- 予定::【★収穫「トマト・インゲ・キウリ・ナス」〇 ★荷造り「なし」 ★出荷「なし」 ★その他「▽除草(トラクタ)」 ★QnS「料理・洗濯」〇・ 猿きち「掃除・笛:お洗濯ワルツ(通し)練習」〇】 ::☚☚9゜12晴れ。風(南3m/s)。
(やった!)〇・(途中だ!)▽・(出来なかった!)無印
::ようきだな そんなひとでは ないはずの (おとこだったが ほがらかなひと)::陽気だな そんな人では ないはずの 男だったが 朗かなひと
::I know the man isn’t cheerful,
But he behaves so,
he says “hello” brightly.
・・・
きのうテレビを見ていたら『監獄実験』っていうような心理実験についてやっていた。実験の監獄には「罪人」が収容され、それを「看守」が管理するという社会が人為的につくられる。「罪人」はどう振舞うべきか、「看守」ではどうかという問題がある。1970年代の合衆国の実験では罪人役と看守役ともに学生に募集をかけるのと、2000年代に入ってのイギリスの実験では両役とも一般人からの募集でまかなわれていた。
おもしろかった。
監獄のかわりに、わたしが生れてくる社会ってものを考えておいて、わたしが生れた社会を監獄の隠喩で考えてみてはどうだろうかと、即座に思った。監獄では罪人と看守だが、わたしが生れた社会ではそこにある立場すべてが配役になる。誰にどういう役が割りふられるかという問題だ。監獄実験では誰にどういう役を振り分けるかはデレクターの一存だが、実社会ではデレクター役の人はいるのかという問題でもある。おれは、それが居ると思っている。それが当該社会が持っているイデオロギー、常識だと思っている。子を産む役は女に振られている。天皇の長男は天皇になる。
いちおう、今の社会では、役は「自分の意志で選べる」ことになっているが、これが虚構だとは何度も言い募ってっていることだ。が、人間にとっては人間の自然に意味があるのではなく、人間の虚構にこそ意味があるということに気づき始めたところだ。
虚構なしで人間の社会は作れない。おれにとって好都合な虚構で作られていて欲しい。・・・それがどうも怪しい。なにか踏みつけられている気がするのだ。
笛:お洗濯ワルツ(通し)練習::カラオケ練習!
だいぶ良くなてきた。