言葉と、言葉のようなもの_その2_それが行われる具体的現場からの報告

言葉と、言葉のようなもの_その2_それが行われる具体的現場からの報告

 

以下何気なく言語論(176)

きょうの漫画::何かのコピー・・・

そのコピーなんだけど、①「カメラで風景をコピーしてみた」。①の「カメラ」を「ヒト」に入れ替えると、②「ヒトで風景をコピーしてみた」となる。➀と同じように②も有意味な文ならカメラ=ヒトということになるのかどうか。

等号で結ぶのには無理があるようだが、物や事を情報化する手段としてカメラにしますかヒトにしますかという、両者を同じ範疇に属する物として捉えるのはいいだろう。

同じ範疇に属するものとして物や事を捉えるのが言葉だ。(=「概念」として捉える。概念は言葉によってしか表せない。例:イヌ・ネコ・松・杉など)。

概念は絵に描けない。絵に描くと一つの具体になってしまうからだ。犬の絵を描いたって犬という概念は表せない。その絵を見て「あ、犬だ!」と叫べば、その言葉が犬という概念を表すが、絵自体は概念を表さない。具体的な犬(の情報)にすぎない。その範疇を表わせる情報化手段が言葉のユニークさだ。

その独自性は逆に言葉で何か言うと概念でしかないことでもある。「花子」と言えば、言葉としては花子という名を持つすべての人=つまり「花子」という範疇になってしまうのである。英語などではそれを避けるためにTheがある。”The Hanako”と言えばそれは概念ではない。が、それは話者と被話者の暗黙の同意によってその場かぎりで成り立つ一回ポッキリ、その都度のことさ。

ついでに言うと絵文字は範疇をあらわすから言葉である。絵のふりをした言葉だ。しかし言葉でありながら皆に承認された発音を持たないところが変わり者なのよ。

あなたは変わり者ですか? オレは常識の精髄の権化ですから変わり者ではありません。常識が服着て歩いていうようなものだ。

言葉ではあっても世の中にたった一つしかないもの、例えばテムズ川とか富士山とかは概念ではない。だって範疇がないから。この場合だけ「言葉は概念を表す」とは言えなくなる。あなた、「そうかな~っ」てずっと疑っていたでしょう? そんなこと言ったって、ダメですよう~。

カメラとヒトが同じ範疇に属することを表す、その概念に「名付け」が必要かもしれない(=命名という=名のあるものはすべてかつて命名されたものである。神も美も犬も松も。これを考えるのを「命名論」という(らしい))。

「情報化手段」でどうだろうか?概念としてこの言葉を使うと考えやすくなると思うんですけど。

問1::言葉は情報化手段か。(答え::そうです。情報化手段です。絵や音楽と並んで人類の最も古い情報化手段だ。それに比べカメラはかなり新しい。文字はカメラより古い。)

こういうふうに言葉をいじくりまわして何かを発見しようとするのを認知言語論的発見と呼ぶ(らしい)。そう教わっています。

『らしい、らしい』ですみません。

そのことなんです。言ってダメ、言わなくてダメって悩んでいたことは。気分良くないでしょう? こんなこと言ったって。

<(_ _)>! すみません。

問2::情報化手段としてカメラではなく、ヒトを代入した場合、それを使って何かを情報化しようと欲望するのは誰か。カメラのかわりに忍者またはスパイの例と自分自身の場合を使ってこたえよ。

問2-1::元に戻ってカメラの場合ではどうか。言葉ではどうなるか。(「所有」ということを問題にしなければならない感じがするが。誰がカメラの所有者で、忍者やスパイへの命令権は誰にあり、言葉の持ち主は誰で、あなたの持ち主は誰か、など。あなた自身が忍者とかスパイとかである場合もある(だろう)。)

問3::何かを情報化したいという欲望は、誰に、どういう道筋をとって起源するか。報道写真家、新聞社の社会面の編集者、テレビ局の所有者、この日記を書いているオレの場合で考えてみよ。

問4::欲望プログラムはどう書けるか。その筋道を記せ。

問5::機械が欲望しだすのはいつの日か。あるいはそういう日は来るか。

 

 

何気なく言語論(175)

あ~。何が困難かと言えば・・・「情報」が多すぎることだ。

誰かが言っていたことだが(たぶんモリナガタクロウ)『過去二千五百年の間に発話されたのと同じ量の情報が今ではたった二年の間に語られてしまう』というのである。つまり「情報」の生産量が約千倍のスピードになった。そしてそこでの『発話』とは「情報」のことである。・・・では何が情報なのか?

その辺で人が知り合いに会って「おはようございます!」と挨拶しても(発話しても)、それはその場限りで、「情報」にはならない。挨拶という「事そのこと」なのだ。が、これをボイスレコダーにとると、とたんに「情報」になる。ここで言っている情報とはそのような記録されたもののことだ。(このへんのことを言っているのはヨウロウタケシ)。つまりここでの情報とは情報化されて在るもののことである。物・物事そのものと、それについて情報化され、情報となったもの(!)を区別しよう。

かつての発話は情報になどならなかった。だって発話を記録するものがなかったもの・・・。三万五千年前には、文字さえもなかった。これじゃあ発話を情報になどしようがない。発話はいつも発話という、ものごとそのものであり、情報などではなかったのだ。

こんな例はどうか。「あの山のむこうに何があるのか知りたい」という欲望があるとき、その山のむこうに行ったことのある人が来て「大きい湖があってヤマメがいっぱいいる」と話してくれた。これは、その「山のむこう」についての情報だろうか? YでもありNでもある。「山のむこう」その物ではないという意味で情報であり、しかしその場限りだという意味で情報ではない。その場に起こった事そのことなのだ。

思考も情報にならなかった。考えている本人には考えている自分が感覚的に分るだろうが、それは情報にならない。せいぜいその思考をその場で喋って、その場で消える。情報にする(情報化する)ツールがないからだ。文字もなければ粘土版もパピルスも木簡もありゃあしない。そうなると何も情報になどならない。物そのもの、事そのことがあるだけである。

モリナガのいう事を正確に書き換えれば、今では「過去二千五百年の間に情報化されたのと同じ量が(たった)二年の間に情報化されるようになった」ということである。それを可能にしたのが情報化機械(ワープロ、デジカメ(静・動)、ボイスレコーダ)だった。そうして情報化されたものがネットワークで結ばれることになった。つまり電算機的に情報化された言葉、画像、音声が流通しはじめた。これです。流通のマーケットを作ったり、それに乗って商売したりして大儲けする者もあらわれた。

そういえば、サンマン五千年前の絵ってどこかにありましたよね? それが人類最古の「情報」だ。 石器とか人骨は(ここでの定義の)情報ではありません。物そのものです。それについて記述したり絵に描いたり叩いて出た音を録音したりしたら情報になります。それの臭いとか、味とか、触り心地などは情報化する技術がありません。それを情報化するには、それの情報化技術と、それを情報として乗せるメデイァの発明が必要だ。言葉ではそれを情報化することはできます。が、元の物そのものとはまったく似ていない。「リンゴ」ということはできても、その匂いも、味も、触り心地も、言葉は伝えない。

こうして過去二千五百年の間に生産されたのと同じ量の情報が二年間で生産されるようになり、流通している。オレのこの日記などもその生産の中に入っている。これが非常な困難をもたらす。情報が多すぎるという困難である。

じゃあ、問題ね。

問1::わたしたちはどういう情報に接したときにその生存を有利にできるか。

問2::その情報が「面白い」か「面白くない」かに従った場合はどうか。

問3::その「面白い」「面白くない」の感覚はどうしてわたしに起源したのか。

解いてみてください。オレはこれが解けず右往左往しています。この困難に苦しんでいます、あ~苦しい!

QnSなどはドラマが好きで(つまりそれを「面白い」と感じているので)、そればっかり見ている。オレはドキュメンタリとか科学ものとかテツ学ものとかが好きで、それらを選択的にみている。

・・・これ何だかヤバくないか? って苦しみです。

 

なにげなく言語論(174)

「出来ることをしよう!」などという呼びかけがある。最近気が付いたことだが、その「出来ること」で一番やりやすいのは思う事と考える事だ。出来ることをしよう!」などと呼び掛けられるとスグ「いやだなあ・・・」などと思ってしまうし・・・。思ったり考えたりは簡単にできる。と言うか、自我などに関わりなくそう(思ったり考えたり)してしまう。

それはとても簡単である。だから「出来る事」なのだ。が。それを外に表明するのにはためらいがある。そんなことを表明するとひどい目に遭いそうだ。ひと昔まえなら「非国民!」などと言われ、指さされ、ご町内の連絡も来なくなる。その連絡には米の配給日もあるのだが、来ない連絡では米の手に入れようもない。そうして飢える。飢えれば最終死ぬ。つまり思ったり考えたりしたことを他者に表明するのはかなり危ない事なのだ。

しかし、自分が何かを思ったり考えたりしたかどうかは、どうやって分りますか? それを感覚的事実に変えるのが言語使用なんだってことにも気が付きました。この言語使用は内言です。つまり何らかの形でアウトプットしないと自分が何を思い、何を考えたか分かりません。内言はすでにアウトプットですてば!

