地中海世界への旅_その4_チョイ住みトラパニ
~作業中~
以下旅行記。暇をみて完成させてゆきます。黒文字は猿吉=オレ、茶文字はQnS=アタイが書いています。
目次としては以下のようです。
Ⅰ::出発まで・・・
・・・
Ⅱ::じゃあ、出発!
2/19(金)::①成田空港で出発待ち・・・②ローマ・フェミチーノ空港まで12時間
2/20(土):: トレビの泉でシンコと待ち合わせ・・・
2/21(日):: ローマを遊ぶ(地下鉄利用・コロッセオ・アッピア街道始点・ジャニコロの丘・サンタンジェロ城)
2/22(月):: 7:26テルミニ駅発~パレルモ行列車で12時間・メッシーナ海峡を渡って・あれ、宿の予約が・・・ない!
2/23(火)::①アルベゴ「エレナ」に荷物をあづけて②レーコ登場③パレルモは「アラブノルマン様式」の街④トラパニへバスで移動⑤目の前にテレニア海のみえるレジデンスへ時化こんだ
2/24(水)::レーコの料理教室・国家公務員カルロ登場・農民市場・古城のある崖の上の街エリチェ
2/25(木)::チーズ工房・トラパニ塩田・マルサラワイン工場「」
2/26(金):: ①田舎ドライブ②セジェスタ神殿・同テアートロ③カラタフィミニ村戦没者記念碑④でもサレミ城に行きつけず・・・
2/27(土):: 農民市場・レンタカー返却・もうレンタカードライブはやめよう・・・か?
2/28(日):: ①トラパニ発~アグリジェント行②ギリシャ遺跡③この日のアグリジェントの宿は・・・
2/29(月):: ①ピアッツア・アルメリーナ郊外のカザーレ別荘跡で今回初めて日本人団体と会った②陶器の町カルタジローネで買い物③キアラモンテグルフィはファブリッチョの家族のやっている宿へ。
3/1(火):: トマト農家のエンリコのハウスを見せてもらった。エンリコは100人からの使用人を抱えるシャチョウだ!・・・オレは貧農だ・・・。
3/2(水):: ジョルジョの運転でワイナリー「プラネタ社」の農場を訪ねる
3/3(木):: ①さよならモデイカ②エトナ山③カターニャ空港からローマへ④ローマから成田へ
3/4(金):: 成田着
Ⅲ::旅のあとで・・・
・・・
Ⅰ::出発まで
- いまウチで話題なのは、来年冬の旅行のこと。どこへ行こうか? 地中海沿岸諸国というのがテーマなのだが、シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダンってわけにもいかないし、かといってギリシャ、トルコ、エジプトも個人旅行ではちょっと手に負えない感じがするし・・・。
というわけで、いっそのこと地中海のど真ん中、シチリア島でどうだ! ということに話が傾いてきている。どうなるか・・・。
- 2015-10/30:: このあいだ妻のQnSが航空券の手配をしてしまった。2016-2/19-14:10成田発~同2/19-19:00フェミチーノ着のアリタリヤ航空便である。値段は一人往復7万円代(航空券代¥37500、国内空港施設使用料¥2610現地空港諸税¥4110、燃油特別付加運賃¥24900、予約発券手数料¥5400)だとQが言っていた。ローマのシンコなどはここを5万円代で往復できる航空券が手に入るという。が、それはローマ在住日本人という立場あってのことだ(と、本人が言っていた)。だからシンコにできてもオレ達にはできない。
帰りは3/3の8:00シチリアのカターニャ空港発。ローマで乗り継ぎ翌3/4の11:15成田着だ。そういう航空券である。
ローマには3泊して、以前見逃した所を見てまわる。シンコにも会えたらあって、一緒にメシでも食いたい。
航空券を買って(=金を払って予約して)しまったのだから、この旅行はきっと行くことになるだろう。しかし、ローマからシチリアのパレルモへゆくための列車やホテルなどはまだ未定。未定だが、ローマ~パレルモ間は列車で行きたい。列車で12時間ほどかかるようだ。
そうやってパレルモに着いたらそこで一泊して翌日パレルモ旧市街を見学。夕方、近くのトラパニという港街に移動する。ここでの滞在が今回の旅行のハイライト。ここに5泊。だから旅行名は「チョイ住みトラパニ」だ。アパートに泊まって、港で魚を買って(酒も買って)自分たちで調理して食う。オレはここでレンタカーを借りて、もっと田舎町へいって、アポなしホテルに飛び込んで一泊してみたい。町に床屋があれば、その床屋にかかってみるっていうのもやってみたいことのひとつだ。
シチリアとかパレルモとかトラパニというと、「イブン・ジバイル」って人の名を思い出す。それが誰かはご自分でお調べください。
シチリアで何するか? もちろん花見。第一目的はアーモンドの花見です。この花は日本のウメとかサクラに相当する欧州の春の花だ。
そうは言っても、まだ具体的な予定はたっていない。そこはQnSが現地の「La tavola siciliana」(ラ ターボラ シチアナ;゛シチリアの食卓゛くらいの意味か?)のレェっていう女子(日本人)に助けてもらって、あれこれやっているみたい。
だから、いまのところ航空券をとった、っていうことだけ。しかし、とったのだからシチリア旅行は現実味を相当増した。行くことになるのだろう。
- ・・・。2015-11/02(月):: 最近は「旅行する」ということについて内心考えこんでしまうところがある。それは「旅行をして」・「楽しむ」とは何をどうすることなのか、ということについて、考え込んでしまうのだ。
具体的にみてみよう。旅行会社が扱うのは「旅行」という商品である。これを売りたいのが旅行会社だ。それはオレがトマトや麦やカボチャを売りたいのと同じ動機だろう。それを売って金を得て、得た金で旅行を買ったり、トマトを買ったりして暮らしを成立させるためである。むろんオレはトマトを売りたいのだからそれを買いはしないが、旅行会社の社員だったら買ったりするはずだ。
その旅行は交通機関やホテルや食事などを組み合わせてつくる。トマトの方は種や畑や水や光や肥料や手入れなどを組み合わせてつくる。そうしてできたオレのトマトの売り方は卸売市場出荷・直売所出荷・注文販売・庭先販売などである。旅行の方はそのへんのTV旅行ショップとか旅行代理店とかネット販売とか個人販売である。
むかしの話だがキンツリに勤めていたハタナカ君という友人がいて、オレが勤めていた会社の社員旅行のプロデュースをさせろと頼まれて便利したことがあった。旅行会社に勤めていれば個人的にもそういうセールスをハタナカ君はしていた。それで売れれば成績があがるのだろう。特殊な旅行能力があれば、その能力を使って特殊な旅行商品をつくり、いい値で売れるかもしれない・・・。
で、人がトマトを買う目的は? そして、人が旅行を買う目的は? なに?
「旅行をして」・「楽しむ」と言った。この文で行くと、旅行を買う目的は「楽しむ」ためである。
「トマトを買って」・「食う」なら、トマトを買う目的は「食う」ためである。しかし「トマトを買って」・「静物画に描く」も可能だ。「旅行をして」は=「旅行を買って」だから、「旅行をして」・「楽しむ」は「旅行を買って」・「楽しむ」となり、「楽しむ」の項はトマトの例で見た通り、必ずしも「楽しまなくてもいい」ことになる。ここは変数だったのだ。「旅行を買う」目的は「楽しむ」という固定した数値ではなく変数だった。そして「旅行を買う」とは「旅行をする」ことである。さらに旅行=旅としておこう。この方がイメージが広がるから。
そういえば「可愛い子には旅をさせよ」などという命令がすぐ思い浮かぶ。この命令の含意は、まさか「可愛い子に旅をさせて、旅の楽しみを味あわせよ」ではないはずだ。その反対の、親元で甘やかさず、外に出して(これが「旅」)世間の厳しさを味あわせ、人生を生きる態度のとり方の参照にさせよ、である。このとき、可愛いのが「子」ではなく、「自分自身」だったらどうだろう?楽しみ目的ではない旅をあなたはあなたにさせるだろうか?オレ自身「旅行は楽しむもの」と固定的になってはいないだろうか?また、旅を他人から無責任に強いられることだってある。シリア難民みたいに・・・。
そんな疑問があり、そんなことを考え込んでしまうのである。そんなふうに考えるとなんだか旅行も複雑に思える。旅行会社が提供する旅行ばかりが旅ではない。
- 2015-11/06(金):: 旅行日程づくりに入りました。個人旅行としてはこの日程をつくるのがひと仕事。それをつくるためにすることとしては㋐「情報を集め」㋑「必要な予約をして行く」の二点です。と、偉そうにいいますが、ここまで自力でやるのは今回がはじめて。・・・。でも旅行としてはここが面白いところです。それは「わたしは何を欲しがればいいのか?」という問題の旅行版具体例だからです。人生においてはそのことの連続でしょう。欲望の湧かせ方の問題。欲望の起源の問題・・・。です。
それと日程づくりは「未来はつくれるのか?」という問題の具体例でもあります。だって、これからする旅行は未来に属しますから。
「欲望」も「未来」も、ともに哲学的な話題ですが、その話題をなにげない日常の中にみつけだす。これが気持ちがいいんです。「お前の荷車を星につなげよ」なんて言葉もありましたっけ・・・。
日常とは荷車をひいて道を行くことです。天空に散りばめられた星ぼし(=「言葉」の隠喩)にコンステレーションを見つけ出す(=星座を描く)のが哲学(=愛知=知恵を愛すること)です。
そして、わたしの引く荷車と夜空に光るひとつの星を結びつける。これです。これが気持ちがいい。これはもう商品としての旅行ではありません。ですから買えません。自分で工夫してつくる。そうすることで旅行がはじめて人生の換喩へと、その意味を変える。そういうことだと思います。
’16-1/19:: シチリアの景色を眺めていました。なんだかスゴイところなんだと思いました。ヽ〔゚Д゚〕~。 通常の欧州とはなにかちがう感じがする場所です。
- そこは「文明の十字路」と呼ばれる島です。フェニキア人・ギリシャ人・ローマ人・アラブ人・ノルマン人・スペイン人、そしてイタリア人などが入れ替わり立ち替わりやってきて興亡を繰り返した「十字路」です。
- そういうところに暮らせばどういう人情が育つのでしょうか?
