツ(❶第三の部分、❷通し)練習」☚☚ 8゜09曇り。風(なし       

(やった!)▽(途中だ!)(出来なかった!)

                                          ::そうなった ら・いってくださ い・たびにで (ますから・とおく とおくいきます)::そうなった ら・言ってくださ い・旅に出 ますから・遠く 遠く行きます

::please tell me if that happens
then I’m going on a trip
i go far a way, go far

・・・

 

歌詞をつくりたくて、毎朝こうやって「発句+つけ句」をつくって、練習をしている。ChatGPTでもAIchatでもそんなことは出来るのだが、生成AIが作った「発句+つけ句」は即座にそれが生成AIの作ったものだとわかる。だって、AIを呼び出し、命令して、そこに出て来たものだ、と自分が知っているからだ。

生身のこのオレが作ったものと生成AIの作ったものを並べて、出来栄えなんかを比較しても何の意味もない。「オレができること」がうれしいからである。他人が上手に歌を詠んでも、それはオレのよろこびにならない。               『願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃』は西行の歌だが、それはオレのものではない。西行に感心することはできても、オレにはつくれない。ってことはオレ自身のよろこびではないということだ。

そこで一つの疑問がわく。出来栄えの良し悪しのことだ。生成AIのつくったものと人が作ったものとの出来栄えの良し悪しのことで、人間社会に流通するのはきっと「出来栄えの良いもの」になるだろうということだ。生成AIのつくった小説をコンクールに出して、それが賞をとるとしても、それは出した人の手柄だろう。生身の人が書こうが生成AIが書こうがコンクールに出したのはその生身の人だからである。PCで書いた小説が「作者のものではない」というのと同じで、AIが書いても応募したのは生身の人だ。

次の疑問。なにが流通するものになり、なにが流通しないものになるかだ。こうして、つくづく人間は社会的存在だという感を深めることになった。

囲碁・将棋・チェスの場合を参照にして、そこのところを考えている。

 

笛:お洗濯ワルツ(❶第三の部分、❷通し)練習::すぐ練習!::よく練習しました。