ここにこうして書いているこの日記は内言ではなくデスクール(=談話=外言=パロール)だ。それはそういう事で、相当危ない行為なのです。思ったり考えたりしたことを表明するのには細心の注意が必要だ。危ない、あぶない。

じゃあ、あなた。何を考えているんですか? 何を思っていますか? 内言とデスクールに分けて、教えてください。

あ・・・そうか! あなたの内言なんか絶対に知ることが出来ないんだって、いま気が付いたです。だってあなたの説明とは、わたしへのデスクールだもの。あなたが「内言としてはこんなことを思い、それをこんな風に言ってみた」という、それに内言はまったくないからだ。全部デスクールだった。

 

 

 

なにげに言語論(173)

九州鹿児島なんか五十年に一度の大雨。ここ山梨白州もすごい雨。『雨が止んだら』お別れなのね。じゃなくて、これじゃあ「雨が止んでも」草刈くらいしか仕事ができない。あ~!顔文字:=(´д`)。

  • 自分で作る気はしませんが顔文字に興味があります。
  • 顔文字は「文字」とはあるものの言葉ではないような気がするのです。
  • ①見える(物)、②聞こえる(物音)、③味のする(物)、④手触りのある(物)、④臭いのする(物)。⑥体の状態はこうだ(内部感覚)、⑦気分はこうだ(感情)のうち⑦を表すのに顔文字が有効です。そういうものの一つ。しかし人工的だ。
  • 「自然物(=客観的実在)なんてない!」というのも一つの見識です。オレはどちらかというとこちらに属する。そんなものない。すべては言葉なんだ。存在するものはすべて言葉だ。言葉にならないものは存在しない!存在を基礎づけているのが言葉だ!
  • この気分を表現すれば、顔文字:=∑(゚Д゚ )どや! どや顔。
  • 「ない」のではなく「ある」。「ある」が「そのもの」を認識できない。このへんはカント(1724~1804)のコペルニクス(1473~1543)的転回とおなじ。
  • 言葉をつかって存在を認識している。
  • その下位に顔文字はある。物もそうである。内部感覚も感情もそうである。言葉が一番上位にある。これなしで顔文字も物も内部感覚も感情もない。記号と言語では(記号<言語)なのだ。
  • づーっと(記号>言語)だと思われてきた。ソシュール自身、言葉を記号学の一部として考えようとしていた。でも成功しなかった。一時記号学が注目されたがいまはほとんど注目されない。それはが(記号<言語)が「自然物(=客観的実在)」だったからだ。そのことに言葉が追い付いてきたということだ。在ってもそれ自体を認識できない。言葉で語られるかぎりでの客観的実在の認識なのだ。
  • カントはそこまで行っていない。まだ時代が古かったからだ。いまは2019だぜ。この間人類イロイロ経験したですよ。その経験は言葉で伝えられている。
  • 「人類の経験」っていいますが、カント以前の人類の経験とカント以後いままでの人類の経験では質的な違いがある。身体の拡張の度合いの量的な違いがもたらす質的なちがいだ。だって産業革命があったからねえ。
  • 文の中に顔文字を混ぜることを嫌う方もいる。
  • それはどんな気分かを伝えるには(顔文字は)いい記号ではあるが、それを言葉としてどう読むか(=発音するか)が決まっていないからだ。
  • それだけではなく、各自然言語にはその言語に固有な文字使用・結合記号があるが顔文字にはない。正書法もない。
  • オレは言葉に興味があるのでその流れで、顔文字を使って言葉って何なのかを知るヒントにしたいという欲があって、興味を持ってしまう面があります。

あれ~? なんだか矛盾してる・・・。

 

なにげに言語論(172)

何日か前に仕掛けたトラバサミですが、何が掛ったと思います? カラス! もう死んでる。なんだかイヤな感じです。そのカラスの死骸を狙って別の野生動物がやってくる。先ずは肉食の鳥でしょう。そしてハエ。そのうち色々な菌。あっという間に・・・。死骸はなくなる。

カラスたちからの復讐はあるのでしょうか? 殺生を禁じるのは仏教でしたっけ。でも、殺さずに食うことなんかできないですもん。そこを言葉で「いただきます!」とか言ってごまかす。言葉にはそんな機能もあるようです。

言葉は概念となって「言葉の世界」を作ります。これです。世界は「物の世界」と「言葉の世界」からなっています。この両者は感覚を通して相互にやり取りをします。

前にも言いました。この感覚は生まれつきの五感や体内感覚だけではなく望遠鏡や顕微鏡を換喩とする「人工的な感覚器」でももたらされるのです。この方を注意しなければなりません。

それだけではない。自動車とか飛行機とかトラクタとか温室とか、感覚器ではないようなものも、それを利用することで距離や時間や労働や気候が何であるかについての概念を変えます。つまり人工物を通して「物の世界」の感覚の仕方が変わる。そうすると「言葉の世界」が書き換えられる。

書き換えられた「言葉の世界」に住むわたしたちはその持つ欲望が変わる。そうして変えられた欲望は行動の仕方を変える。変更された行動の行き先は①「言葉の世界」へか、②「物の世界」へか、あるいは③その両者へか、または④どちらへも行かないか、の四通りだ。

概念から組み立てられた「言葉の世界」。この無形で非物質の人工物こそが「言葉のチカラ」の源泉だろう。きょうはこのことについて。

先ずは「個人の言葉」と「言葉の世界」の関係について。

どうでしょう・・・。国立国会図書館とかいう大きな図書館があるそうです。「言葉の世界」はこの国立国会図書館などを表象するといいのではないか。むかしバクダットには「知恵の館」というのがあり、それも図書館だったという。そういうものを思い浮かべると「言葉の世界」がなんとなく見えてくる。しかし「言葉の世界」はそうした「物」ではない。

忙しいから、またあとで。

 

なにげに言語論(171)

  • 世界はどうなっているかについては、かつては「神話」によって語られていた(と人から聞きます)。
  • 「神話」も捨てられたわけではないが今では「科学」によって語られるものの信用が高い(ように思われる)。
  • そうすると神話も科学も役割は同じで「世界がどうなっているかについて語ること」だ。(科学の細分化が言われており、世界などという漠然としたものについて科学はなにも語らないという人がいますが、そんなことはないでしょう。その細分化された科学の知見を参考にしながら当の細分化された科学の現場にいる科学者が世界について語っています(例:・・・、数えきれない)。この語りの信用度が今は高いということを言いたいです。)
  • 棒高跳びに棒が必要だったように、語るためには言葉が必要である。
  • だから「世界について語って、それでどうなるのか?」という問の答えは同時に「言葉の働きはなにか?」という問いの答えにもなっているはずだ。棒高跳びをするときの棒の役割とおなじように語ることにおける言葉の役割を言えばよい。

世界について語って何がどうなるんでしょうか? ご存知でしたら教えてください。オレの感じでは「世界はこうなっているんだから、~~すべきだ」というお話を作って人の行動を方向付けることではないかと思うのです。そうだとすれば朝の「おはよう!」の挨拶からはじまって素粒子を語り暗黒物質を語り生命の起源を語り進化を語り意識を語る科学までの言語使用は全く政治(的)ではないですか。

政治(的)ではあるが、その語りは世界に何の変化ももたらさない。語られたところで世界はそのままである。世界が変化するのはその語りの政治力によって人の社会が世界に向かってなにか行動をおこしたときだ。世界はこの行動を受けて変わる。

 

なにげに言語論(170)

  • 本を読まなくなった。
  • ネット発信が言葉を運ぶメインのメディアになったからである。
  • 本を読まなくなったからと言って、言葉にふれることが少なくなったということではない。逆である。
  • YouTubeとかWikiPedeiaとかKindleBookとか個人のブログとか各大学のサイトとかNHKとかがネットを通して言葉を運んでくる。新聞社も本屋もあやしげな団体も政党も会社もネットで言葉を発している。
  • その量はかつて本や雑誌や新聞を読んでいた時より圧倒的に多い。
  • 本は文字だがネット配信の多くは音声で言葉を発している。
  • 試しにその辺の図書館など覗いてみれば閑古鳥が鳴いている始末だ。だからこのことはオレの身の上に「だけ」起こっていることではなく、「みんな」の上に起こっていることなのだ。
  • そこで大事なことはどんなコンテンツ(言語内容)に触れるかだろう。
  • 皆さんにはみなさんの好きなコンテンツがあり、オレにはおれのすきなそれがある。QnSなどは料理とドラマと身の上相談とお気に入りブログとかで、オレはドキメンタリとか科学ものテツガクもの音楽もの風景ものエロものなどだ。特定のブログもある。
  • そんなふうに、日々触れているコンテンツによってあなたのたの人格が作られて行く。小声で言うがあなた、あなたが日々ふれている言葉によってあなたの人格は作られてしまいますよ。これも言葉のチカラの一つです。
  • その人格を使ってあなたは世間を生きなけりゃならない。だからコンテンツが大事なのだ。より幸福を呼び込む人格の方が得なのに、それに反しているものを作っているかもしれないでしょう?
  • どういう言語内容にふれるとより幸福を呼び込む人格をつくれるかが問題だ。
  • あなたに何か良い解答はありますか?
  • そういう問題のことを『倫理問題』といいます。
  • 「本を読む」に対して「本を書く」を置けば、オレが「本を書く」などという需要はどこからも来ないだろう。自費出版なんてまっぴらごめんだし。
  • 「読む」の受動に対し「書く」の能動は日記とかノートとかメモとかだった。それは個人的なものだった。
  • それが今はこんなふうに書いた日記をあなたに読んでもらえる。本を書いているわけではないが、オレの発信はこれで十分である。毎日言いたいことをいっている。これが精神的にとてもいい。
  • 良い時代になった。そうおもう。
  • 「本を読む」については、今までとはちがった「特別な行為」として位置づけられるのではないかと思っている。
  • それは「物としての本」の材質感の(目もくらむような圧倒的な)呪術性によるだろう。
  • それはメディアの問題である。物としての本にある言葉はネット上の言葉とはちがうメディアの上に在るのだ。
  • 意味は言葉にではなく、そのメディアに在るのだった。それが個人の脳内の生理化学反応であれマスメディアの巨大放送設備であれネット環境であれ、言葉はメディアの上にしか存在しえない。

 

  • ::(ここで「言葉」と言っているが、言葉の他に「音」「画像」もメディアに乗る。味と触覚はいまのところ「それを持つ、物そのもの」の上にしかない。メディアにのるもののことを「情報」と言ったらどうだろうか? 「あそこのトンカツ、めちゃうめえんだ!」と言った場合、その味はメディアでは伝わらないが、その味について「めちゃうめえ!」という情報は伝わる。遠隔外科手術などの場合触覚を情報化しなければ実現しない。言葉は音声言語なら音だし、文字言語なら画像だから、メディアに乗るものは音と画像といってよい。言葉はその両方になりうるということだ。)
  • 「本を読む」とは、その言葉が本の上にある場合のことなのである。その場合その言葉は特別な意味を持つだろうと言っている。
  • ネット時代の読書は個人の行う何かしらの秘儀として有意味なのではないだろうか。そう思っている。
  • 読まなくなった本ではあるが、呪術的秘儀としてする読書はまた、密かに行う生活習慣を通して(=秘儀)、何を祈るのか(=呪術)、という問をもたらす。
  • そうした本としてオレがいま読みたいと思っているのは『旧約聖書』と『記憶・歴史・忘却』である。
  • が、何語で読むか?
  • 『旧約聖書』は古代ヘブライ語、『記憶・歴史・忘却』は現代フランス語だ。日本語訳もあるが呪術性にあやかるためには原語でないといけないような気がする。
  • どうしよう?
  • 読めなくも持っているだけで何かのご利益はないものだろうか?
  • なにしろ呪術的秘儀を持つことを「わたしの読書」とするわけだから・・・。

 

  • ・・・。
  • また後で。

 

 

なにげに言語論169番

  • このところ面白かったニュースは国交副大臣ツカダ君の「忖度」発言である。
  • 「下関北九州道路」の建設是非の調査について『私、すごく物わかりがいいんです。すぐ忖度します。「わかりました」と。』とツカダ君は4/1に北九州市の集会で発言した(らしい)。
  • 下関はアベ総理の地元で北九州はアソウ副総理の地元だ。
  • アベ君は内閣の長であり、国交省はその中にあり、ツカダ君はその国交省の中で副大臣の地位にある。
  • そのツカダ君が諸事情を忖度して「調査予算を付けておきました」という発言をしたのが問題にされている。