- そしていまや観光の島ですし、北アフリカからの難民が最初の目的地にする島でもあります。そこで10日間過ごすんだけど、大丈夫かなあ・・・。
- その10日のうち5日はトラパニっていう島の西端の港町で「チョイス住み」します。どうなるんかなあ・・・。
- 現地日本人女子の話によると、マフィアはいまでもしっかりいるそうですが、観光客に絡んだりはしないそうです。
- マフィアって日本でいえば暴力団のことですよね。オレ、そういう人との付き合いねえから、どういうもんなのかサッパリわからないんだ。理不尽な言いがかりをつけて金品をゆすり取ろうってことなんでしょう・・・。そういうのを日本語では「強請る(ねだる)」って言うらしいんですけど。
- その他は密輸・売春・麻薬覚せい剤・公共事業介入・ギャンブル・いざこざなどを仕切ることですよね。
- そしてマフィアの起源はシチリアの土地所有制度に源があるようです。この旅行ではシチリアの土地がどんなふうに使われているのか見てくるつもりです。
- 旅行するさいの隠れテーマの一つが、その土地の「土地所有制度」ですね。これはもう人間のすべての根本問題だと思います。ホモ・サピエンスの「原初の旅」もこのことだったんだ(と思います)。
- マフィア、暴力団、ギャング、チンピラ・・・ねえ。やだなあ・・・。まだジプシーくらいの方がましな感じがします。
- でも「世界構造」っていうものは、それら(=マフィア、暴力団、ギャング、チンピラ。そして貧困!)を必須の構成要素として生み出し、それ=世界構造、を形成するための部品にするのだ、と思うようになってきた最近のオレなのです。
- だから「少しでも社会をよくするために皆んなで手をつなごう!」と呼びかけられたときのキマリの悪さったらありません。その「手つなぎ」自体を世界構造が生み出しているものと見えてしまうからです。
- こういうオレに幸福はあるのでしょうか?なにしろ孤独です・・・。
’16-1/11:: クロマニヨン人が四万年前に滅び、のちホモサピエンス(=わたしたち)が世界中に広がって行ったことを原初の旅として、いまここでオレがしようとしているシチリアへの旅行も含めて「旅するちから」ってなんなんでしょう。
- 一万年前、ホモサピエンスはすべての大陸に分布し、その総数500~1000万人と聞いた覚えがあります。そういうふうに全世界に広がるからには、かつてホモは旅したんですよね。
- その旅は今の北アフリカやシリアからの難民の旅と似ているのか? より暮らしやすい場所を求めての旅だったのか?
- そういうことで言えばオレだって生まれた所を遠く離れて山梨の田舎町に住んでいるわけだから、それに似た旅をしてきたってわけだ。
- そんなことが気になります。なんだか分かりませんが「旅するちから」が欲しいです。いい旅がしたいからです。その力が不足している自分を感じています。
’16-1/4:: きょうは半日を旅行準備に費やす。やることは以下の四点だ。
①ローマ・テルミニ駅近くにホテルを予約する:できた!ネットで駅周辺のホテルを検索しておいて、よさそうなのをみつくろって、予約フオームに必要事項を記入して送信すれば、即返事がくる。使用したサイトは booking.com
②テルミニからパレルモまでの電車の予約をする:できた!使用サイトはraileurope-japan.com。
③フエミチーノからテルミニまでの交通を確認する:直通バスと直通電車と各駅停車電車がある。その他ではタクシーね。タクシーで40€くらい。他はもっとずっと安い。これ、そんなに難しくない。腹は「直通バス」と決めた。そうなると、その切符の買い方・乗り場を調べておかないとね・・・。
③トラパニでのレンタカーの予約をする:できた!Hartzトラパニで二日間予約した。hartzの予約サイトがトラブっていて、HartzRezervationnJapanへ電話して予約した。(予約は日本語ね!HRezJは日本にある営業所だから。)
やったのはすべてQnSだけど・・・。あのアマなんだかこういうことができるんだ。一目置かせてもらっています。
最近「旅はいつも何かヒリヒリしていなければいけない」と思うようになってきている。ヒリヒリするものはかすり傷である。かすり傷を負う程度の旅がしたい。
’16-2/9:: ①持っていく金のこと。クレジットカードでの「キャッシング(借金)」が一番べんりと聞くが、どうすりゃあいいんだよ?手持ちのVISAとかJCBカードが現地ATMで使えるんか?これで現地のATMから€EUROが出てくるんか?☚QnSがカード会社に電話して調べた。出てくるそうです。為替レートも手数料も金利も、これがいちばん有利。らしい。帰国したら成田にいるうちに即借金を返してしまえば利息もそうおおくかからないんだって。
ATM::『ATM(Automated/Automatic Teller Machine=現金自動預け払い機(げんきんじどうあずけばらいき)は、通常、金融紙幣(及び硬貨)、通帳、磁気カード・ICカードの受入口、支払口を備え、機関や貸金業者、現金出納を行う業者の提供するサービスが、顧客自身の操作によって取引できる機械を指す。』(Wiki)
だってさ。
貨幣もどんどんその姿を変えていく。これじゃあキョロキョロするしか仕様がねえじゃあねえか。そうしなきゃあアッというまに化石になる。こっちは生身なんだから、生身を保存するためにはキョロキョロするっきゃねえよ。
②帰りの飛行機の「リ・コンファーム」は必要なのか?搭乗72時間以上前にリ・コンファームが必要って情報があるけど、今回のアリタリア航空ではどうなんだ?いままでそんなの必要なかったけど。☚QnSが発券会社に電話して調べた。アリタリア航空はリ・コンファームは必要ないそうです。中華航空とか大韓航空とかフィリピン航空とかを利用する場合はそういうことがあり、帰れなくなるトラブルも起こる、とのこと、でした。
③電気のもんだいね。イタリアとか、フランスとか、スペインとか、旧ユーゴスラビアとかは、220V・C型コンセントってことは分かっているが、同じC型でも、手持ちのやつが入らないことがあるんだ・・・。コンセントが壁の中にへっこんでいてさ・・・。持っていく電気器具としてはスマフ・タブレット・GPS・カメラ・ひげそだけど。☚最悪、現地の電気屋で買うって手がある・・・。そこをクリアしたら次はUSBポートの問題が出てきて、これはUSBハブって商品があるらしい。町にでたら電気屋をチェックしてみます。
④そしてトラブル対策ね。これ。個人旅行になると誰も助けてくれないから・・・。まずは、旅行保険には入ります。それより現地でのトラブルが一番心配でね。パスポをなくすとか、けが・病気になるとか、スリ・かっぱらいに遭うとか、キャチバーに入っちゃうとか、殺されるとか、ね。だいたい旅行者なんて「いいカモ」って面がある。カモがネギ背負ってるって面が、あるもんね。日本にいるとそういう心配ないけど、外国ってそういうことが当たり前にある。心構えとしては「異なものには近づかない」ってことだけど・・・。異なものがこっちに近づいてくるってことはあるから。☚ぼ~としていない。異なものには近づかない。警戒する。武術を習う。
でも、旅(旅行)って、実は、そうした異なものに出会うことに醍醐味があるかもしれない・・・。そうは言っても④に挙げたようなやつはヤです。
旅行日程表(2/18現在)
2月19日 金 14:10 成田発/ローマフィウミチーノ着19:00 アリタリア・イタリア航空 AZ785便 ローマ泊
2/月20日 土 ローマ観光 トレビの泉でシンコと待ち合わせ。 シンコと遊ぶ ローマ泊
2月21日 日 ローマ観光 ホロロマーノ・コロッセオ・アッピア街道入口 ローマ泊
2月/22日 月 ローマテルミニ駅7:26発→列車→シチリアパレルモ駅19:00 パレルモ泊
2月23日 火 Rと合流、パレルモ終日観光 。旧市街散策・ノルマン王宮ルッジェエーロの間/カッペラパラティナ・ジーザ宮3言語4文字石板・モンレアッレ大聖堂 <昼食>パレルモのオヤジ食堂 トラパニへバスで移動 到着後トラパニの街を散策 <夕食>トラーパニの街でアペリティーヴォ(軽めの食事) トラーパニ泊
2月24日 水 AM : Rの料理教室 <昼食>料理教室で作ったものをランチとして頂く。 PM : エリチェ散策 18:00頃トラパニ到着 その後、フリータイム トラーパニ夜景 トラパニ泊
2月25日 木 AM : チーズ工場と塩田見学 PM : マルサラワインワイナリー見学 トラパニ泊
2月26日金 終日自由行動(レンタカー) Tempio di segesta(セジェスタ神殿)/Calatafim-Monumennto ai Caduti (カラタフィミ村-戦没者記念碑)/Vita-Uffico Postale di Vita(ビータ村-ビータ村郵便局) /Salemi-Castello di Salemi(サレミ村-サレミ城) その辺に気に入った宿泊施設があれば飛び込みで泊まる または帰って トラパニ泊も可能
2月27日 土 終日自由行動(レンタカー) Light Hous La Via Fago (ファーゴの灯台)/Pepper Jam Cafe で茶/13:00前に自動車返却(土曜日はHz営業所が13:00までの営業のため) トラパニ泊
2月28日 日 10:00トラパニ発。専用車でアグリゲントへ。アグリジェントで花見。 アグリジェントの古代ギリシャ遺跡付近を車でドライブ アーモンド祭りを開催している場合に は祭りを散策 アグリジェント泊
2月29日 月 10:00 アグリジェント出発 → ピアッツァ・アルメリーナへ 11:30~13:30 ピアッツァ・アルメリーナ 古代ローマの別荘見学 13:30 ピアッツァ・アルメリーナ → カルタジローネ 14:30~17:00 フリータイム 17:00 カルタジローネ → キアラモンテ・グルフィ 18:00 キアラモンテ・グルフィ着 夕食キアラモンテ・グルフィのトラットリアで キアラモンテ・ グルフィ泊
3月1日 火 9:30 キアラモンテ・グルフィ発 AM : ラグーサ散策 午後:昼食後、モディカへ。夕方 :モディカ最古のお菓子屋「ボナユート」にてチョコレートつくり見学 見学後、モディカの街を歩いて散策 モディカ泊
3月2日 水 午前:専用車でワイナリー「プラネタ社」へ ブドウ畑&ワイナリー見学。 昼食:4種のワインを試飲しながら、ワイナリーでシチリアの特産品をたっぷりと使った ランチ。 午後:専用車にてノートへ バロックの街ノートを散策 モディカ泊
3月3日 木 モディカ出発 → カターニャ空港まで専用車で移動 11:45 カターニャ空港発 フェミチーノ乗り換え 成田行き 機内泊
3月4 金 成田着11:30
って予定です。
Ⅱ::じゃあ、出発!
2/19(金)::①成田空港で出発待ち・・・②ローマ・フェミチーノ空港まで12時間
朝(自宅でコーヒのみ)昼(空港の食堂でオレ=五目中華麺・QnS=五目やきそば)晩(機内食2回+飲みもの一回)夜食(テルミニ駅前の露店のお兄さんから買った赤ワインと日本から持参したチーかまでローマ到着の祝杯をホテルの部屋であげた)//宿(テルミニ駅前hotel”Andreina“60€/日・二人)
こうして旅行に出ることが今年で四回目になった。それはどこか嬉しいことなのだが、しかし内心「なんでこんな面倒なことを大枚はたいて苦労してやるんだ?」という疑問の声があることにも正直になっておきたいと思う。なにしろ個人旅行はめんどうが多い。なにもかも自己責任だ。人のせいにして毒づいていればなんとかなるというものでもない。
成田をアリタリヤ航空のAZ784便で発ったのが日本時間の14:30。12時間の飛行ののちローマのフェミチーノ空港に着いたのがイタリヤ時間の19:00。19-14.5=4.5。時差8時間。4.5+8=12.5。西に沈んでゆく太陽を追いかけるように飛ぶので、いつになっても☀がしずまない。実質12.5時間の差(ほぼ地球の反対側)が日本とイタリアのあいだにはあるが、名目上は4.5時間にすぎない。・・・。
間違えた!時差8hが日本とイタリアの実質差。24hが一回転だから8hは1/3回転差だ。地球の反対側じゃあなかった。反対は大西洋の海の中だとおもいまっす。ブラジル近くの。
実際の空路はこれとはちがっている。モスクワの上あたりを飛んでいるはずだ。機内の画面ではそういう表示だった。地球は丸いからねえ。それを平面にするとこんな図になってしまうのだろう。
空港から乗り合いバスでローマテルミニ駅まで小一時間。バス代7.5€/人。
ついにバスの利用ができる程度に旅の技術が増した。そんな自分がうれしい。
ところで、日本では考えられないことだが、このバスの運転手ったら、音楽をガンガンかけ、電話をかけまくり、まあ、仕事なんてそっちのけで運転している。・・・イタリアの乗り合いバスの運転手ってものはそういう仕事なのかもしれない。
2/20::トレビの泉でシンコと待ち合わせ・・・
朝(ホテルでC・Style/カプチーノ・ハム・チーズ・バタ・パン・水)昼(Antica Trattoria al moroにて135.5€/三人)晩(Bar-Enoteca L’angoro divinoにて41€ /三人)//宿(Hotel”Andreina”60€/日・二人)
12:00にトレビの泉でシンコと待ち合わせしている。10:00にホテルを出て余裕で散歩しながら泉まで歩くつもりだった。が、結果失敗。泉で待っているシンコに電話して「救出」してもらった、ってわけです。ああ、情けない。だってローマの街なんて複雑すぎてまともには歩けませんよ。すぐ自分の現在位置がわからなくなるです!
トレビの泉は二回目。QnSと二人でちょっと金を投げ込んでおいた。1€なんて、とんでもない!10セント二枚くらい。ケチで、どうもスミマセン!
写真はないが、混んでいましたよ~。トレビの泉。これ「なんなんだよ!」ってくらい混んでた。なんでこんなに人が来るんでしょうか?「ローマの有名な観光地だから」ですか。じゃあ、なんで人は有名な観光地にいくんですか?「みんな行くから」ですか。・・・。そうか・・・。みんなが行くところが観光地なんだ。
待ち合わせが12:00で、それにしくじって、12:00にはまだベネチア広場にいました。そこでシンコに電話した。泉からシンコがこちらに歩いて来て、こちらからオレたちが歩いて行って、それが路上でぶつかるっていう救出法はシンコのアイデアです。これに従って、その辺の路上でゴッツンこ。抱き合って、バーチョで、再会を喜んだってわけです。こっちは救出されて「よかった」ってよろこびもあったんですけどね。
そんなわけで、今はひる時なんですけど。
サンピエトロ寺院に来るのはこれが二回目。この先に見えている入口をこの日にくぐると、この世で受けた穢れが祓われるのだという。それがQnSの要望である。かなり汚れているのだろう。
馬鹿だねぇ。汚れている猿吉を
くぐらせてクリーンにする作戦でしょうが。
羊の歌より 汚れっちまった悲しみに / 今日も小雪の降りかかる / 汚れっちまった悲しみに / 今日も風さえ吹きすぎる / 汚れっちまった悲しみは / たとえば狐の革裘 / 汚れっちまった悲しみは / 小雪のかかってちぢこまる // 汚れっちまった悲しみは / なにのぞむなくねがうなく / 汚れっちまった悲しみは / 懈怠のうちに死を夢む / 汚れっちまった悲しみに / いたいたしくも怖気づき / 汚れっちまった悲しみに / なすところもなく日は暮れる…… (中原中也)
はい。門をくぐって、サンピエトロの中に入って、外へ出てくれば、屋外(そと)は真ッ闇(まっくら) 闇の闇(くらのくら)でっす。・・・これ、ホントはウソ!街灯がナトリウム灯やってて、かなり明るいローマの夜です。
サーカス 幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました / 幾時代かがありまして 冬は疾風(しっぷう)吹きました / 幾時代かがありまして 今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り / 今夜此処での一と殷盛り / サーカス小屋は高い梁(はり) / そこに一つのブランコだ / 見えるともないブランコだ / 頭倒(さか)さに手を垂れて / 汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと / ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん / それの近くの白い灯が 安値(やす)いリボンと息を吐き / 観客様はみな鰯(いわし) / 咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と / ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん // 屋外は真ッ闇(まっくら) 闇の闇(くらのくら) / 夜は劫劫(こふこふ)と更(ふ)けまする / 落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルヂアと / ゆあーん ゆよーん ゆあゆよん (中原中也)
穢れは汚れで、羊の歌になり、外に出てきて真っ暗ケで、サーカスになり、そのどちらも中也なのだった。ローマはそんなに暗くはないから、真っ暗ケというのはウソなんだけど、言葉はウソをつく道具でもあります。その機能を発揮させましょう。・・・逆に、言葉で真実は言えるのか? ウソをつく道具で真実を言うなんて、怪しいぞ。
それじゃあ、晩飯でも食おうじゃあねえか・・・。ということで、またバスにのり、どこかの怪しげな路地に入り、どうにもこうにも、旅行者なんかが行かないようなレストランに入り、酒を飲んで肉を食うのだった。ああ、こりゃあ旅情だあ。
2/21(日):: ローマを遊ぶ(地下鉄利用・コロッセオ・アッピア街道始点・ジャニコロの丘・サンタンジェロ城)
朝(ホテルでC・Style;ぱん・はむ・ちーず・ジャム・ばた・じゅーす・牛乳・ヒーコなど)昼(コロッセオ外のシンコのおすすめピザや。;ワイン・ピザ三種・ヒーコ・アイスクリン・水;・・€/三人)晩(宿からちょと離れたところのシンコおすすめレストラン”Broccoletti”; 92€/三人)//宿(**Hotel”Andreina”三泊合計180€/三日・二人/明日は早いのできょう支払い)
ローマの一日目はシンコに救ってもらって始まったのだった。今日は二日目だ。さいわい、きのう買った24時間有効のバス乗車券をもっている。買ったのはきのうの15:00すぎだったから、まだ有効期限内だ。これを使って、ローマの地下鉄体験をしよう。先ずは、コロッセオに行くぞ!と、いうわけで、10:00にコロッセオ前の地下鉄駅でシンコと待ち合わせの約束をしている。じゃあ、ちょっと問題ね。
- 問題:: 15:00に買った切符がまだ時間内だってことは、どうやって判定できるのでしょうか?
- 答え:: その切符を使い始めるときに「打刻」をします。打刻は「打刻機」って器械があって、バスの中にも、駅にもあります。打刻されていない切符をもっていても、検札係には通用せず、かなりの額の罰金をかせられまっす。だそうです。
ローマ地図を見ながら、いちばん近い地下鉄駅をさがす。メトロB線の「Colosseo」駅で降りればいいのね。オレたちはテルミニ駅のそばのホテルに泊まっているから、乗るのはテルミニ駅そばの地下鉄駅からだ。というわけで、9:00にホテルを出た。


乗れました。でも、間違えた。行先を間違えてColosseo とは反対方向へ行ってしまった。気が付いた段階で、この間違いを修正して、Colosseo へ向かいましたよ。簡単に修正できました。だって、気がついた駅で降りて、反対ホームへ入ってくる電車に乗り換えただけだから・・・。あ~A,っと。
ローマの地下鉄って簡単です。二本しか路線がありません。A線とB線のみ。使ってみてください。行きたいところを地図上にさがし、一番近い駅をチェックして、そこで降りて、目的地まで歩けばいいんです。

あのさ~、コロッセオとフォロ・ロマーノって隣あっているのね。この奥っていうか、右手の奥がフォロなんだよね。
知らなかったよ。隣どうしだなんて。
入場するためには大そうな行列でした。でもオレら、シンコ付きだからね。行列を脇にみて、アッというまに行列の奥のヘンな階段から上に上がってしまって、並ばずに中へ入った。

シンコに言わせると、「こんなあところで並んでいたら、コロッセオ見学だけで一日かかってしまう!」そうです。
ジャの道はヘビ(=同じ仲間なら容易に推測ができる)か?それじゃあ、シンコはヘビきゃ?そうはみえないけどなあ。いい女にしかみえないけど・・・。誰と仲間なんだろう?どこにでも裏道はあって、その道の利用可能は仲間うちの阿吽の呼吸になっている。
見学1.5hで終わり!4~5時間かかるところを1.5で済ませてしまいました。経済だよね。こうして、密度の濃い観光になっているのです。シンコのおかげです。
アッピア街道のローマ始点が見たい。そう言ってある。それは、ちょっと郊外だから、行くには「タクシーね!」ということになり、コロッセオ前のタクシー乗り場で調達した。
運転手が「その近くに古代ローマの水道橋があるけど、見るか?」と訊いてくる。この、商売上手!見たいに決まってるでしょう。
連れてきてもらえば感動しますよ。これか~って。この水道橋の先に欧州国内線用の飛行場があるそうで、近距離飛行機はそちらに離発着するのだそうです。


アッピア街道の始点。ここからアッピア街道が始まる。シンコに連れられタクシを使ってここまできた。タクシーの運転手は女子で、その名は”リエチーナ”だ。
この辺の地理にやたら詳しい。それもそのはず。上のローマ水道橋横にあるテニスコートを使ってのテニス教室に、自分の娘が通っていて、自宅もその近くなのだという。
夫もタクシー運転手だと言っていた。夫はかつて飲食店経営をやっていたこともあったが、結局タクシーに戻ったと言う。
二人でよく稼げば、生活も楽だろう。ああ。めでたい、めでたい。
シンコは「いい運転手にあたった!」と言っていた。プロの運転手でも、この辺の地理に暗いのがいて、嫌がったり、連れてきても迷ってばかりだったりする者にも、よく当たるという。
リエチーナにはチップもはずんでおいた。

『サンタンジェロ城: Castel Sant’Angeloは、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。日本語訳によっては、聖天使城、カステル・サンタンジェロとも呼ばれる。
135年、ローマ帝国の皇帝でいわゆる「五賢帝」のひとりハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始し、アントニヌス・ピウス治世の139年に完成した。霊廟はきれいな円形平面をなし、太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像が頂上に設置された。しばらくすると軍事施設として使用されはじめ、403年にはアウレリアヌスの城壁の一部に組み入れられた。

14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、また、同時に牢獄や避難所としても使用された。
16世紀前半の教皇クレメンス7世は、ローマが神聖ローマ皇帝軍により恐ろしい略奪(ローマ略奪)を受けている間、皇帝カール5世率いるドイツ人傭兵(Lanzichenecchi)の包囲に抵抗するため、この機能を使用した。17世紀前半には教皇ウルバヌス8世がサンタンジェロ城の強化に努め、1667年に教皇となったクレメンス9世は、バロック芸術の大家で旧友のジャン・ロレンツォ・ベルニーニにサンタンジェロ橋の装飾を依頼しており、橋はベルニーニ自作の2体ふくむ10体の天使像の彫刻で飾られている』(Wiki)。
ここには書かないが、ジャニコロの丘にも行ったし、ローマの高級住宅街もみた。なんだか、観光の内容が濃い。濃ければ、疲れる。もうオレたちはかなり疲れている。疲れたときはどうすればいい?休むんですよね。どこで、どうやって?・・・話はまとまり、オレたちの泊まっているHotel”Andrena”に行って、そこで20:00まで横になることに衆議一決。さいわい、そのホテルの部屋には3人分のベッドがあるのだった。一服して、酒飲みに街へ出ることに・・・。ローマの20:00なんて、まだ夜とも呼べない若さなのさ。
「お疲れぇ!かんパ~いぃ!アリ(´・ω・)(´_ _)ガトぅ♪、シンコ!」
あしたは、パレルモへ行く。わざわざ列車で。のんびりと南イタリアの景色を楽しみながら。
2/22(月):: ①7:26テルミニ駅発~パレルモ行列車で12時間②メッシーナ海峡を渡って③あれ、宿の予約が・・・ない!