QnSもオレもこのニュースを聞いた時「ツカダ君てなんて正直なヒトなんだろうと!」と心底感心した。アベ君からもアソウ君からも直に頼まれてはいないが、その立場にあるワタシが忖度して予算をつけておいたというのである。正直なひとだなあと思った。

こういう正直なヒトには政治家ではなく詩人になってもらいたい気がした。『詩と真実』というように詩作とは真実を語る行為だ。結果ツカダ君はこの発言の責任をとって辞任した(という)。

いえ!別に政治家を腐しているわけではないんです。人には向き不向きがあるって話です。政治家というのは近代に出て来た職業です。が、政治なら古来からだれでもやっています。言語使用がまさにそれ(政治)です。あなただって言葉をつかっていらっしゃるでしょう。それ、あなたのやっている政治ですってば。政治をやる(=言葉を使う)からと言って政治家ではありません。逆にツカダ君は政治家としての言語使用を間違ったのでした。つまりメディアとしての自分をまちがってしまった。政治家としての政治(=言語使用)を間違えた。

ちょっと!なにボ~としてるの。

あなただってメディアなんですよ。政治(=言語使用)をお間違えになりませんように!ツカダ君と同じ目にあったってオラあ知らないよ。

世の中に不幸な人っていますけど、その不幸は第一義的にはその方の内言も含めた政治(=言語使用)のまずさに起因っしているとオレはみます。いかがでしょうか?つまり・・・。

以下はこのことについての言語論。

・・・(いそがしい。また後で)

 

 

なにげに言語論168番

  • カルロスが逮捕された。
  • 東京オリンピックに続いて大阪万博の開催が決まった・・・。
  • そういうことが言葉を使ってネットやテレビや新聞やラジヲで伝えられてくる。
  • 伝えられると、オレみたいに、(こんなふうに)反応してしまう。
  • 見なければいい。聞かなければいい。そうすれば反応しなくもいいのだが・・・。
  • でも、そんなこと、できない。
  • どうにも出来ないことに対して反応しないではいられない。
  • それは言葉を持つ者の一員としてこの世に組み込まれているからだと思う。
  • それが苦しい。
  • しかしそこから仲間外れにされたら気が狂うだろう。寿命も縮み「あ」っという間に死ぬだろう。
  • だから苦しみながらそれをやり過ごす術を身につけるしかない。
  • そんなすべはあるのか。
  • ばかになるとか?
  • なろうと思って努力すればなれるものか?
  • 自然になれればいいのだが、努力してなったばかはどれほどのばかなのだろうか?

言葉の世界のなかの一個の歯車。それが日本語なら歯車が一億二千万個ほどあり、それが組み合わされて全体をつくる。その一個であるより仕方のないわたし。そこに噛みあわされ動かされる(=動く)わたし。

::その全体はどういう仕組みでうごくのか。::「全体」とは何か特定の言語圏である。日本語圏とか英語圏とか中国語圏とか。グローバル化したといっても世界言語圏というものはない。世界共通語はない。それに近いものが現代のリンガフランカとしての英語だ。・・・。そこに何かの話(=話題)がばらまかれるのは「話題生産者」の読みに依存している。話題生産者はNHKとかBBCとかNYTとか朝日新聞とか日テレとかとしてある。それらはマスメディアと言われている。オレもこんな日記を書いているから話題生産者ではあるが、ソロメディアである。

マスメディアはそれに関わる人々が何かの話題を作り出し、それを発信することで「食っている」メディアだ。食うためには話題が多くの人の関心を引くようなものであった方がよい。どんな話題がより多くの人々の関心を引くかは不明なので、賭けを仕掛けるより仕方がない。彼らがカルロスの逮捕や大阪万博開催決定を話題として出すのは「これ話題としてこれでどうですか?面白いでしょう?」とわたしたちを相手して賭けているのである。

彼らは賭けにほぼ常勝する。だからチカラのあるものはその常勝の運気を取り込むために彼らをてなづける。

そういうことだと思います。

ソロメディアにはみんなが関心をもつような話題を提供するソース(資源)がない。ローカルなのだ。だからローカルなことに関してはマスメディアより圧倒的にソロが強い。そんなことはマスメディアの人はよく知っていて、あっちこっちからソロメディアを拾ってきて利用する。利用されたくてうずうずしている人も多い。そのためにマスに秋波をおくったりする。

マスメディアのチカラとはソロメディアを束ねる能力である。取材とはその具体例だ。そんなことをするのは、話題提供を仕事として、食うためである。

 

言語論167

ヨウロウ・タケシの言語論

二宮尊徳はなぜ薪をはこびながら本をよむのか?

  1. 感覚的事実と言葉
  2. 地図と現在地
  3. 現在地としての「わたし」
  4. 「いま」「ここ」に居る「わたし」
  5. すべての動物は「わたし」をもつか? / カラスの帰巣など / 植物には「わたし」が必要ない
  6. 言葉とは「違うものをEqual 、等しい、=とする意識の働き」のこと(概念?)
  7. その「わたし」が言葉を使うということは・・・
  8. 二宮尊徳はなぜ薪をはこびながら本をよむのか?
  9. 意味の世界の誕生

言葉についてあれこれ言う人に関心があり、そういう人が目に付くとつい注目してしまいます。今回はヨウロウ・タケシです。ネタはタケシがあっちこっちで喋っていることを出来るだけ視聴して集め(ネット上からです。本はむかし「バカの壁」を読んだことがあるだけです)、それを咀嚼して自分の言葉でしゃべってみようという趣向でっす。

 

メモ::言語論的第166番::意味の発生

コピーはしてみたが元絵の雰囲気は出ない。

構図は恐ろしく単純だ。逆にニワンスは恐ろしく複雑。それがいかにも「意味ありげ」である。こんなものが描ければ言うことはない。ヒガシヤマの心象風景だという。

意味ありげの「意味」ということで言うと、どんなに「意味ありげ」でもそれだけでは意味は生じない。それについて何事か言及された瞬間に、そこで言われたような意味が生じるのである。

ヒガシヤマは次のように言う。『遍歴の果てでもあり、また新しく始まる道でもあり、絶望と希望を織りまぜてはるかに続く一筋の道であったーーー遠くの丘の上の空をすこし明るくして、右上がりに画面の外に消えていくようにすることによって、これから歩もうとする道という感じが強くなった』、と。

この絵の「思わせぶり」は、ここで、そういう意味を獲得したのである。

が、それは「作者の死」を発見したロラン・バルトに言わせれば「そんなん、ヒガシヤマ(=つまり「作者」)の言ったことなんかじゃないもんね!」ということになる。

それを聞いていたマルクス主義者のルイ・アルチュセールなら「人は誰でも主体であると同時に臣下でもあるような者として仕立てれれるものです」と応答するはずだ。ヒガシヤマはこの絵の主体(つまり「作者」)であると同時に召使でもあるというのだ。そして、そのどちらも他者によって「仕立てられたもの」なのだ。

人をそのように「仕立てる」もののことを「権力」と呼んだにはミッシェル・フーコーだった。

(「権力」はフーコーの定義するもので、通常わたしたちが思っているような「権力」ではない。それは別の機会に。)

人間世界はそのように運行している。一枚の絵もこの運行の中にある。そして絵の作者は権力によって仕立てられたのである。

権力がどのような在り方をしているかが歴史でもある。これはそういう筋書の中で読むべき絵なのだ。いや・・・。すべてのものが歴史の中にあり、その作者(たとえばスチーブ・ジョブズだって)は「権力」によって主体であると同時に臣下でもあるものとしてしたてられたものと考えるのがいいだろう。

いずれにしろ、意味は言語使用によってしか発生しない。絵だけでは意味は無理なのである。「意味ありげ」なだけだ。

あれ? 「意味ありげ」と言ってしまった・・・。物語してしまっている・・・。

意味はこうしてなにげなく発生してしまう。

 

 

メモ::言語論的第165番::記号論?言語論?どうなてるの?

  • このところ森友と貴乃花が話題だ。
  • 森友問題とは、財務省理財局がカゴイケ君に瑞穂の国記念小学院の学校の建設用地を八億円もの値引きしてをして売却したことが何故なのかである。
  • 六億円で買いたい者はあったのに、それよりずっと安い1億3,400万円で売ったのはなぜかという疑問である。
  • そのことが国政段階で問題になっている。
  • なぜか?
  • その国有財産を管理する財務省理財局の行政の適切さが問題にされている。
  • 本来の価格から値引きされた分の損失を出したことの責任が、財務省を監督する内閣に及び、内閣の長である総理大臣アベ君に及ぶ。
  • というより、財務省はその内閣の顔色を「忖度して」そのような売り払いをしたのではないかと疑われているのだ。
  • その内閣を作ったのは自公だから、この責任は自公に及ぶ。
  • そういうアベ政治を許さない。
  • というのが野党側(民進、希望、共産、維新、社民・・・など)である。
  • いったいぜんたい、何が起こっているのか?
  • そこへのアキエ夫人(内閣総理大臣アベ君の奥方)の関与が圧倒的におもしろい。
  • 言語論的にはアキエ夫人で行きたい。
  • なにしろ「だれだれの奥さん」という社会的立場は身近だからだ。ウチの隣にだってそんな女子はゴロゴロしている。
  • オレにもそういう女子があり、その名はQnSである。あ、今くしゃみした。
  • 一方、総理とか党首とか高級官僚なんて見たことも話したこともない。なんだか遠い人で、そういう言葉として知っているだけである。

 

  • そして、アキエ夫人。そのアキヘ夫人とは、誰かによって作られた(詩とか小説とか演劇台本とかと同じ範疇に入る)「文学作品」なのである。常識からはかなり離れるが、ここではそういう立場をとる。
  • ウチの隣の奥さんも「文学作品」には違いないが、アキエ夫人とは違う作品だ。
  • アキエ夫人は文学作品であると同時に、名辞(=単語)であり、命題(=文)でもある。
  • そうなると、アキエ夫人は「言葉」なのだということになる。
  • それが言葉であるなら、言葉は誰かによって語られなければならない。

 

  • 言葉は語られることによって言葉となった「何か」なのである。
  • そして語られるとは、「それ」を使って、問われる、考えられる、発せられる、書かれる、挨拶される、怒鳴られる、注文される、などのことである。
  • その「それ」が何で、その「何か」が何なのかを言い当てれば、それは一つの言語論だ。
  • それがアキヘ夫人を言葉として考えるこの文の目的である。
  • それをやってみたい。
  • 言葉と思われているものを、物にまで拡張してみたい。
  • いや。物と言葉が未分化のまま一体化している世界のありようを描いてみたい。
  • そうすることは何をすることなのか?
  • それが出来るのは言葉だけだ。
  • 「それ」「何」?