朝(6:40にホテルを出たので朝食なし。駅の売店でパニーノとフラメッジーノと・・・を買って電車に持ち込んだ。もちろん赤ワインのビンは一本持っているしハムとチーズも持っている。水はペットでそれぞれ持っている)昼(電車に持ち込んだもので適当に昼食した)晩(酷すぎて・・・すごいぞ!食い物なんか無いんだ!宿を出て買ってきた安ビール一本さ!それと機内食の食い残しで間にあわせた)//宿(・・・。大変だったんだ!)

列車を積み込んでメッシナを渡るフェリー
電車を積み込んだフェリーでメッシーナ海峡を渡る。乗客は電車に残ってもいいし、船に移ってもいい。電車を積み込む時と降ろすときは列車の席についていること。この間40分。
右はこの間の自動車での経路だが、この経路と平行して走っている鉄道を利用した。12時間かかった。QnSとオレと二人で9,000¥くらい。なんだか安い。しかしパレルモ行には二等しかない。タオルミナ行には一等もある。
メッシーナを渡ったところで二方向で切り離され、それぞれの行先をめざす。列車は自由席と指定席が一緒くたになっていて、コンパートメントは6人掛け。Qとオレは窓際の指定席。
オレたちが行った時にはそこに既に若い男女が座っていたが、こちらがそこを座席指定でとっているので、自由席の彼らがどいて、通路側に移った。
この二人はメッシーナを渡ってしばらくしたら降りたが、すごかったぞ、座席でのラブシーン!目のやり場にこまった。別れ際には、その女子の方が手をあげてオレたちに挨拶していった。ボン・ビヤッジョ!(よいご旅行を)とかなんとか言ってた。グラッチェ!(ありがとう)と返しておいた。
シチリアに入ると景色が一変する。なにか濃密なんだ。さあ、パレルモだ。あれ・・・。今日は22日だよね?きょうの宿B&B”Oreto Centro”の予約が21日になってるけど?
予約していた宿はB&B”Oreto Centro”だった。が、予約の日付が昨日になっている!さっき気が付いた。なんてこった!
パレルモ駅につき、宿まで行って、呼び鈴を押したが反応なし。電話にも応答がない。弱ったna~。
さあ・・・どうしよう。
インフォメーションを探して、どこか宿を紹介してもらわかくっちゃ、今夜は宿なしだぞ!駅へ引き返したら、交番があった。そこに警官がみえる。訊いてみよっと!
というわけで警官に窮状を訴え、紹介してもらった宿がAlbergo”ellena”。
やり手ババアと、そのムスメらしい女が取り仕切っていた。翌朝はオヤジもいたが気弱そうな男だった。しかしこのAlbergoのおかげで「街と家屋の取り合いの仕組み」の勉強になった。旅ではこういうことが貴重だ。60€/二人・前払い!)。
部屋は大きかった。でも、ベッドはかび臭かった。おお、アルベルゴ(宿屋)!それに感激しているオレたちだった。
B&B”Oreto Centro”には、予約間違いの義理を果たそうと、QnSがレーコに頼んであれこれやっている。が、結局、違約金を払うこともなく、うやむやにおわった。Booking.comの契約が前金ではなく、現地払いだったことと、こちらのカード番号も控えられていなかったことが、そうなった原因のようだ。「違約金に宿も関心がないようだし、前金も払っていないし、カード番号も控えられていないんなら、しらばっくれるしかないじゃない?」って結論でした。はい。Booking.comを使うときは、そんなのが、こちら有利みたいです。
しかし、予約間違いには肝をつぶしましたです。異国で宿なしなんて、どうすればいいんでしょう?
2/23::①アルベゴ「エレナ」に荷物をあづけて②レーコ登場③パレルモは「アラブノルマン様式」の街④トラーパニへバスで移動⑤目の前にテレニア海のみえるレジデンスへ時化こんだ
朝(Albergo”Ellena”のラスクと水、のみ。他なし!外に出てCaffeを一杯)昼(パレルモのトラッテリア“Ai Cascinari”で;赤ワイン1/2L・パスタ一皿/人・パレルモサラダ・アイスクリン;人員=運転手Franco・レーコ・QnS・オレ;支払いはレーコ)晩(トラーパニのエノテカで「赤ワイン」と「何か食べるもの」セット;人員=レーコ・QnS・オレ;支払いはレーコ)//宿(アパート”Galibardy31″)///ガイド(ここからシチリアでの十日間にはコーディネータ兼ガイド兼通訳兼一部運転手としてレーコが付く。全額で4,500€(4,500*130=585,000¥ほど)。宿の手配・宿泊費・交通費・料理教室・観光案内・工場/工房見学代・一部食事代・通訳料などが含まれる。食事は原則朝はホテルで供される。昼と夜はこちら持ち・各所見学料金もこちらもち、という契約だ)。
パレルモ市民の胃袋「バッラロ市場」見学 さすが市民の胃袋、品揃い豊富・活気あり。魚はその場でさばいて販売。大きな魚は、ほとんど輪切りで売っている。値段は、キロ単位でどの部位でも同じとのこと。アタイは、迷わず真ん中の油が乗っている部分を買うが、そこはイタリア、油の少ない尻尾に近い部分も人気とか。この日は、イワシがなんと1㎏=1€!安い!右下の写真はタコの頭をばっさり、その後、足をザクザク。そして、あっという間に売れていった。
上中央の写真は「もつバーガー」いわゆるパルレモ名物「脾臓バーガー」である。しょうゆ味(?)煮込まれたもつをたっぷりのラードで焼き、バーガーにはさみ、これまたたっぷりのレモン汁をかけた逸品。美味しい!!大好き!!この味が忘れられず、トラーパニに行ってからも、一軒だけあるバーガー屋さんで買って食べるのだが、猿吉は「なんか臭い」と言いながら半分捨てていた。まったく猿の味覚は、お子様なんだからぁ~。
四種文字の石板。これが見たくて、はるばる日本から来たという面がこの旅行にはありました。以下は歴史学者;高山博の言っていることです。出典「地中海世界の歴史 第12章 シチリア王国—文明の交差点—」より。
『ジーザ宮のジーザという名前はアラビア語のアル・アジーズ(壮大な)という意味に由来している。この石板はかつて国立ギャラリーに展示されていたものである。何年も前に、国立ギャラリーを訪れたときは、このような遺物が、中庭や土間に無造作に置かれていた。この石板も砂ぼこりを被ったまま保管されていたが、今は、このジーザ宮のガラスケースの中に展示されている』(高山)
ジーザ宮
『これらの石板の表面には、アラビア文字、ギリシャ文字、ラテン文字、ヘブライ文字の銘文が刻まれており、ノルマン・シチリア王国の多言語、多文化併存状態を示す典型的な遺物となっている』(高山)
『ノルマン・シチリア王国の成立::11世紀の半ば、フランスのノルマンディー地方から兄弟と共にイタリアにやってきたノルマン人の騎士ロベルト・イル・グイスカルドは東ローマ帝国領だった南イタリアを占領した。1071年、弟のルッジェーロ1世はシチリア全島を占領した。この功によりルッジェーロ1世はロベルトからシチリア伯位 (en) を与えられた。1130年、ルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世は対立教皇アナクレトゥス2世から王位を得てオートヴィル朝(俗に言うノルマン朝)シチリア王国が成立した』(Wiki)。
『この王国ではアラブ・イスラム文化、ギリシャ・東方正教文化、ラテン・カトリック文化を背景に持つもつ人々が、併存して生活していた。・・・混住していたわけではなく、モザイク状に住み分けていた』(高山)
住み分ける。これですね。モロッコのジブラルタル海峡に面するタンジールって街は、イギリス、フランス、スペイン、イタリア、ポルトガルなど利害関係諸国がその街を「住み分け」ていました。そうなるんですよね。混住にはならない。なんでだと思いますか?
『王に使える役人たちは、アラブ人、ギリシャ人、ラテン系すべてを含んでいた。・・・。王国内に異なる文化的背景を持つ人々が住んでいたのは、この南イタリアがちょうど異なる文化圏の境界部に位置し、それぞれの文化圏に属していた国々をノルマン人が統合したからである』(高山)
『しかし、異なる文化の担い手たちは、自らの属する文化と他の文化を融合させることはなかった。彼らはおのおのが自分たちの住む地域をもち、住み分けて生活していたのである』(高山)
ノルマン王宮、現シチリア州議会議事堂
『パルレモの王宮では、王を世話するために多くの人が雇われていたが、その大部分はアラブ・イスラム文化の中で育ったアラブ人だった。・・・。料理長もイスラム教徒であり、・・・、王の側近く仕える宦官の小姓たち、侍女や女官のほとんどがやはりイスラム教徒であった。王宮へ連れてこられたフランク人女性たちが、王宮の侍女たちの影響を受けて、キリスト教からイスラム教へ改宗していたというエピソードも伝えられている』(高山)
宗教なんていうけれど、その底には経済があり、その経済から利得をえるために、人は割合簡単に宗旨替えをしてしまう。オレなどは、この間まで「ヒューマニズム教」の信者だったっていう気がする。そんなんじゃあ、今では利得が少ないので、それを捨てようと努力してる。これから何教になればご利益がおおいのだろうか?