 

アキエ夫人の言語論を(または記号論を)考えてみたい(=作ってみたい)。貴乃花の方も言語論的・記号論的に考えられるが、問題として面白くないので省く。国政の方が面白い。その中でもアキエ夫人がずば抜けておもしろい。そのおもしろさの理由がなんなのだかわからないが、おもしろい。そう感じている。

さて・・・。(忙しいのでまた後で)

メモ::言語論的第164番::そこから出られない・・・

1::三つのことを思っている。一つは①「生きているということ」。二つは②「言葉をつかっているということ」。三つは③「歴史の中にあるということ」。この三つである。

1-1::ウロボロス的::上記①②③は、すべてウロボロス的である。

1-2::上記は「考える」ということに関してウロボロス的なのだ。生きていながら生きるということを考え、言葉を使いながら言葉とは何かと考え、歴史の中にいながら歴史とは何かと考えている。ヘビが自分の尻尾に噛みつき、それを食っているのと同じ構図がそこに見てとれる。

1-2-1::例えば、目の前にある机を考えるときは、わたしたちは少しもウロボロス的ではない。わたしたちは少しも机ではないからだ。

1-3::他にこのようなウロボロス的具体例はあるか? あれば知り得るかぎり列挙せよ。

2::生きているということを具体へ展開すれば、立っている、息をしている、見ている、感じている、・・・などとなる。

2-1::立っていながら立つとは何か、息をしながら息をしているとは何か、見ていながら見るとは何か、感じていながら感じるとは何か、・・・と問えば(=考えれば)、それは1-3の具体例となる。

2-1-1::このとき、問うこと=考えること、としたが、音楽を作っているときとか、絵を描いているときとかは、その対象に向かって非言語的に考えているという経験を持つ人は多い。してみると問うことと考えることとは同じではない。言葉を使わずに考えることは、特定の場面で可能だが、言葉を使わずに問うことは(ほぼ)不可能に思われる。

2-1-2::問うために必要なものはなにか? 答え::言語使用が必要である。

2-1-2-1::・・・「骨が折れていないか?」と整形外科医が問う。答えはレントゲン検査によって得られる。が、その結果を外科医が「骨が折れています!」と告げなければ問うたことも十全にならない。問と答えは言語的過程である。答えを得るのには必ずしも言葉を必要としないが、それは言葉によってしか答えとされえない。

2-2::こうしてみると、ほぼ無限にその具体例は在る。

2-3::そのように在る無限のウロボロス的具体例を、まるで目の前にある一つの机のように扱うことは可能か? 答え::可能である。物事を科学的に取り扱うとは、そうすることだ。しかし、そのとき実際に「生きているわたし」は忘れ去られる。不問に付される。問から外される。

3::生きている・言葉を使っている・歴史の中にいるの包摂関係はいかようか?

3-1::生きていれば歴史の中に在らざるをえない。しかし、生きて歴史の中に在ったとしても、言葉を使わないということは可能だ。植物人間のように。またはあなたが眠っているときのように。

3-1-1::植物人間や、眠っているあなたは、生きて歴史の中にいると言えるか? それは、目の前に在る一個の机と同じではないか? 机が机自身で「生きて、歴史の中にいます」と言ったという話は聞かない。それを言うのは机を観察している人の発する言葉であるだろう。机はそのことに何も関知しない。

3-1-2::そうしてみれば、あなたが生きて歴史の中にいるのは、どんなことであれ言葉を使っている時ではないのか?

3-1-3::生きているためには、何がしか言葉を使わなければならない。そしてその言語使用は歴史の中にある。歴史の中に在らずに生きる事は不可能だ。

3-1-3-1::植物状態や眠りにあるとき、わたしたちは言葉をつかわない。その使わなさは目の前にある机と同じだ。

3-1-3-2::言葉を使うとき、わたしたちは机ではなくなる。そのとき生きている。歴史の中に在る。言葉を使うことにはそういう面がある。

3-1-4::朝。人に会って「おはよう!」と言えば、それは生きていることであり、歴史の中にいるということだ。

4::言語使用以外に、そのようなことを可能にする行為はあるか? 立っている、息をしている、見ている、感じている、・・・などでどうか?

5::ウロボロスの論理学を得よ。ここには不明なことが多すぎる。

 

メモ::言語論的第162::相撲取りは相撲を取る・またはH₂O(=水)について・情報とはなんだろうか?

情報漏洩とか情報開示とか情報がないとか個人情報とかと云うような場合の「情報」という言葉の使われ方がある。

これは情報科学でいう情報とも違うし、以前定義した、情報とは「すべての感覚的事実である」とも違う。いったい、そのように云われる情報の正体とはなんだろうか。それについて考えるのがこの文の目的だ。

そして情報には言葉が関わるだろうから、やはりこれも言語論の問題である。

情報科学で云っている情報などは言葉の論理の側面を機械(=電算機、コンピュータ)の上にのせたもので、これも言葉に関連している。そしてソフトウエアなどは人工言語によって書かれた一つの文として在るのである。その文が機械の中で働く。言葉のチカラの一面をそこにもみる。

それはそれとして、手始めに個人情報と云われるものの内容はなんだろうか。・・・。

その人の住所、名前、性別、年齢、家族構成、納税額、・・・。など。

しかし、それはその人そのもにではない。その人そのものとは、その人の身体のことだろう(か?)。身体とは物である(だろうか?)。しかし、・・・なのである。

ここで面白い例を思いついた。相撲だ。

相撲取りが相撲をとっているのを見ることがあるが、相撲取りは相手力士を情報化して、その情報に対して自分の身体を適切に動かして、(お互いに)勝ちを得ようとしているのではないか。そう思いついたのだ。

これで、ここで問題にしている情報が何なのかはほぼ全て解けてしまった(気がします)。つまり、ものの認識のことを情報化といい、そうして情報化されたものが情報である。

情報化されたものが情報になる。しかし情報はそれ自身の「身体」を持つ以外にありようがない。それが本であったり、新聞であったり、ラジヲ番組であったり、テレビ放送だったり、ブログであったり、音声であったり、写真であったり、CDであったりする。本も新聞もラジヲ番組もテレビ放送もブログも音声も写真もCDも、すべて物である(でしょう?ここはよく理解してもらいたいところです)。何かしら物の形をもっている。この物のことをメディア(=媒介物)という。メディアなしに情報は存在しえない。

きのう十日町で大火災があったという認識が誰かによってされた。それはたぶん、近所の人警察・消防多くの人報道関係者などだろう。それは何かが「大火災」として情報化されたことだ。それがテレビで動画つきのニュースとして報道される。それをわたしたちは見聞する。

報道されたそのものは現物の大火災ではない。たかだかテレビの画面の中の情報である。それが大火災といっても自分の家が延焼をこうむる恐れはない。その情報がもっている身体性は火事そのものではなく、テレビ放送というものだからだ。

相撲取りも同じことをしている。ただし、相撲取りは相手力士をその場の即座に対応すべきもの(=相手力士)として情報化している。その情報化する仕組みは日々の稽古の中で非言語的に訓練される。言語化などはしない。十日町の大火に対する消防士のする火災の情報化との類似性を指摘しておきたい。テレビ報道関係者は消防士のような情報化はしない。

問1::情報化のうち、なにが言語化される傾向をもつか?

1-1::言語化されないが、情報化される例をあげよ。 答え::絵、写真、録音、カニかまぼこ、プラネタリウム・・・など

1-1-1::カニかまぼこの情報について述べよ。 答え::カニかまぼこはカニの身ではないが、かまぼこにカニの情報を載せている。味覚については、やはり情報を運ぶもの(=メディア)として食物が用いられることに注意せよ。

1-1-1-1::カニかまぼこでは、なぜそんな情報生産が行われるのか? 答え::かまぼこをより高く、量多く売るため。

追記::2::水はH₂Oだと教わった。H₂を一人の相撲取り、Oをその対戦相手に見立てるとき、H₂とOは互いに相手を情報化しているとみることはできるか。そういう物理の世界にも情報・情報化を拡張して考えることができるか?

2-1::無意識の世界にもj情報は拡張できるか?

2-1-1::そのときの情報は誰のものか? H₂にもOにも意識は観察されていないが? 答え::水をH₂Oとして観察している特定の物理学者(化学者?)のもの。その情報が交換されてわたしたちまでも水はH₂Oだと言い出す(しまつだ)。

3::相撲取りは対戦相手を情報化する。その場合のメディアはなにか? 答え::対戦相手そのものがメディアである。

3-1::認識対象それ自体がメディアでるような例をあげよ。 答え::[自転車]乗り、[綱]渡り、[玉]乗り、[水]泳、[自動車]運転、[スキー]・・・など。

4::相撲の行司は相撲の何を情報化するか? 審判員ではどうか? 観客はどうか? 相撲解説者では?

4-1::社会は様々な立場の人によって構成される。対象の何を情報化するかは、その立場によって異なる。それは本当か?

4-1-1::なぜ社会には様々な立場の人がいるのか?

4-1-2::その立場を人だけではなく、シカやイノシやサルにまで拡張することは妥当か?

4-1-3::植物や無生物にまで拡張できるか?

5::認識対象から分離された情報が、その情報自体の身体(=メディア)を与えられたもの(例;小説、記事、論文、宣伝、番組、ネット情報、歌・・・など)はなぜ作られるのか? 答え::交換資源として有用だからである。もしあなたがのぞめば占い師はあなたを占うだろう。このことを見よ。占い師はあなたについての情報をなぜ作ったのかを考えれば、情報一般がなぜ作られるか分かるだろう。あなたから二千円の占い料が得られるからである。または希望を持ったあなたの顔が見られるからだ。

5-1::言葉の性質として「交換資源として有用な情報を作りやすい」ということを考えてみてはどうか。それは言葉の本質に関わるか?

5-1-1::言葉に本質(=「~とは・・・である」と記述されるようなもの)はあるか?

5-1-1-1::「~とは・・・である」とは「~=・・・」であることか?

5-1-1-1-1::その場合、なぜ「~」と「・・・」が別の記号として存在するのか?

5-1-1-1-2::等しい(=)とは何か?