ノルマン王宮ルッジエーロの間
『王国統治のシステムは、ノルマン人たちだけで支えられていたわけではなく、異なる文化に属する人々によって支えられていた。 国政を担う宰相のほとんどは、異国出身者だった。王国最高顧問団の中兄も多くの異邦人やアラブ文化に属する人々が含まれていた。・・・。史料で確認できる8人の王宮侍従官(長含む)のうち4名ないし6名はアラブ人である。土地に関わる文書を保管・管理する中央の役所ドゥアーナ・デ・セクレティースの高官たちも、その多くがアラブ人だった。・・・。このように、大臣や役人には、アラブ人、ギリシャ人、また、異邦人が多く含まれており、宮廷の権力中枢にいた人々が様々な文化的背景をもっていたことがわかる』(高山)
『シチリア王国の歴代の王たちは学問や芸術に対する造詣が深く、医者や占星術師、哲学者、地理学者、数学者などの優れた学者たちを王宮に集めていた』(高山)
『イスラム教徒たちは、かつて古代ギリシャやインドの学問を学び、イスラーム世界で飛躍的に発展する哲学や自然科学の基礎を築いた。イスラーム世界の学術研究の拠点であるバクダードの「知の館」は、もともとは、ギリシャ語の文献をアラビヤ語に翻訳するために、9世紀アッバース朝カリフによって作られたものである。それから3世紀を経て、12世紀に、今度は、イスラーム世界の学問が、シチリアやスペインを経て、ヨーロッパ世界にもたらされるのである』(高山)
モンレアーレ大聖堂付属修道院の回廊の柱のアラブ模様装飾
『王国最高顧問団のメンバーに任じられ、国政を司ったヘンリクス・アリスティプスは、プラトンの『メノン』と『ファイドン』、アリストテレスの『気象学』のギリシャ語からラテン語への翻訳者としてよく知られている。・・・。ウィレルムス王に仕えたエウゲニオスはプトレマイオスの『光学』をアラビア語からラテン語へ翻訳した人物として知られる。・・・。シチリアの宮廷は、西欧の知識人にとってはアラビア語、ギリシャ語文献を研究する前線基地の一つだった。ギリシャ語やアラビア語の写本、そのラテン語訳を求めてシチリアを訪れた知識人も多くいる。・・・』(高山)。
そう。オレたちが実際に暮らしているこのいまの生活は、この流れの中にある。チグリスユーフラテス河の流域で発生した農耕(小麦)牧畜(羊)、その辺で発生したアルファベット文字、それがギリシャに受け継がれてゆき、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、・・・などの、ものの考え方(それはある種の言語使用法のことなのだ!)、それがイスラーム文化圏にアラビヤ語翻訳として受け継がれ、更にそれがラテン語に訳されて欧州のルネサンスを準備する。
この流れの中に産業革命がおこる。そして、その時から地球は人口の爆発的増加をみる。それだけ生産力が増大したのだ。そして今に至っているということだ。
その歴史的遺産がシチリアにある。アラブからラテンへの文化移転の時代がかつて、ここにあった。そういう場所としてスペインのグラナダ、コルドバがシチリアとともに有名。それらの特徴は、かつてイスラム教徒に占領されていた場所ってこと。ここシチリアもそれと同じ。スペインでは、それはレコンキスタで終わってゆく。ここシチリアではどうだったか・・・。
『キリスト教徒の中で暮らすイスラム教徒たちは、妻や子供を不用意に叱ることができなかったというものである。彼らを厳しく叱ると、教会に駆け込んでキリスト教に改宗してしまう恐れがあったからである。一度キリスト教徒として洗礼を受けてしまうと、探し出すことができなくなるので、イスラム教徒たちは家族や子供に対して非常に気をつかって生活したいたという』(高山)
『この王国で異文化集団の共存が可能だったのは(ヨーロッパの歴史家が言うように)この地に住むキリスト教徒が宗教的・文化的に寛容だったからではない。強力な王権がイスラム教徒を必要とし、彼らにたいする攻撃や排斥を抑制してきたからである。・・・。王国のイスラム教徒人口が減少し王権にとってイスラム教徒が不要になると、イスラム教徒住民に対する態度も冷淡になる。・・・。(こうして)異文化集団によって支えられていた王国の文化的・経済的繁栄も終焉を迎えるのである』(高山)
生き延びる知恵としては、人の寛容などをあてにすれば失敗するということだろう。アイなんか信じるなって、ことだ。必要なことは、他者にとって必要とされることである。他人に寛容などというヒユーマニズムで迫っても、事はすまない。
パレルモの街で
男たちは女房に家から追い出されて路上にたむろする。
・・・オレも男なんだけど・・・。こういう仲間がいるだけマシだよ。オレなんか誰もいねえもん。孤独。
『彼(フレデリック二世1250年他界)の死とともに、南イタリアの豊かで魅惑に満ちた時代は終わった。こののち、南イタリアは歴史の表舞台から姿を消し、政治的混迷と経済的衰退に特徴づけられる長くて暗い時代を迎えることになるからである』(高山)
長い引用でした。お疲れさま。
今は2016年だから、フレデリック二世が死んでから、2016-1250=766年が経っているということだ。この間シチリアは『歴史の表舞台から姿を消し、政治的混迷と経済的衰退に特徴づけられ』てきたわけだ。
パレルモ観光を終えた。ここから五日間の宿があるトラパニへ移ろう。宿屋「エレナ」で預けてあった荷物をもらって、レーコに連れられ、パレルモ駅横にあるバスステーションからトラパニ行きのバスに乗り込んだ。始発バスだ。途中からかなりの人が乗り込み、やがて、ほぼ満席となる。雨が降り出す。オレは疲れてバスの中で眠った。
トラパニへ着いた。陽が落ちたトラパニの街は雨で濡れていた。
トラパニのアパート
トラパニへ移って。きょうから五日間の宿はこれ。アパート”galibardy31″。
右・中央・白い建物の五階。ここのWi-Fiはとても弱かった。
左からテレニア海(地中海の下位分節名)。岸べは海藻が繁茂。歩道。朝はジョッキングする人がある。車道。ブルー線で区画されているから有料駐車場で1.2€/時間。パーキングメータあり。20:00~8:00は無料。この先右に広い無料駐車場がある。右が建物群。この通りの名は”ダンテ・アリギエーリ通り”。アパートへの出入りはこの道の反対側のガリバルディ通りにある。
アパート五階の自分の部屋からはこんな景色が見えている
部屋はこんな感じで、手前にキッチンとサニタリー部分がある。ここで五泊六日をすごす。
海辺のダンテ・アリギリエーリ通りからアパートを挟んで反対側のガリバルディ通りがこれ。
アパートへの出入り口はそこの街路照明の手前の大きな木の扉からする。その扉を開けるための鍵も渡されている。こういう旧市街の通りの奥にある建物のなかがどうなっているのか、今回の旅行ではなんどかそれを知る機会があった。
その街路照明のあるところはBarになっていて、日が暮れて暗くなると中学生が、20:00くらいから高校生がたむろする。みるかぎりなんだか豪勢なやつらだった。内実はどうか?レーコもよくここに立ち寄るという。
イタリアでは、バール、ピッツェリア、エノテカ、トラッテリア、レストランテくらいが飲み食い場所。今回全て経験した。星付きレストランは未経験。レーコは、「星付きは創作りょーりっぽい」と言って批判的だ。地場の料理にこだわりがある女なのである。シチリア料理研究家で、講談社から著書二冊の女だ。
宿泊はB&B、アルベルゴ(宿や)、ホテルくらいだ。いままではホテルばかりだったが、今回はこれもすべて経験した。・・・アグリツーリスモはまだだけど・・・。
2/24::レーコの料理教室・国家公務員カルロ登場・農民市場・古城のある崖の上の街エリチェ
朝()昼()晩()//宿(アパート”Galibardy31″)
QnSのリクエストで、きょうは料理教室の日だ。まずは食材の調達から。この漁港の左に見えている施設の中に青空魚市場がある。そこでイワシを買う予定。でも、海が荒れて、入荷がどうかなあ~、となっている。結果、きのうパレルモで1㎏/1€だったイワシが、きょうの、ここでは、7€でしたぜ。

今日は、いよいよトラーパニにて料理教室です。と、その前に「青空市場」「魚市場」「農民市場」と三つの市場でのお買い物です。アタイは、これからのレジデンス暮らしが困らないようにオレンジ、グリーンのカリフラワー、古代小麦で焼いた黒パン。そして猿吉のためにトマトとイチゴを買いました。オレンジなんて4㎏もあって2€です。なんてお安いんでしょう!そして甘くてとっても美味しかったんです。そのオレンジは、シチリアを離れる旅の最終日までアタイたちの喉を潤してくれました。あ~楽しいー!こんなことやってみたかったんだぁー!
さて、料理教室のメニューは①Melanzane a rizza(茄子のピッツア風)写真左端 ②Pasta con pesto Trapanese(トラパニ風ペーストのパスタ)写真右端 ③Sarde a beccafico(イワシのベッカフィーコ)写真中央の右 ④Biscotti di Mandorla(アーモンドのビスコッッティー)写真中央の左 の4品です。 REIさんが先生、アタイが生徒、マンツーマンで作り方やコツなどを教えていただきました。猿吉が生徒助手ということで洗い物などを担当してくれたので順調に楽しく料理が進み完成!チーズやオリーブ、そしてワインとともに試食タイム。日本でも手に入る食材でのメニューをお願いしたので食材は、馴染みのあるものでしたが、スパイスやハーブなどでイタリア~ンになることを学びました。
国家公務員カルロ登場。顔なんか出しちゃっていいのだろうか?もしイタリア秘密警察の職員だったらこれで職を失うはずだが・・・。
これがレーコの夫です。場所はレーコの自宅。つまりオレはこれからレーコについて紹介したいのです。だったら、夫も家も登場させておかないと・・・。というわけです。不都合があれば取り下げますから、そのときは言ってください。
じゃあ、レーコって何者?
2/25::①チーズ工房「Giammanco」②トラパニ塩田③マルサラワイン工場「」
朝(レジデンスにて)昼(チーズで満腹。ワイン工場見学前にマルサラの街でワインを一杯!)晩(レジデンスで家吞み)//宿(アパート”Galibardy31″)
今日は、いよいよチーズ工場の見学です。テレビでは何度もみていますが、実際に工場を訪ねたのは初めて。REIさんの運転で左写真のチーズやさんに到着。白い防護服と帽子をかぶり工房の中へ。最初にペコリーノチーズの製造過程を、さらにリコッタチーズの製造過程を見せていただきました。温度管理された羊乳を根気よく混ぜ、容器に詰めて水分を抜くといったシンプルな作業でした。でも、だからこそ、原料の羊乳の質が大切なのですね。
製造過程見学の後は、試食タイム!出来立ての温かいものから1日、6か月、1年と熟成させたもの、燻製、唐辛子入りのものetc・・・おなか一杯食べさせていただきました。特に出来立てのものは、工房ならではのもので、この後、食べることとなる牛乳のリコッタとは違う味わいの甘さのある大変、美味しいものでした。
私たちが工房にいる間、お客さんが次々に来店し、お好みのチーズをたくさん買っていかれました。イタリア人て、ほんとチーズが好きなんですね。 社長さん、従業員のみなさんありがとうございました。
トラーパニ塩田
マルサラワイン工場
2/26(木):: ①田舎ドライブ②セジェスタ神殿・同テアートロ③カラタフィミニ村戦没者記念碑④でもサレミ城に行きつけず・・・
朝()昼(セジェスタ劇場でミニトマト・オレンジ・ビスケット・水で昼食)晩()//宿(アパート”Galibardy31″)
トラパニからA29を通ってセジェスタ神殿駐車場へ。劇場と住居跡は谷を隔てて反対側の山の上にある。戦没者記念碑に参ってサレミ城へ。帰りは地方道SP29でトラパニまで。
一日ゆったりドライブでした。トラパニ市内はそれなりに運転は怖いです。車が多く、一方通行ばかりで、運転の仕方が日本の呼吸とは全くちがうからです。四年前に買ったガーミンGPSなど役にたちません。上でガーミンと言ったのはガーミンカーナビ(GPS)のことです。これが役にたたない。地図が更新されないから・・・。一方通行を入るように言ってくるし、なにしろ情報が古い。
それに、いわゆるカーナビなんてもう誰も関心がない。それはGoogleMap自体がカーナビをするからだ。スマホにGoogleMapを表示させ、GPSモードをオンにし、目的地を入れれば、GooMa自体がカーナビを始める。ローマのタクシーの運転手も、そのへんの人も、日本人のこのオレでさえ日本では、自動車にホルダーをつけ、スマホをそこへ乗せ、それで運転している。世の中の技術進歩は早い。5年もたつともう時代遅れになってしまう。
そして、重要なことはスマホとかIPadとかを持っていれば、このGoogleMapの利用はタダだってことだ。その利用は端的にわたしたちがGoogle社の「家畜」になるということである。家畜なんかイヤだといってスマホの電源を切り、家畜をやめることは自由である。が、その自由を使った瞬間、GoogleMapカーナビの利便性から仲間はずれ(疎外)される。
家畜でもペットでもいい。それを飼ったことのある方ならすぐわかるだろう。それを飼うためには馬小屋とか鶏小屋とか犬小屋とか猫の家とかを用意し、餌をやり、面倒みなければならない。なんのためにそんなことを?・・・。飼う方には飼うだけの利得があるからでしょう。
同じ問いはGoogle社にも向けていいだろう。「そんな餌をわたしたちにくれて、どうしようっていうんです?」。わたしたちからすると、Googleのそれは、あまり分明ではない。
しかし、まあ。人間は家畜なのだと諦めて、家畜として利得する方法を学んだり、編み出したりした方がいいとオレは思うようになった。それに、ことによれば、あなたが家畜を飼う方の人になる可能性もあるわけだし。・・・しかしGoogle社がGoogleMapをオレたちに無料で使わせて、オレたちを家畜にする利得はなんなのでしょうか?