6::認識対象から分離され、それ自身のメディアに乗った情報を使って、元の認識対象を操作することは可能か? 答え::情報の性質による。

7::「わたし」は情報か?   答え::情報である。

7-1::そうだとすれば「わたし」とは何を情報化したものか? 答え::相撲の場合、対戦相手を情報化して、その情報に対処するわけだが、相手を情報化して相撲をとってるこちらを情報化したものが「わたし」である。したがって、「わたし」として何かが情報化されていなければ、相撲それ自体が成立しない。

7-2::「わたし」が情報だとして、そのメディアはなにか? 答え::不明である。少なくも単独の身体ではない。身体は環境と繋がって在るからである。その環境の全体が何なのか、不明であるからだ。

8::【物、意識、認識、情報化、情報、わたし】などはすべて言葉である。それは本当か?

8-1::情報における嘘と本当はどう見分けることができるか?

8-1-1::情報としての「嘘」の有用性とはなにか? 答え::虚構を構成できること。

8-1-2::情報としての「本当」の有害性はなにか? 答え::虚構を傷つけること。

 

まとめ::①物は情報としてしか認識されない。物そのものに触れることはできない。触れていると知るなら、その知はすでに情報である。②情報は物としてしか存在しえない。その情報を乗せる物をメディアという。③情報がもと在った現物と、そこから取り出した情報は同居する場合と、分離する場合がある。④無意識の世界でも物の反応としての情報を考えることが可能である(ようにに思われる)。しかし、それをそう見ているのは意識である。意識とは認識である。認識は情報である。⑤「わたし」も情報である。しかし、それは何を情報化したものなのかは不明だ。

以上

メモ::言語論的第163番::「アタイのスリッパがない!」

それはQnSがオレに向かって言った苦情である。そう言ってからQはすぐに、そのなくなったスリッパを探し出して「ほら!こんなところにある!オマイのせいだ!」というのである。

このことについてQを調査したので、そのご報告をしたい。その報告がこの文の目的である。それがオレのせいだと言われるのは心外だったが、訊いてみればそのようにも思われるのである。

 

メモ::わざ言語『世界の成り行きを構築する主体でなく,世界の成り行きの中に捕らえ込まれ,世界の成り行きを自分で変えることができない無力な主体が,それでも世界の成り行きの豊かな全体を反省し続け,再解釈し続けようとして探す言葉。これが「わざ言語」として聴く者の身体に作用する』(フルタ・テツヤ)。

「主体(=わたし)」なんか捨てている者は、オレばかりではないことが分かった。でも、フルタってヒューマニズムの臭いがして好めない。

ホントの主体として「成り行き」を思ってみたらどうだろうか。『ざらざらした大地』の上では「成り行く世界」が語りの主体なのだということである。あなたもオレもこの「成り行き」によって語られる文なのだ。そして、その言葉を『聴く者』とは取りも直さず先ずその言葉を話す者からである。それは『身体に作用する』。その作用が言葉のチカラだろう。

ね!

しかし言葉は『ざらざらした大地』の上にのみあるわけではない。『つるつるした氷上』にもある。それがいまや人工言語となってAIを作っている。AIも発展する。チェスと将棋と囲碁で人類を負かし自動車を運転しようとしている。それも言葉なのだ。「成り行き」としてバカにはできない。

 

メモ::言語論的第161番::フォントについて

フォントとは書き言葉の印刷書体のことである。ここでやりたいのは、このフォントの概念を少し広げておきたいということだ。そうするとモノの見え方が幾分スッキリしてくる(ように思われるから、そうしたいのである=【思う・(ので)・そうする】)。

Wikiでは『フォント(font) は、本来「同じサイズで、書体デザインの同じ活字の一揃い」を指す言葉』とされている。

『一揃い』ということが大事である。このあいだ九州国立博物館で特別展「王義之と日本の書」を見ていた時にこれを思いついた。

王義之(=王羲之 ・おうぎし・Wang Xi-zhi・303年 – 361年)。四世紀の中国の人だ。その書が後の人の参照にされている。書聖と呼ばれるのは、その書が手本として参照にされる度合が甚だしいからである。日本人としてそれを参照して、自分の書体を作ったのは・・・。

最澄()・空海()・嵯峨天皇()・藤原行成()・栄西()・宗峰妙超()・後鳥羽天皇()・近衛信尹()・西郷隆盛()・与謝蕪村() などの人たちである(と、展示されていた)。

拡張1::王義之~与謝蕪村まで、すべてそれぞれの書体をフォントであるとしてみよう。ここでは印刷するための「活字の一揃い」を、上記各人の肉筆書体へ拡張した。

だから、あなたの書く肉筆文字も一つのフォントとなる。全ての人が書く文字がそれぞれフォントである。野口英雄の母の手紙を思い出してほしい。フォントとして味わい深いのだ。フォントにはそういう性質がある。

拡張2::言葉はメディアを使って発せられる。そのメディアが何かと云えば、先ずは音声である。この言葉を伝達するメディアとしての音声にもフォント拡張しよう。

「あ!あれはヤマダさんの声だ!」と分かることは、ヤマダさんの声をフォントとして認識したことなのだ。

これは上記の王義之~与謝蕪村までが、言葉を文字をメディアとして発していることから、すぐさま思いつくことだ。

拡張::さらに言葉を超えて、拡張してみよう。すべて様式として認識されるものは、フォントの認識だとするのである。

たとえば、建築、音楽、旅行、科学分野、・・・様式的なまとまりのある人為のすべてはフォントである。

拡張4::人為を超えた自然のまとまり。例;銀河、イチョウの木、ハチ、クモ、海、空、山、平原、j人体、犬、・・・きりがない。

こうして、わたしたちはフォントの中で生きている。

 

 

メモ::言語論的第160番:何かを意識するための言語化

「青マークされたところ」以下が今日の書き継ぎ事項です。そこからお読みいただくとよろしいかと思います。意に反して長くなってしまっていますので・・・。
(書き継ぎ中)
そういうことはある。では、なぜ人は何かを意識化するのだろうか?
言語化するとはとりもなおさず意識化することである。そしてその意識とは何かと言えば感覚されることだ。以前の論考で、全て「感覚されるもの」は情報だった。だから、言語化、意識化、感覚化、情報化がそこに同等の資格をもって並ぶこととなる。
しかし、そこにある「・・化」の化とは何か? 草冠の下に化を置くと花になるが、それとの関係はあるのだろうか。あるにしても比喩的だろうとは思うが・・・。こういうことをわざわざ言うのは、それをそうしようと「わたし」がのぞめば出来るのかという問いが底にあるからである。意識化なんかしようとしたってそう簡単にできるものじゃあないもんね、って感じがしていて、「化」に拘ってしまう。
しかし、何かを意識化するにはどうしたらいいのかと言えば、感覚器官を感覚対象に向けて、当該のものを感覚することである。
目の前に何があるのかを知ろうとしたら目を開けてそこを見る。そこに一個のリンゴがあることを目を通して感覚する。わたしたちはそうしてリンゴを感覚し意識にのぼらせる。音も、味も、手触りも、臭いも同じで、感覚器官を感覚対象に向けて感覚すると、それが意識化される。感覚されたものは意識されるからだ。意識化するためにはそうするしかない。
逆に言えば意識するためには感覚しなければならない。感覚しないものを意識することはできない。
身体の状態なども感覚される。きょうは気分がいいとか悪いとかである。腹痛、頭痛、筋肉痛、吐き気、尿意、性欲、・・・なども感覚である。立っているのか、座っているのか、横になっているのかなども感覚される。これらを感覚するための感覚器官は不明なものが多い。不明だから、感覚器官を感覚対象に向けるのに困惑してしまう。
言葉も感覚される。内言、他者の話し声、新聞の記事、難しい本に書いてあることなども感覚される。知らない外国語ならそれはそれなりに感覚される。
内言は当人の(発話しない)発話感覚だし、他者の話し声は耳に聞えて感覚される。文字は視覚を通して、点字では触覚で感覚される。味や臭いとして感覚される言語については知られていない。言葉はこのように感覚されるのである。
このように、感覚されるものとして、①:感覚器官をそれに向けて感覚されるもの、②:身体が送ってくる各種の身体感覚、③:言語使用に伴う言語使用感覚を区別した。
感覚されるものとして、もう一つ付け加えておこう。それは「わたし」である。「わたし」も感覚されている。
そう言うと、誰がその「わたし」を感覚しているのかという問が持ち上がるが、わたしを感覚しているのが誰かは分からない。それは感覚できない。それこそが無意識なのだ。
エルンスト・マッハが「誰のものでもない感覚」と言ったのはこのことだろう。目の前に一個のリンゴがあるのをわたしが感覚している、というのは間違いで、リンゴもわたしも感覚であり、その感覚はすべて「誰のものでもない」。誰が感覚しているか不明なので、だれのものでもない感覚なのだ。不明とは意識できないという意味での不明である。
よく「無意識が大事である」という議論があるが、それはそうではなくて「無意識が大事である」という「意識」が大事なのである。「無意識が大事である」というのは言語表現であって、それはそういう(言語)意識でしかない。無意識など大事にすることは不可能だろう。そういう手の届かない世界があるという意識なのである。この無意識が神であっても何の不都合もない。
そういう意識をもつために言葉が働いてくれる。その意識に従って行動するとき、何かしらその意識が効用をもたらすなら、「無意識が大事である」というその意識がよく働いたと言える。
このところ脳科学がもてはやされ、そこからの知見を用いた物事の説明がなされることが多くなった。それがそれなりの説得力を持つのは、現代の「物語作法」であって、MRIの発達という人工的「感覚器官」による新しい感覚的事実によってなされる物事の説明だからなのだ。
しかし、MRI(Magnetic Resonance Imaging ; 核磁気共鳴画像法)は誰でもが使える「感覚器官」ではない。わたしたちの目や耳や鼻や舌や皮膚のような感覚器官ではない。身体感覚のようなものでもない。誰もがそれなりに持つ共通の感覚器官ではないのである。
MRIで得た画像を使って何かのお話を作れる人はごく限られている。ある意味、その立場は特権的である。だが、そうした人工的な感覚器官を用いて作るものが「お話」だということが特筆すべきことなのだ。どんなお話かというと「これは、どうも、どう手術をしてもダメそうだなあ・・・」などということだったり、「ほら、「さっき覚えたことを思い出せ」という課題を与えると海馬が活発に活動しているから、記憶は海馬と関連しているんだ」などである。
そうした「お話」を作るためには言葉を使わざるをえない。絵でも音楽でも彫刻でも建築でも、「お話」は作れない。お話を作るには言葉が必要なのだ。
では、その言葉とはなにか? 抽象的にではなく具体的に考えてみよう。 ここにこうして書かれているのは日本語だというのは具体的である。書いているわたしは日本語が母語で、読んでいるあなたも(ほぼ絶対に)日本語を母語とする方だろう。
そして、こうして書いたり読んだりすることを「言語使用」と呼ぼう。(話したり聞いたりすることも勿論「言語使用」です)。 言語使用して言語感覚が得られるのは、第一に母語を使うときにおいてである。前にアラビア語を習ったことがあったが、言語使用感が得られない。「あれ、アラビア語かなあ?」くらいが関の山だ。
蛇足だが、ここで「言葉の意味」を定義すれば、それは「クリアな言語使用感がある」ということである。「何言ってんだか、意味、わかんね~!」とはクリアな言語使用感がありませんという事である。