月並みですが、セジェスタ神殿です。でも、これを見るとヤッパリじ~んとくる。これを見に行くために自動車をレンタルしました。借りたのはFiat500。いい感じ。でも、トラーパニ駅横のHartzへ行くのに30分遅れ、街中でミスコース。なにしろイタリアの街中の交通は日本では想像できないキツさがあります。なぜだと思います?のちほどこれを説明してみましょう。田舎に行ってしまえば楽勝なんですけどね・・・。
右に見える高速道路を運転してやって来ました。怖くはなかったですが、街中を抜けるのに緊張が強すぎて、その余韻でかなりビビッているオレ。中の絵がセジェスタの劇場(テアートロ)。その絵の中にアメリカはグランドフォークスから来た70過ぎにみえるご夫婦がいるのですが、見つけてみてください。その婦人は1970年代の若い時にいちどイタリアに来ているそうです。が、来たのが7月で、印象としては「何しろ暑すぎ!」だったそう。「いまがべストシーズンね」と言っていました。確かに花盛りです。さらに、シチリアでは夏になると暑すぎて草が枯れて枯れ野原になってしまうのだそうです。とは、後でレーコにおそわりました。こうしてオレたちは幸運にもシチリアのベストシーズンに行くことができてたのでした。
ここに座ってミニトマト・オレンジ・ビスケット・水で昼食。そのうち何人かの見物人がやってきて、うち一人が劇場の下の横ラインの上に立ってなにやら演技の様子。それに対して観客席にいた15人ほどから拍手と「アンコール!!!」。
それを見ていたオレはなんだかウズウズしてきて・・・。やってしまいました。例の「あれ」。歌舞伎。下手にQnS、上手にオレ。それが両側から出てきて、
「おきぬ!おめえってぇ女は、そういう女だったぁのかぁ!」「あら、やだよう!アタイがトメさんに会ったのは、そういう訳じゃあなかったんだ!」「それじゃあ、なにぃ、オレの得心のいくように、話してもらおうじゃあねえかぁ!」
これ。むろん拍手とアンコールをもらったことは言うまでもありません。石の劇場は、いい音響でした。セジェスタの駐車場を去る時には、オレはなんだか「Japanese famous actor!(日本の有名な俳優!)」と呼ばれていた、と言えば自慢話でしょうか。でも悪い気分ではありませんでした。
この劇場で何ヶ月か前、日本人女子の「古代琴」のプロモーションビデオの撮影の段取りをレーコが頼まれたそうです。当局に申請しても一向に許可が下りる気配もなく、出てきた条件が「地元楽団との共演なら」となったそうです。当日になって地元楽団員の人数は揃わず、古代琴日本人女子の注文は「これは宮廷琴だから、一切の拍手喝采を禁じてほしい」というもので、その辻褄を合わせるのに苦労したと言っていました。しかしいいビデオが作れたそうです。
下が古代人の住居跡。紀元前450年くらいのむかし、ここに街があったということです。その街の住人が祈りの場としての神殿を持ち、娯楽の場としての劇場をもっていたのでした。・・・。祈りと芝居かあ・・・。芝居には当然音楽がつくでしょう。
一体、どんな暮らしだったのでしょうか。前に時間について考えたときの結論として「わたしたちは未来そのものを経験することはないが、祈りとして未来を知っている」ということだったのを思い出します。そこに神殿があるということは古代人がそこで祈り、そのような祈りとしての未来を知っていたということです。
ですが二千数百年後に地の果ての極東から、日本人が飛行機と電車と船と自動車をつかってこの場所を見にくるなどという未来は祈らなかった(知らなかった)はず。そうなのですから、そこに暮らした古代人にとっての未来とはなんだったのでしょうか。そして、その伝でいけば、わたしたちの未来とはなんでしょうか。
おまえらの住んだ街と、祈った神殿と、楽しんだ劇場が、おまえらの祈った未来とは関係なく、今や観光資源として利用され、地元民ならず世界中の人に様々な夢をみさせています。その夢が足元から湧き上がって、その様々な人々の「いま・ここ・わたし」となって実現している。そういうことでしょう。
祈りはまた夢であり、そして、実は、その夢の別名が「欲望」であることをご存じの方は、そう多くないはずです。それが未来という時制です。未来とはそのようなものです。
2/27(金):: 農民市場・レンタカー返却・もうレンタカードライブはやめよう・・・か?
朝()昼(レジデンスにて)晩(Hostaria S.Pietro 38€)//宿(アパート”Galibardy31″)
トラーパニ最後の夜は大衆食堂「サン・ピエトロ」で。エントラータ・ミスタ(前菜盛り合わせ)で開始。大衆食堂になぜそんな聖人の名がついているかというとサン・ピエトロ教会の裏にある食堂(トラッテリア)だからだそうです。
2/28::①トラーパニ発~アグリジェント行②ギリシャ遺跡③この日のアグリジェントの宿は・・・
朝(部屋食;パン・マグロのナマハム・オレンジ・ほうれん草の炒め物・ヒーコ)昼(アグリジェントの La Promenade Del Templiで38.4€;カルロ・レーコ・QnS・オレ;自分は自分払い。つまり割勘)晩(B&B””傍のエノテカで;赤ワイン・水・;レーコ・QnS・オレ;払いはウチ・・・)//宿(B&B”La Dolce Vita – Luxury House”/30€/人・日くらいか?三人ならこの三倍の90€ほどだろう。支払いはレーコだから、ハッキリした金額は分からない。支払い原価なんか訊かないのが礼儀だし。朝食は前日の注文に従って部屋に配膳される)
このコースの運転手はレーコの夫のカルロだ。専用車はレーコの車。なんだ!夫婦そろって観光業きゃ!いいえ。文句を言っているのではありません。
「お安くあげる上ためには、これしかないのよ!」とはレーコの弁。けっこうです。それでこそオレたち貧農に、こんな旅行ができるってものサ。レーコだって手取りをそれなりに確保できるだろうし。工夫工夫でお願いします!カルロの運転は凄い。まったくカーレーサそのもの。150kくらいでガンガン飛ばす。そのスピードで前車3メータまで近づき間髪を入れず追い抜く。お見事。が、QnSは怖がっていた。レーコは時々文句を言っていたが、そんなの聞くようなカルロじゃあない。オレはカルロの運転のうまさを認めて身をまかせた。
「イタリア人は一般に運転が上手」とはレーコの解説だが、事故も多いいんですよね・・・。日本に帰ってくると、なんだか自動車の動きがスローモーションのように感じる。
そのカルロの運転でアッという間にアグリジェントに着いた。でも、今日が日曜日で道が空いていたというのもある。それにしても欧州の街というのどうしてはこうも斜面の上につくられるのだろう。
上の写真から見て、右下の谷合というか、丘というかに下の「神殿の谷」はある。
これね。まあ、これらの絵はネット上に氾濫してます。オレもその氾濫に加勢しているってわけだ。でも・・・。ね。やるっきゃないでしょう。
これを見るためには先ず見学料が10€/人。です。他のところでもそうだったが、この手の世界遺産の見学ってどこも10€/人でした。
見学通路を入ってくるとまずこれが見えます。その名は「ヘラ神殿」。
この場所について以下のような解説がネット上にあります。
『アグリジェントの遺跡地域 Area Archeologica di Agrigento 所在地:アグリジェント (シチリア州) パレルモの南128km 登録年:1997年。紀元前6世紀からギリシャ植民地としてアグリジェントは古代地中海世界の重要都市のひとつでした。威厳あるドーリア式神殿がいくつも街に建てられ、アグリジェントの覇権を誇示していました。それらの20近くの神殿遺跡群が、アーモンドの木や果樹の広がる丘に、今も「神殿の谷」とよばれ残っています』(イタリア政府観光局公式サイト)。
次がこれ。「コンコルディア神殿」。保存状態がいちばんいい。
夏にここへくると・・・。暑すぎて、身の置き場がないそうです。日陰ったって、そんなに多くない。干からびる。人間の干物ができる。そうなんだそう。いまごろの、アーモンドの花のころがいいようです。
『神殿の谷(Valle dei Templi)は、シチリア島南部アグリジェントに残る考古遺跡である。マグナ・グラエキアの芸術と建築に関する最高傑作の部類に属する遺跡群で、シチリア島の観光名所というだけでなく、イタリアの国定史跡にもなっている。1997年には、ユネスコの世界遺産リストに登録された。神殿の発掘や修復の大部分は、考古学者ドメニコ・アントニオ・ロ・ファゾ・ピエトラザンタ(Domenico Antonio Lo Faso Pietrasanta, 1783年-1863年)の尽力によるものである。彼はセラディファルコ(Serradifalco)の公爵(1809年-1812年)だったことがあるため、「セラディファルコ」という名でも知られている。「神殿の谷」と呼ばれるけれども、「谷」という語は不正確で、アグリジェント郊外の尾根に存在している』(Wiki)。
『ヘラ神殿からコンコルディア神殿に行く途中、左側にギリシャ時代アグリジェントの町を取り囲んでいた城壁が崩れながらも残っているのですが、よく見ると穴が空いているものが多いです。穴は、ビザンチン時代に墓地として使用していたときの名残です』(CiciliaClub)だって。
右。「ヘラクレス神殿」。いいねえ。なんだか突っ立って、残っちゃって。空は青いし。
実を言うと、オレ、ここで西脇順三郎(詩人)を思いだしていた。でも、中学生のころ暗唱したニシワキの詩が思い出せない。なんだったろう。「カッパがなんとかして、午後の陽が穏やか・・・」とかなんとかいうやつだったのだが・・・。思い出せない。でも、このセチュエーションは絶対ニシワキです。適当に見繕って挙げておきます。
天気 (覆された宝石)のような朝 / 何人か戸口にて誰かとささやく / それは神の生誕の日