ここで提案なのだが、言葉とは「感覚器官」なのだ、というのはどうだろうか。目とか耳とか舌とか鼻とか皮膚とかと同じようではないが、それでも、言葉は感覚器官だ。それをこれから言ってみる。この項全体の論考はこのためである。以下のご検討をよろしく。
身体感覚は、その感覚器官がどこにどんな風にあるのか不明だが、なんだか神経のこととして考えられている。痛みは身体感覚だが、痛み止めなんていう薬は神経に作用して痛みを止めるのだから、確かに身体感覚は神経の何かなのだ。
それなら言葉だって脳の機能に組み込まれた感覚器官だとしていいのではないか。その組み込まれ方は後天的で所属文化の言語に属し、母語として組み込まれる。それが組み込まれて、以後そいう感覚器官を持ったものとしての人生を送ることになる。
(これ、言葉の不思議さに対する、なかなかいい解答、ものの見方ではないか・・・。そう思っている。)
身体感覚の感覚器官がどこにどういう風にあるのかが不明だったように、感覚器官としての言語もどこにどういう風にあるのかは不明である。脳の中などと言ってはみるが、目や耳のようにそれを器官として取り出すことができない。それでも左脳に言語野があるなどとは言われている。・・・しかし、そんな単純ではないだろう(と、オレは思っているんですけどね)。
余談だが「小便がしたい」という尿意(身体感覚)はどういう感覚器官を使って発生するか知ってます?
ひっひっひ。オレ、頻尿・尿漏れ・失禁する男で、それがために泌尿器科にかかっている。その担当医にこれを訊いてみたってわけよ。
「センセー、小便がしたいって感じはどうして起こるんですか?」
「圧力だ! 膀胱の圧力を感じてそれが尿意になる。その圧力の元は膀胱の中の尿量に比例するぞ。それがオマエみたいに残尿が多いと、だんだん圧力の感受性が落ちてきて、尿意がなくなってくる。そうなると漏れが始まるな。いつもダラダラな。」
「オレ、そんなふうに漏ってませんゼぇ! 水道の水の出を見ている時だけです! 漏るのは。」
ね。そこに具体的な感覚器官は特定されなかったでしょう。
尿意ではそういうことらしいが、空腹(という身体感覚)ではどうだろうか。それは血糖値の高い・低い、か?
そうだとして、なぜ血糖値の低さが空腹という感覚になるかは不明でしょう。その機序をどれだけ詳しく説明出来るようになっても、その機序がなぜ空腹感という、あの感じになって、わたしたちに訴求してくるのか。その訴求に応えなければいけないわたしたちの苦しみ。それを感覚する、その感覚は、誰のものでもなく、わたしが背負わなければならない。そのことです。それは、いくら機序を説明してもダメでしょう! そいうことも言いたい事の一つだが、ここでは傍系だ・・・。

(書き継ぎ中)

 

メモ::言語論的第159番物そのものとその情報・・・

(書き継ぎ中)

困難な論題です。物そのものとその情報ですね。

食物、衣服、家を物そのものの例にあげましたが、それは全て言葉であるにすぎません。言葉は物そのものではない。情報である。

じゃあ、情報って何?

情報科学で言う情報は【on/off (= 0/1)】で作った束のことで、それを電気的にやると記録できるし、配送できるし、読み取れるし、計算にのるし、加工できるから極めて有用なのです。

オレがこうやってキーボードを叩いて書いているこの文がon/offで作る束にされて、その束がプロバイダーのコンピュータの記憶媒体に保存される。その所在地に番地が割り当てられ、その番地をあなたのパソコンが訪ねると、オレが書いたことをあなたが読めるというわけです。この過程の中の部分を機械(電算機;パソコン)がやっている。プログラマーでもないかぎりこの機械が何をやっているのかはどうでもいいことです。プログラマーだって機械語それ自体なんてなんだか理解することは不可能だ。わたしたちはその両側にいて、中は機械が処理している。

そうやって情報化できているものは文字、静止画、動画、音声です。

それらは全て物そのものから取った情報である。物そのものではない。ここで言う情報は、情報科学で言う情報と、日常言語で言う情報が、まだ未分化のままである。それを情報科学で言う情報にすれば【on/off (= 0/1)】で作った束になるし、日常言語で言う情報にすれば「感覚的事実」になる。

問題は日常言語でいう情報の方です。 オレ、これ、若い時からづ~と何だか分からずできました。

今は全ての「感覚的事実」=「情報」とすると他の概念との整合性がとれるように感じています。整合性がとれて矛盾が生じないこととは・・・「真理」ってことですよね。真理といってもオレは永遠の真理など信じていません。真理は何だってある時代、ある場所の真理に過ぎない。

全ての「感覚的事実」=「情報」。それをこれから説明してみます。

 

 

(書き継ぎ中)

 

 

 

メモ::言語論的第158番:言葉のちから再考

(書き継ぎ中)

きのう東電の関連会社の人が電気メーターの交換にきた。それは検針が遠隔で出来るもので「スマートメータ」というらしい。

月に一度、十八日ころ来ていた検針の女の人の仕事はこれからどうなるのだろうか。その人はウチの裏で、乗っている車が畑に落ちて、それを助けたことがあった人だ。もし、それで失職するとなれば、情報通信技術の進歩で失職する具体例である。失職したら次の仕事はあるんか?

これから二十年ほどの間に、同じような失職が先進国人口の四十六パーセントとか四十パーセントとか五十パーセントとかでおこると見積もる研究が発表されたのは一昨年くらいだったろう。AI技術の影響で、である。

そのような、そう遠くはない未来の経済社会について面白いモデル思考がウチダタツルのブログに紹介されているから是非ご一読願いたい(「経済成長という呪い(内田樹研究室)」で検索できます)。

情報社会の行く末がどんなものだかイメージしやすいモデルである。モデル思考の威力を感じもする。何か考えなくてはいけない事があったら、いいモデルを作って、そのモデルで問題を考えるという思考方だ。この思考方、好きです。

さて・・・。と。

このことに関連した言語論を打ってみたい。「きょうの予定」の方に書いたことを先ず下にコピペする。

『①:酒は「気をつけて」飲むように ②:尿道緊張緩和剤の「ザルティア」は様子を見ながら、飲まなくもよい ③:CT検査の結果、腎臓や尿管に異常はなく ④:オレの前立腺肥大は中葉性肥大と言って、手術は短時間で終わる(「でも、するのは七十過ぎてからな!」)とのこと。その辺、すこしホッとする。

このホッと感は、医師の語る「言葉」によってもたらされたものだ。それは言葉のちからの一具体例である。

では、医師が語るのと占い師が語るのとオレ自身が語るのとでは言葉のちからに違いがあるか?

あるに決まっているが、その違いの発生源はなにか。 なかなかおもしろそうだぞ。

つまり、オレの「頻尿・尿漏れ・失禁」という苦しみについての「語りのありよう」によって、それを苦しむオレが不安だったり、ホッとしたり、絶望したりするわけである。その不安、安堵、絶望などの心理的事態は言葉に影響されていたのだ。そのことを語る語りがどうであるかが不安、安堵、絶望などの源泉だった。

これは言葉の(言葉による語りの=言語使用の)ちからである。そういうことをきょう発見した。

ヤリー!

一言付け加えれば、言葉は物質的世界に対しては何のちからももたないが、心理的世界に対してはちからを持つのである。言葉の物質的世界へのちからは、ヒトの心的世界を通してその行動を変え、その行動が物質世界と反応することによってだ。言葉が物質的世界に対してもつちからは、かなり屈折しているのである。』

 

メモ::言語論的第157番AI::Artifichial Intelligent:人工知能の世界

このところ人工知能が話題である。それは、すでにチェス、将棋、囲碁のゲームにおいて人が人工知能に勝てなくなったという現実が出現したことに表れている。

人工知能は物質的にはコンピュータが担っている。人間の思考を担っているのは脳である。コンピュータは人間が作った機械で、この機械がする情報処理が人間の脳がする情報処理よりすぐれているという結果が今の段階のチェス、将棋、囲碁でのコンピューターの実力だ。

機械が人の能力を拡張させるということでいえば、自動車とか飛行機がすぐ思い浮かぶ。走る速さと距離において自動車は人の走りをはるかに凌駕し、飛ぶことにおいては飛んでせいぜい九メートルの人間が、一飛び二万㌔ができるようにしてしまったのが飛行機だ。

こういうことができるようになったのは、科学的思考の蓄積による。科学的思考とは要素還元的思考ともデカルト的思考とも機械論的思考とも言われ、全体を部分の集まりとしてして観察し、全体が何かの動きをすることを部分の協働の結果とみる思考法である。そこには必ず要素間の原因結果関係が前提されている。

思考の蓄積はむろん書き言葉によってその経験が書かれることによって可能となる。

機械を作るにはこの思考法が欠かせない。コンピュータはこの思考法によってできた機械の一つである。

たとえば医学では人体をそのように観察して発達した一つの言語体系であり、この体系を使って病気治療をしている。

医学が観察する「人体」を人がする「生活」と入れ替え、生活を構成する要素として行為を特定し、次にその行為の構成要素として人(自・他)、物、空間、時間、情報、エネルギなどの協働として観察すれば、それはなにがしか「生活の科学」になるだろう。

しかし、生活を「わたしがする」ことと生活を「科学する」ことは同じではない。「わたしがする」ことは実存であるが、「科学する」ことは他人ごとなのだ。歯が痛いとは科学的にこれこれしかじかのことだと説明しても、その歯を痛がっているのは他ならぬこのわたしだというのが実存である。これが要素還元主的な思考の限界だろう。つまり科学主義の限界。要素還元的思考とともに実存的思考も必要なのがわたしたちの真の姿なのである。

この「生活」を「宇宙」と入れ替えても、それを見る目が科学的であるなら思考法は要素還元的であるより方法はない。そうしてできているのが宇宙科学だ。

宇宙も生活も人体も、それを科学的に考えてきた人類の歴史の蓄積があり、その蓄積を利用して人は様々な機械をこしらえてきた。そしていま行きついたはての機械がコンピュータで、その使い方の一つとしての人口知能なのだ。

機械とは言えないが、人の能力を拡張させる道具としての初発は石器だった。

いま道具と機械の違いについてなにか言ってみたいとは思わない。が、人の筋力だけで使うものが道具、人以外のちからを使って利用するものを機械としておいたらどうだろう。だから自転車は道具、水車で動く粉挽機は機械ってくらいの感じだ。

しかし、人が石器を手に持つとき、そこに要素還元的思考があったかどうかははなはだ疑問である。少なくも言語的な思考はなかったと思う。「それはそういうもの」として(非言語的に)石器を手にしてマンモスに立ち向かったのではないだろうか。実はこれはかなりの含蓄があり、すでにわたしたちは膝うえのPCを「それはそういうもの」として使っている。

道具であれ機械であれ、使用する段になると「それはそういうもの」になってしまうのである。そこに要素還元的な思考など必要ない。使用には科学的思考など邪魔なだけだ。思考ではなく、機械に対する身体的な習熟こそ必須だ。道具の見たてた言葉なども全くそういうものである。それが使用ということだ。

ふ。で、機械を使用して何しているの? 生活しているんでしょうが! つまり生活は身体的習熟によってなされている。

さて。AIですね。AIを担うコンピュータは人のどんな能力を拡張させるのか。自動車が走る能力を拡張させ、飛行機が飛ぶ能力を拡張したように、コンピュータという機械は人のどんな能力を拡張させるのか。

考える力の拡張? よせやい!