太陽 カルモヂインの田舎は大理石の産地で / 其処で私は夏をすごしたことがあった / ヒバリもいないし 蛇も出ない / ただ青いスモモの藪から太陽が出て / またスモモの藪へ沈む / 少年は小川でドルフィンを捉えて笑った
冬の日 或る荒れはてた季節 / 果てしない心の地平を / さまよい歩いて / さんざしの生垣をめぐらす村へ / 迷いこんだ / 乞食が犬を煮る焚火から / 紫の雲がたなびいている / 夏の終りに薔薇の歌を歌つた / 男が心の破滅を歎いている / 実をとるひよどりは語らない / この村でラムプをつけて勉強するのだ / 「ミルトンのように勉強するんだ」と / 大学総長らしい天使がささやく / だが梨のような花が藪に咲く頃まで / 猟人や釣人と将棋をさしてしまつた / すべてを失つた今宵こそ / ささげたい / 生垣をめぐり蝶とれる人のため / 迷って来る魚狗〔かわせみ〕と人間のため / はてしない女のため / この冬の日のため / 高楼のような柄の長いコップに / さんざしの実と涙を入れて
この詩を後ほど吟遊してみますね。
でも、歌うためには、これを下のようにまで改作したいです。
冬の日(吟遊用改作)
荒れはてた季節に / 果てしない地平を / さまよい歩いて / さんざしの生垣を めぐらす村へ / 迷いこんだ
なべを煮る あなたの焚火から / 紫の雲が たなびいている
夏の終りに 薔薇の歌を 歌った そのあなたが / 身の破滅を 歎いている
実をとるひよどりも 語らない この村で / ラムプをつけて 勉強するのだ / ミルトンのように勉強するんだと 天使がささやく
だが梨のような花が 藪に咲く頃まで / 猟人や釣人と 将棋をさしてしまつた わたしが / わたしが
すべてを失つた 今宵こそ / ささげたい / 生垣をめぐり 蝶とれる人のため / 迷って来るかわせみと あなたのため / はてしない 女のため / この冬の日のために
このうたを ささげたい / 高楼のような 柄の長いコップに / さんざしの実と 涙を入れて
雨 南風は柔い女神をもたらした / 青銅をぬらした、噴水をぬらした / ツバメの羽と黄金の毛をぬらした / 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした / 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらし / この静かな柔い女神の行列が / 私の舌をぬらした
旅人 旅人は待てよ / このかすかな泉に / 舌を濡らす前に / 考へよ人生の旅人 / 汝もまた岩間からしみ出た / 水霊にすぎない / この考へる水も永劫には流れない / 永劫の或時にひからびる / ああかけすが鳴いてやかましい
旅人 汝カンシャクもちの旅人よ / 汝の糞は流れて、ヒベルニヤの海 / 北海、アトランチス、地中海を汚した / 汝は汝の村へ帰れ / 郷里の崖を祝福せよ / その裸の土は汝の夜明だ / あけびの実は汝の霊魂の如く / 夏中ぶら下がつてゐる
茄子 私の道は九月の正午 / 紫の畑につきた / 人間の生涯は / 茄子のふくらみに / 写っている / すべての変化は / 茄子から茄子へ移るだけだ / 空間も時間もすべて / 茄子の上に白く写るだけだ / アポロンよ / ネムノキよ / 人糞よ / われわれの神話は / 茄子の皮の上を / 横切る神々の / 笑いだ
碑文 岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や / いろいろの人間や小鳥の国を考えたり / 「海の老人」が人の肩車にのって / 木の実の酒を飲んでいる話や / キリストの伝記を書いたルナンという学者が / 少年の時みた「麻たたき」の話など / いろいろな人間がいったことを / 考えながら歩いた
オディッセアス・エリティス 太陽よ、太陽は万能ではなかったか? / 鳥よ、鳥は絶えず動いてやまない喜びの瞬間ではなかったか? / かがやきよ、かがやきは雲の大胆ではなかったか? / 庭よ、庭は花の泰楽堂ではなかったか? / 暗い根よ、根は泰山木を吹くフルートではなかったか? // 雨の中で一もとの樹がふるえる時 / 魂の立ち去った身体を不幸の女神が黒ずませてゆく時 / 狂った者がおのれを雪で縛る時 / ふたつの眼が涙の流れにゆだねられる時 / その時、鷲は若者のゆくえを尋ねる / 鷲の子は皆、若者がどこへ行ったかときづかう
ELEGIA 風が / さはやかな午後のアヴェニュをふいてゐた / あなたの眉は細く / アラビヤの地平線のやうに / かなしかつた / そして / あなたの日日は / 僕たちの泪に縁取られた / ゲンスボロオの美しい一枚のミニアチュルでした / ね / ではさやうなら / あなたの優しい皮肉なわらひ / そしてわたしの嘘のセンチメンタルを / いま / なつかしく思い出しながら / 秋風の街を僕はあるいてゐる / すこし哀しく / 疲れて
皿 黄色い菫が咲く頃の昔 / 海豚は天にも海にも頭をもたげ / 尖った船に花が飾られ / ディオニソスは夢見つつ航海する / 模様のある皿の中で顔を洗つて / 宝石商人と一緒に地中海を渡つた / その少年の名は忘れられた / 麗らかな忘却の朝
眼 白い波が頭へとびかゝってくる七月 / 南方の綺麗な町をすぎる / 静かな庭が旅人のために眠ってゐる / 薔薇に砂に水 / 薔薇に霞む心 / 石に刻まれた髪 / 石に刻まれた音 / 石に刻まれた眼は永遠に開く
ネット上にあるニシワキの詩を手当たり次第にパクッてきて、並べてみました。どうもスミマセン<m(__)m>!オレがむかし暗記した 「カッパが ふんどしをして なんとかかんとかして・・・ 午後の陽が穏やかです・・・」 ってやつはみつかりませんでした。残念。
ですが、上のような神殿群を目の前にしたとき、あなたが何を言うかが問題なのです。
「わ~!すごい!」なんて言ってもだめです。そんなの、なにか言ってることにならない。
で、ニシワキのどの詩でも、その一つを神殿に向けて言えば、なんだか、その神殿について何かを言っているような気がしてくるはずです。そういうことをあなたに言って欲しいのです。・・・。言えないでしょう。へ。
イタリア政府観光局も、Wikiも、観光会社のサイトも、ニシワキのような言い方はしない。観光客が自分のサイトに書いている文などみれば、まあ、それらのサイトの言っていることのパクリを並べたてているばかりで、自分の言葉などない。そして、やたら写真が多い。文はほぼ、ない。
それは・・・もう、みんなで観光「お題目」を唱えているということだ。誰かが主唱するお題目をみんなで唱える。その教団の信者であることを示すためにだ。その教団の信者であることの救いを得るために。観光にはそういう面がある。観光教団の信者たちへ祝福はあるか?
オレの場合は、観光客とも、観光会社とも、政府環境局とも、Wikiとも、むろんニシワキとも違うことを言いたい。それこそが今ここでしている「ぶっちゃけ話」だ。だが、ぶっちゃけ度が低いような気がする。もっと精進するぞ。
こんな寝室、いかがでしょう?きようの宿はこれ!Booking.Com の Prise of Luxury house (豪華な家賞)の賞状がフロントに飾ってあった。シンプルモダンが信条のオレからすると驚愕だ。
この宿をとったのはオレじゃあないからね。レーコだから。こんなところにQnSと寝てどうしろって言うんだよ。この宿にはオレとQとレーコと、もう一人、イタリアにはこれで30回目という一人旅日本人女子の計四人。で、この宿は日本人で占拠されていた。眠れるかなあ・・・。眠れねえだろなあ・・・。
何事もなかった。・・・よく眠れた。
2/29(日):: ①ピアッツア・アルメリーナ郊外のカザーレ別荘跡で今回初めて日本人団体と会った②陶器の町カルタジローネで買い物③キアラモンテグルフィはファブリッチョの家族のやっている宿へ。
朝()昼()晩()//宿(Albergo”Villa Nobile”。ファブリッチョの母ちゃんと婆ちゃんがやっているキアラモンテ・グルフィの宿屋。オレの見当としては三人で100€くらいと踏んでいる。支払いはレーコ)
ピアツァ・アルメリーナ(街の名前。その郊外の「カザーレ別荘跡」に世界遺産の遺跡がある)へ行く前にアグリジェントの坂道から遠くギリシャ神殿をのぞむ。目の前はオリブの木とアーモンド畑だがアーモンドの花はもう終わっていた。暖冬で開花が早かったという。地中海の水平線が美しい。これから、この海岸線をあとにして、内陸へ入ってゆく。きょうの最終行先はキアラモンテ・グルフィだ。
内陸部ではこんな景色が続く。なおシチリアでは日本の花見のような習慣はないそうです。すればいいのにねえ。
ピアッツア・アルメリーナへの道すがら今日の宿の御曹司のファブリッチョと記念撮影。ファブリッチョはレーコに頼まれて自動車を提供し、運転手もやっている。一人で皆どり丸儲けの態。後ろは麦畑の中のアーモンドの花。
シチリア、よろしいなあ。ファブリッチョはレーコに気があり「仕事終わったらアグリジントまで送ろうか?」とかなんとかモーションをかけているようだった。がレーコにぴしゃっと断られていた。とはQnSの観察だ。イタリア語なんかできないQにそんなことが分かるのは女の感か?それともイタリア慣れしてきたのか?あとでレーコ本人にきいたら「その通り!」とのことだから、Qの感と慣れが正鵠を射ている。
途中突然ヒツジが出てきて喜んではしゃいでいるオレたちに怒り狂う羊飼い。「テメーら、早く消え失せろ!ケツに手ぇ突っ込んでハラワタかきだすぞ!」くらいな剣幕だったらしい。オレたちイタリア語シチリア方言なんかわからないから、いい気なもの。ファブリッチョとレーコはそれで傷ついたのだろうか?