根本的には人はなぜ道具をつかい、機械を使うのかにこたえなければならないだろう。

当然、その反対に、道具に使われ機械に使われる人の姿にも注意をはらう必要がある。

この使ったり使われたりする現象が「どこで」起きているのかがなにがしかの答えを与えてくれるだろう。といっても、この「どこで」は場所的な意味ではなく、社会的な意味においてである。私たちは「人間という自然現象」を生きており、その中で道具や機械を使ったり使われたりする現象がおきているということだ。

こうしてわたしたちはすでにむきだしの身体ではない。「物と統合された身体」(U-Body)を生きているのである。この身体が、同様の他の身体と関係をつくる。だから社会変動の根本は、ここでの物の項の変化を通して、身体が歴史的に変容することを通して起こると思っていいだろう。むきだしの身体はシカ、イノシシ、サル、時々クマにまかせよう。わたしたちの体はU-bodyなのである。そのU-body構成の物の項としてコンピュ-タの出現とその高速化を考えないといけない。

 

 

メモ::言語論的第156番(ぱくりシリーズその6):「~する」ときに言葉は必要か?

  • なんだかんだと嘆きはある。
  • 齢をとって行くこと、日々の労働がきついこと、妻とのあいだがうまくいかないこと、世界情勢が不明なこと、子、孫がいないこと、頻尿・尿漏・失禁、などである。
  • そのうち「少しの金」さえあれば解決できる嘆きはなにがあるだろうか?
  • 少しの金があれば「日々の労働のきつさ」は、その労働をやめることで解決できるかもしれない。が、そうすると、仕事がなくなってしまい「キョウヨウ(=今日の用事=今日用)」がなくなってしまう。そこにはべつの嘆きが発生するだろう。
  • 他の「齢をとる」「夫婦仲」「世界情勢」「子なし」「尿漏れ」などは「少しの金」ではどうにも解決できるようなものではない。
  • そうかと言って大金を積めばなんとかなるというものでもなさそうだ。

 

  • いったい、嘆きというものは解決するべき何かなのか。
  • それとも「嘆く」ということができる、そのこと自体が幸福なことなのか。

 

  • そういえば嘆くときにも言葉を使うなあ・・・。
  • それも言語行為だ。
  • 生きていること=生活していること=暮らしていることが、行為の共時的・通時的な結合として考えることができるとは、要素還元主義に属する思考法だ。いわばデカルト的な思考法だ。
  • 科学(的思考)とはまさに、ことを要素還元主義で考える思考実践である。
  • でも詩は思考ではあっても要素還元的ではない。
  • それは上手に嘆く芸だ。

 

  • で、嘆きとは?
  • 『痛み, 哀惜, 悲哀, 愁傷, 不祝儀, 悲嘆, 哀傷, 哀しみ, 憂事, 傷心, 悲しみ, 憂い事, 哀情, 憂き目』(google翻訳)
  • 『哀哭, 痛み, 哀惜, 憂目, 悲哀, 愁傷, 不祝儀, 悲嘆, 憂愁, 哀傷, 憂戚, 哀しみ, 憂事, 嘆息, 傷心, 悲しみ, 憂い事, 憂き目』(google翻訳)

 

あなたの嘆きはなんですか? こんど会ったら教えてください。

 

メモ::言語論的第155番(ぱくりシリーズその6):「~する」ときに言葉は必要か?

(書き継ぎちゅう)

問1::行為=「~する」の事例を十個あげよ。たとえば「約束(する)」のように。

①結婚する②告白する③死ぬ④考える⑤従う⑥(劇を)演じる⑦夢見る⑧眠る⑨感謝する⑩祈る

問2::その十個を、それをするのに言葉が必要な「~する」と、必要としない「~する」に分別せよ。たとえば「約束(する)」ときに言葉は必要か。必要である。泳ぐときは? 必要でない。というように分別せよ。

必要:②告白する④考える⑥(劇を)演じる(ただし「無言劇」でない場合)⑦告白する⑨感謝する(手を合わせて感謝を表す場合などは言葉を必要としないが・・・)⑩祈る

不要:③死ぬ⑤従う⑦夢見る(夢の中で言葉を使うことはあるが)⑧眠る。

問3::そのように分別できたのはなぜだと思うか。

言葉があらかじめあって、それを分別に利用することができたから。

問4::その分別に言葉はどのように働いたと思うか。

自然言語使用の歴史的で社会的な経験として、その経験が言葉の中に蓄積され、それがそれでいいと社会的に承認されており、そのように言葉を使えば他者からの信認をえられると言語使用者が踏み、そう使ってみたらそうなった。そのように言葉が働いたということである。言語使用者の賭けが当たった、というだけのことだ。

問5::言葉なしに、その分別を可能にするような方法はなにかあるか。

何もない。そして言葉それ自体など存在しない。言葉はそれが使用されて何事かが引き起こされる何かである。言葉はそれが使用される状況の中でのみなにかの効果を持ち、その効果が言葉の意味である。言葉それじたいに意味などない。たとえ、辞書が意味を示しているようにみえても、辞書で「考える」の意味を調べる人は、それを調べているという状況のなかにあり、調べて「ああ、そうか!!」と何かを分かったとすれば、その調べるという言語使用の状況が意味を発生させていると考えるべきだ。

✋::このことについて面白いエピソードがむかしニュース報道されたことがあった。小学校の女性教諭が国語のテストをして「・・」という言葉の意味として「☆☆」という答えに〇をした生徒に✖をつけたというものだ。先生の言い分は「言葉は状況のなかで意味を発生させもので、初めから意味が「☆☆」のように決まっていない」。だから✖だ。というものだった。

問5-1::この先生の言っていることは確かにそうであるが、決定的に間違ってしまっていることがある。その間違いを指摘せよ。

「・・」という言葉の「いま、ここ」での具体的な使用状況を、その先生が見逃してしまっていること。小学校の先生として国語の授業をし、その結果をテストしている。そのときに自分自身の「いま・ここ」にある「・・」という言葉の使用状況を見落とてしまったこと。それを、一般論にしてしまったことが、その先生の間違いだった。その状況の中では「・・」という言葉の意味は「☆☆」となるのである。辞書などもこれと同じで、辞書を開いて「・・」という言葉の意味を調べたら「☆☆」と定義されているというのは、辞書というのは、それを開いて意味や綴りを調べられる、そういう言語使用の状況の中での、意味や綴りはこれこれだという具体的状況での意味の発生なのだ。引かれない辞書は「・・」の意味をなにも発生させない。先生はいま・ここで「辞書として引かれている」ことを見落とした。辞書としては「☆☆」に〇すべきだった。哲学かぶれの危険さの事例だ。細部にまで徹底すべきだった。自分を欄外に置くべきでなかった。

 

問6::「~する」=行為。とする。言語使用とは一つの行為か。

一つの行為である。ただし、考えてみよ。なにかの行為に焦点を当てているとき、その焦点の行為が他の無数の焦点のあたっていない行為と複合していることを。

問7::言語使用は、話す、書く、聞く、読むなどとして知られているが、これ以外の言語使用は何かあるか・・・。

「考える」がある。しかし、考えるときに、言葉を使わない考えるもある。絵をつくっているとき考えてはいるが言葉を使っていないし、音楽をつくっているときなどもそうである。

 

問7::こうして人は言葉を使ってなにをしているのか。

行為している。

問8::では、行為とはなにか。「~する」とは何か。

生きている、生活する、暮らすということを構成する分子である。生きている、生活する、暮らすとは、この行為の共時的、通時的な連なりのことだ。行為の共時的なつながりとは、たとえば、「息をする」という行為は「走る」ときにも「恋する」ときにも「悩む」ときも、それらの行為と同居しているなどということをさす。「見る」などという行為も多くの場合他の行為と複合されているだろう。そういう意味で、言語使用もそうした行為の一つとして考えることが可能である。『言語行為論』(オースチン)ではここのところがまだ不明のようにみえる。言語行為はそれ自体であるわけではなく、他の行為と複合しているのだ。「考える」とき言葉を使えば、その考えは言語使用を構成要素として行われている行為である。こうして「息をする」や「見る」と同じようなものとしての言語使用の姿がうかびあがる。

 

(書き継ぎちゅう)

メモ::言語論的第154番:‟Tabula rasa (white paper) 白紙”?? だれが白紙だ!(ぱくりシリーズその5)

(書き継ぎちゅうで~す)

ローマの観光ガイドのシンコが家にきたとき、アカリノートという人のJポップのアルバムに気持ちが惹かれたと言って、オレに教えてくれたことがあった。今年の年明けのころだったと思う。シンコが「いいよ」というので、そのアルバムの内容を自分のPCにコピーしておいた。アルバムは二つあって、その一つが ‟tabula rasa”  というものだった。

‟tabula rasa” ってラテン語だよな、とそのとき思ったし、それはWhite paper (白紙)って意味だよな、とも思った。

そのときはそれだけだった。いま、そのアルバムをききながらこの文を書いている。‟tabula rasa” に用事ができたからだ。と言っても、アカリノートの ‟tabula rasa” に用があるわけではない。ことのついでだ。人間の性質を言う際の隠喩としての ‟Tabula rasa (white paper) 白紙” に用ができたからだ。イギリス経験論の芯の部分である。

まず、ラテン語辞典でtabula を引いてみた。ある。ところがrasaの方は見出し語にない。なんだこりゃあ。・・・。google翻訳の方では「スレート」って訳がある。スレートって屋根ふき材料のスレートか?