こんなのがアグリジェントからキアラモンテ・グルフィへ続く道の両側に展開しています。
植えられている麦は硬質小麦。乾燥にやたらつよい。これの種をちょっと手に入れたので、ことしの10月にウチの畑に播いてみるつもりだ。たぶん、実らないのだとおもうが。
下の絵があるのがピアッツア・アルメリーナ郊外の「カザーレ別荘跡(ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ/Villa Rumana dû Casali)」です。これ有名な絵ですよね。これが床に色石モザイクで描かれています。左上隅にそれとはちがったアラブ風の模様がみえますが、この絵の下はそうなっているっていうことです。だからどうした?って問われても困りますが・・・・。世界にはオレの知らないものがいろいろあって、それを資源にして多くの人が食っているってことで納得してもらいたいってことです。だからどうした?ってことじゃあないんです。そういうオレの発見(ニュース)なんですってば。
アーモンド畑が時々出てくる。
陶器の街カルタジローネでの買い物。小鉢5・手付き深皿1。計35€くらいだった。
この階段の両側に焼き物屋の店が点在する。しかし、土産物として売るというより、ここで焼いた陶器を全国各地に出荷しているという。
ここで修業した日本人女子が葉山で自分の工房を持って同じような調子の焼き物を作っているのだが、希少品でなかなか買えないそうだ。
階段の下でQnSをお姫様ダッコして上まで駆け上がろうとしたが、レーコとファブリッチョに抑えつけられて実現しなかった。
もっとも、その前にQは、オレから身をかわして逃げていたのだったが。
3/1::トマト農家のエンリコのハウスを見せてもらった。エンリコは100人からの使用人を抱えるシャチョウだ!・・・オレは貧農だ・・・。
朝(Albergo”Villa Nobile”でC/Style)昼(ラグーサのバルで;ぴさ・ふぉっかちゃ・???・???・グラスワイン・水;四人??€)晩()//宿(B&B”Pallazzo il Cavariele”。貴族の館の中にあるB&Bだ。鍵を三本渡される。一本は道からこの館に入るため。もう一本はB&B部分に入るため。三本目は自分の部屋に入るためである。これはローマテルミニ駅前のホテル”Andreina”でも同じだった)
ファブリッチョの母ちゃんとばあちゃんがやっている宿屋「Albergo”Villa Nobile”」を発ってバロック様式の街として世界遺産のラグーサを観光し、今日と明日の宿があるモディカに行こうとしているのだが・・・。オレが日本のトマト農家だということを知ったファブリッチョがシチリアのトマト農家に知り合いがいるから「見ていくかい?」とオレに訊く。「見たいねぇ」とこたえるオレ。それが昨日の話だった。そうしてファブが段取りをつけてくれた。
ファブリッチョ自身は宿屋の御曹司なのだが、職業としてはストーブ屋をやっていて、かなり稼いでいるらしかった。彼の顧客として彼が出入りしているのがトマト農家のエンリコの家なのだという。下の地図で見ていただけるように、エンリコのハウスは海辺にある。その海辺は長さ30㎞にわたってプラスチックハウス地帯なのだった。実際行ってみると海岸線にそって、ぎっしりとハウスが立ち並んでいた。イタリアのトマト早出し産地なのだ。花卉もレタスもあった。
このコースの特徴は果樹地帯であることだ。といっても、果樹単作ではなくモモあり、オレンジり、レモンあり、生食ブドウあり、オリブあり、アーモンドあり、ザクロあり、何でもありありの果樹地帯で、畑も小区画モザイク状。なんだか日本ににている。昨日までの風景とはかなり違い、ラブリーだ。
エンリコはシャチョウ、オレは貧農。こうしてみればオレの顔は間抜けているからバカでもある。
ここは土耕ハウスです。その前に水耕栽培ハウスを見せてもらっています。それが広いんだ・・・。しかも何棟もあって。土耕の方では3.3本/㎡の植え付け、売り上げが8ユーロ/㎡ くらいとのこと。ちなみにいうとオレの方は2本/㎡、売り上げがユーロ換算で15くらい。日本のほうが有利!でも、エンリコったら奇想天外なことを試験中でした。のちほど紹介します。
これ。エンリコの試験ハウス。何が「試験」だとおもいますか?・・・。
水耕でトマトを高いところに植えて、蔓を下におろせば「誘引の手間が省けるんじゃないか?」って試験なんだって。
オレ、こんなの考えたことなかった。奇想だ。天外だ。オレも10本ほどやってみようかな・・・。
トマトの売り先は(輸出で)北欧。国内ではベネチア周辺。北のベネチア周辺での特産品のなんとかという細長いトマトをシチリアでつくって、早出しで稼ぐそうです。その競争相手はモロッコとのことでした。そういえばモロッコの大西洋側はハウス栽培地帯だったなあ。
すごいよね。ラグーサの街。世界遺産。どういうわけで凄いのか?それを言わなくっちゃだめでしょう!・・・でも、なんだかスゴイ。
これがモディカの街。ここに今日と明日の宿がある。
きょうの宿。街道沿いの貴族の館B&B”Pallazzo il Cavariele”。自分の部屋にたどり着くまで三本の鍵をつかわなければならない。それはローマのホテル”Andreina”でも、パレルモの宿屋”Ellena”でも同じだった。そんな事を知るのさえ旅慣れぬオレにとっては発見なのだ。
3/2::ジョルジョの運転でワイナリー「プラネタ社」の農場を訪ねる
朝(B&B”Pallazzo il Cavariele”の食堂でC/Style)昼(下の写真のとおり)晩(Apuria ro vinu下の写真のとおり)//宿(B&B”Pallazzo il Cavariele”)
プラネタ社のブドウ畑つきワイナリーです。51haとのこと。ワイナリーは地下にうめられていて見えない。このブドウ畑にはアグリツーリスモ(農家民宿)が併設されている。二棟あり一泊二万数千円と一万数千円とのことだ。そういう宿を利用する場合、レンタカーは必須アイテムとなる。レンタカーは一日一万円くらいかな。計一泊三万数千~二万数千円。いかがです?
でもそれは二人でその程度の値段だから、どうなんだろう。そのへんの三ツ星の標準的なホテルで60€~100€(60*130~100*130=7,800¥~13,000¥)/二人部屋、くらい。これに交通費が別にかかる。・・・。やっぱりアグリツーリスモの方が高額になるなあ・・・。
でも。このロケーションが占有できるんだから、文句は言えないとおもう。この気分の良さは別格だ。
この日の昼はプラネタ社のワイナリーでいただくことに段取られていた。客はオレたち3人と、パレルモから来たワインの販売業者の男二人だった。その両組にプラネタ社の社員が説明役につく。オレたちの方についたのは下の写真にみえるディアーナだった。四種のワインの試飲つき。オレに試飲は「豚に真珠」っぽい。「猫に小判」とも言う。すまない・・・。アルコールは好きなのだが、試飲して違いが分かるほどの者ではない。オレの文化程度は低い。
オレは彼女にいくつか質問をした。①ぶどうジュースに加糖はしないのか?②白ワインは皮を入れず赤ワインは皮を入れるというが、白に皮を入れ赤に皮をいれなかったらどうなるのか?③こんな観光客にこれほどのもてなしをし、説明役に一人がついて、何を利得しようとしているのか?④そこに見えている51haの畑の土地所有者はだれか?⑤発酵が済んだあと樽に寝かせたり瓶に寝かせたりするのはなぜか?などである。
①加糖はしていない。それをせずに高濃度アルコールのワインができるブドウがとれる場所がここである。そういうアドバンテージのある場所を探して自社の畑をシチリアのあちこちに作ってきた。
ここは土地が非常に乾いている。雨もすくない。あまりの乾燥でブドウが枯れてしまう危険もある。そのときだけ、ブドウが死なないていどに潅水する。そういう作り方なので糖度が非常に高いのだ。北の・・・などのワインなども有名だが、そちらでは加糖をしているだろう。ブドウの糖度がそれほど上がらないからだ。ここではその必要がまったくない。
②・・・。そういうことをするワイナリーもあるが、ウチではしない。売れなければ話にならないからだ。そういうものをつくってもお客に好まれなければ商売にならない。わたしたちのワインづくりは趣味でやっているのではない。わが社にとっては、よく売れるものがいいワインだ。
③わが社のワインは日本にも輸出されている。お前たちが日本に帰ってわが社のワインの話をしてくれれば、それでより多くの日本人がわが社のワインを買ってくれるだろう。ここにこうしてやってくる日本人は社会的に影響力の大きい人物であると、わたしたちは踏んでいる。お前たちの社会的影響力を利用するためだ。(影響力なんて、ありませ~ん!みんなが嫌がる貧農で~す!)。
④目の前に見えている麦畑がここのブドウ畑のはじまりだった。そこに先ずわが社の小さなブドウ畑をつくった。そうして、まわりの畑を少しずつ買っていって、いま51haになっている。すべてわが社の持ち物である。
⑤酵母による発酵は二十数日で終わる。糖がアルコールへ変わる発酵はそこまで。しかし発酵がおわって、そこに出来た化学物質は2,000種以上にのぼる。それらの化学物質が化学反応を起こすのだ。それが時間的に止まることなく進む。ある時、匂いや味が人にとって好ましいものになる瞬間がある。その瞬間を狙って、寝かせる。そうしたものは高く売れる。それが寝かせだ。
だそうです。通訳はレーコ。なんだかレーコのイタリア語はすげえ。まったく淀みがない。日本人三本の指にはいるんじゃあねえの、ってくらいだ。
最後の夜-さよならモディカ。こんな人通りのない路地裏にある食堂へ案内される。案内人はもちろんレーコだ。話によると、どうやらここに彼女の青春があったらしい。そういう昔の場所に戻ってきて、そこに知り合いや師匠がいて、そこを訪ね挨拶を交わせるというという生き方に大きな間違いはないだろう。
この街で、街の人たちとあまりにコミュニケーションをとり過ぎたので有名人になってしまって、一キロ先の店まで行くのに何人もの人に呼び止められ三十分もかかってしまうような事態にも陥っていたとのこと。
トラーパニへ移ってからはそこのところは気をつけて、素っ気なくしているのだという。有名人・人気者になるのも考えものだと言っていた。そういうことで言えば、素人がTVタレントになど憧れるのは考え違えもいいところ、ということだろう。
「わたし」に向けられる視線が全くない、「わたし」について語られている声がどこにもない、というのが究極の孤独だが、その逆に、いつもこの「わたし」が見られ、この「わたし」に声をかけられる有名人というのも、人の幸福にとっては厄介なものなのだ。
論理はラジカルに、生活は中庸にとは昔からいわれていることである。その通りだと思う。言ったのは誰?アリストテレスでしたよね。
その食堂で。この旅行最後の夕食。赤ワイン一本・水一本・ヒーコなどをつけて。〆て46€。全体のチョイスはレーコである。上手だとおもう。
あしたは帰途につく。
3/3::①さよならモデイカ②エトナ山③カターニャ空港からローマへ④ローマから成田へ
朝(ホテルの食堂でC・Style=パン・チーズ・ハム・ばなな・オレンジ・牛乳・ジャム・バタ・ヒーコなど)昼(カターニャからフエミチーノへの飛行機の中でラスク・水・ジュース)晩(フェミチーノから成田までの飛行機のなかで食事二回飲み物一回)//宿(自宅)
宿「B&B”Pallazzo il Cavariele”」の前でレーコに見送られ、車に乗り込んだQnSとオレだ。よく遊んだ。車は昨日と同じものだが、運転手はジョルジョからダリヲにバトンタッチされている。街中を抜けるときそのジョルジョを見かけてダリヲが手を振っていた。空港まで二時間。ダリヲには別れ際の握手の中に5€入れておいた。これでシチリア旅行が終わる。
3/4::成田着
- 今年の旅行が終わった。来年はどうしよう。ついに中東・アフリカ側へ行こうか?ギリシャくらいでやめておこうか・・・。それとも再度アドリア海東岸か。べネチア周辺か。ローヌ河遡行なんてのも考えられる。イスタンブールからギリシャのイゴメニッサに抜けて、フェリーでブリンディシに渡りアッピア街道をローマまで行くなんて相当ヤバそうだが、いつかやってみたい旅だ。
キャシング(借金)の損得:: Visaカードで100€の借金を2/20にローマで、シンコに手伝ってもらってしてみた。成田に帰ってすぐカード会社に問い合わせたところ、
100€=12,600¥のレートで、3/6にすぐ返済すればその額12,699¥。利息が99¥である
と分かった。
これは放っておいても4/4に決済され、その金額は12,872¥。利息=12,872-12,600=272¥。であることも、再度の問い合わせで分かった。
99¥で済むところ、放っておくと272¥かかる。この差(272-99=173¥)をどうかんがえるか?
問い合わせの電話代はこちら持ちだし、振り込み手数料もこちら持ちだし、それに銀行まで行ってATMで振り込み手続きもこちらでしなければならない。少額の借金なら放っておくのがいいだろう。
しかし、いくらくらいの借金をした場合は、即座に返却したほうがいいのかについては、オレにその計算能力がなく、なんとも言えない。どういう計算をすればいいのだろうか?
1,000€の借金だった場合はどうか?10,000€なら、即返済したい気がするが。ただし10,000€の借金はローン限度額を超えるので不可能だ。
どちらにしろ現地の両替屋で両替するよりはいいように思える。
追記:振り込み手数料216¥だった。
Ⅲ::旅のあとで・・・
・・・