例のwikiの方では『粘板岩(ねんばんがん、英: slate、スレート)とは、泥岩や頁岩が圧密作用によりスレート劈開を持ったもの。堆積岩がやや変成作用を受けたもの。元々の堆積面ではなく圧密作用に垂直に薄くはがれる。石英・雲母・粘土鉱物・長石・赤鉄鉱・黄鉄鉱などが含まれる』とある。これなら屋根ふき材料に使える。南イタリア、アルベルベッロの民家の屋根なんかこれ(rasa)でふかれている。

どうにも‟Tabula rasa”から ‟(white paper) 白紙”の意味が出てこない。だってtabula; 1板、金属版、石板 2(蝋引きの)書字板 3文書、記録、帳簿、遺言書 4・・・、 などだ。・・・。「粘板岩の書字板」くらいの意味で、どうしてもにならない。

一番の可能性は【2(蝋引きの)書字板】ではないだろうか。これは、きっとまだ何も書かれていない書字板をさしているのだと想像するのだが、どうなのだろう。そこに何か文字が書かれてしまうと、それは【3文書、記録、帳簿、遺言書】になってしまう。でも、それも‟Tabula”なんだから、全体になんだか、よく分からない。

ここではその‟Tabula rasa”を‟White paper(白紙) ”の意味で用いる。

しかし、タブララサ(‟Tabula rasa”)なんてオレは中学くらいの時に教わってて、それは「まだ何も書かれていない白紙の」って意味だと知っていた。その白紙であることが生まれたばかりのまだ何も知らない赤ん坊の隠喩だということも知っていた。そして人間だれしも赤ん坊を通らずに成長することはできないから、今の自分とは、そのタブララサの上に書かれた文字なんだなぁ、なんて思ったものだった。

アメリカの心理学者に『ジョン・ワトソン(John Broadus Watson, 1878年1月9日 – 1958年9月25日)行動主義心理学の創始者』(wki )という人がいて『健康な1ダースの乳児と、育てる事のできる適切な環境さえととのえば、才能、好み、適正、先祖、民族など遺伝的といわれるものとは関係なしに、医者、芸術家から、どろぼう、乞食まで様々な人間に育て上げることができると唱えた』(wiki)そうである。きっとワトソンは人間はみんなタブララサとして生まれてくると信じたのだろう。そうでなければそんなことは言えない。

これには前段があり、それは例の『条件反射の発見である。『動物において、訓練や経験によって後天的に獲得される反射行動のこと。ソビエト連邦の生理学者イワン・パブロフによって発見され、パブロフの犬の実験で有名になった』(wiki)。犬に肉を与えればよだれを垂らす。その肉を与える時にジリジリっていうベルも一緒に鳴らすと、そのうち犬はベルの音だけでよだれを出すようになるという結論を得た実験だ。ワトソンが『健康な一ダースの乳児と育てる環境をくれれば・・・』などと言ったのはこの条件反射づけへの信憑が土台だ。

(蛇足:W・ヨーコによると、このパブロフの犬は、最終的に食肉にされて食われたとのことである。実験もパブロフがドイツでやったんだそうである。犬の運命が悲しい? か。実験をやって犬からデータをとり、そののちその犬を食ってしまうんだから、何だか人間てすげえ。)

反射行動。ねえ・・・。それも無条件反射(生得的な反射)ではなく、条件反射ですよ。そこにある「反射行動」って条件反射のことだ。かくして、人間とは「条件反射の束」としての理解が一世を風靡した。いまもそれなりに信憑されている。氏より育ちとも言う。

問1::そういうものだとして、あなたは誰に条件付けをされましたか。あなたを条件づけたのは誰ですか。

問2::あなたを条件づけして、そのようにすることによって、その人はどんな利得がえられますか。たとえば学校の先生なら給料がもらえるとか・・・。

問3::あなたは、自分で自分を条件づけできますか。なんのためにそんなことをしますか。その利得を教えてください。

問4::パブロフの犬のもとの反射は、食肉があたえられたときによだれを出すという(生得的=無条件)反射だった。が、それが食肉ではないベルの音でよだれが出るように条件づけられた。これとおなじように、あなたが人間行動をとるように条件づけられる前の、もともとの生得的な=無条件的な反射行動が何だったのかを言え。

誰に?って言われてもねえ・・・。カラダの内部でおこる生理反応などは全部生得的であるだろう。

犬の行動が条件付けで変えられることはよく知られており、だから犬のしつけができるわけだが・・・。

 

(書き継ぎちゅうで~す)

 

メモ::言語論的第153番:「わたし」とは誰だったのか?(ぱくりシリーズその3)

デカルトという17世紀のフランス人は「Cogitō ergō sum(Je pense, donc je suis)わたしは考える それゆえに わたしは在る」と言ったし、バークリーという18世紀のイギリス人は「Esse est percipiTo be is to be perceived )在るということは 感覚されるということ である」と言った、という。

「言った」ということは、彼らがそのように言葉を使ったということだ。社会的な立場としてデカルトがどういう人であり、バークリーがどういう人であったか。そのことは問題にされなければならないだろう。が、しかし・・・。

それはそれで一応おいておき、日本の落語「粗忽長屋」のあらすじを思いだしていただきた。筋は以下である。

浅草観音詣でに来た八五郎は、道端に人だかりができているのを見つける。昨晩ここで身元不明の行き倒れが出たので、役人たちが通行人に行き倒れの死体を見せて知り合いを探しているのだ。

八五郎は死人の顔を見るなり、「こいつは同じ長屋の熊五郎だ。そういえば今朝こいつは体の具合が悪いと言っていた」と言い出す。役人たちは「この行き倒れが死んだのは昨晩だから、今朝会ったというお前の友達とは別人だ」と言うが、八五郎は聞く耳を持たず、「これから熊五郎本人を呼んでくる」と言い残してその場を立ち去る。

急いで長屋に戻った八五郎は、熊五郎をつかまえて「浅草寺の近くでお前が死んでいたよ」と告げる。熊五郎は、「人違いだ。俺は生きている」と反論するが、八五郎に「お前は粗忽者だから自分が死んだことにも気が付かないんだ」などと言われているうちに、自分が本当に死んだのだと納得してしまう。熊五郎は自分の死体を引き取るために八五郎に付き添われて浅草観音へ向かう。

浅草観音に着いた熊五郎は、死体の顔を改めて「これは間違いなく俺だ」と言う。周囲の者は呆れて「この死体がお前のわけがない」と言うが、熊五郎八五郎も納得しない。二人が「熊五郎の死体」を抱き起こして運び去ろうとするので、役人たちが止めに入り、押し問答になる。

すると熊五郎が「どうもわからなくなった」とつぶやく。「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?』(wiki)。

登場人物は粗忽な八五郎と粗忽な熊五郎である。八と熊の違いはあるが、ともに名前に五郎が入っている。そして一体、この熊五郎とは誰なのだろうか。それをデカルトとバークリーに絡めて解明しておきたいというのが、この文の狙いである。むろんフロイトもそこに潜んでいる。

死んでしまった(と信じられる)自分を抱いて、熊五郎は困惑している。死人としての自分と、生きてそれを抱いている自分である。そこでの熊五郎の問は、目の前にいる死人としての自分が誰か、なのかではなく、生きてその死人の自分を抱いているこの自分が誰か、という問だ。

みなさんならなんと答えるだろうか?

オレなら、死んだ熊五郎を抱いている生きた熊五郎は、熊五郎の無意識だと答える。そして、この無意識こそが「わたし」なのだと付け加える。無意識だから、「わたし」などというものは本来意識されえないのである。これが「わたし」の正体である。( これ、世界初です)。

バークリの言う ‟Esse est percipi”(存在するとは 知覚されること である)に従えば、わたしたちは意識のあるかぎり何かしらいつでも自分というものを知覚している。それは自意識、自我、主体、わたし、などと呼ばれているものである。

そうすると問は即座に、誰が「わたし」を知覚しているのか、となるではないか!わたしを知覚しているいるのはわたしの無意識である。いや! 無意識のわたしだ。こうしてわたしたちは熊五郎とまったく同じ立場にたたされる。このことに驚く。

わたしとは確かに、なにかしら知覚されたものである。目のまえにリンゴがあればそれを視覚は知覚して、そこにリンゴがあるとするのと同じく、そこに何かあるので、それをわたしたちの内部感覚が知覚して、「わたし」と言っている。知覚という視点からは、わたしもリンゴも同じである。そしてリンゴには(たぶん)自意識がないのと同様にわたしを知覚している「わたし」にも意識はない。

知覚されている「わたし」。知覚している「わたし」。

この二つを区別しよう。

この二つは別物なのであった。そこのところがみんな分かっていなかったのだ。

知覚しているわたしは無意識なので、これ自体は(絶対に)意識にのぼらない。無意識は知覚されない。それが無意識という語の語意だ。しかし ‟Esse est percipi” なのである。バークリーに従えば、知覚している「わたし」は意識に上らないので、そういうものは無いのである。だって、知覚されないから・・・。 ‟Esse est percipi”。

こうして自分自身を知覚する能力のない無意識の「わたし」が知覚したものが意識された「わたし」だった。ここで知覚する能力がないとは、それを知覚している自分自身を知覚する能力がないというほどの意味である。「わたし」という知覚は、その無意識の「わたし」の上に現れるというわけだ。「わたし」というものの不思議さはここにあった。

「Cogitō ergō sum  (Je pense, donc je suis) わたしは考える それゆえに わたしは在る」と言うデカルトだが、この文全体がデカルトの意識、つまりデカルトの知覚であるということに彼は気づいていない。そういう知覚を持っているのは誰なのだろうかという問がデカルトにはない。熊五郎にはそれがある。

粗忽長屋に住む熊五郎のかちだ。こんな住人が何気なくその辺にいる日本ってすごいかも・・・。

言語論的第152番::何かを信じるとき何が生じているのか?

  • きのうはF高原病院のハラダ医師の定期検診を受けに出かけた。
  • 予定では、二年ぶりに排尿量、排尿速度、残尿量の計測をすることが告げられていた。そして注意書きには「十分に水分をとり、尿意をすぐに感じるように体をして受診しよう」って意味のことが書かれている。
  • さて。そこに書かれている言葉に従って、出かけに茶を一杯200㏄ほど飲み、ペットPに500㏄ほどのルイボス茶を入れてもらって出かけた。
  • 駐車場に軽トラをとめて、まずペットの茶を一口。受付に歩きながら二口三口と飲む。受付を済ませてまた一口。
  • 「出たくなったら教えてください」と泌尿器科の窓口の女子が言う。
  • まだペットには400くらい残っている。それをチビチビやりながら小便がしたくなるのを待つ。
  • それとは別に耳にはイヤホンがつっこんであって、そこでは『何かを信じるとき何が生じているのか(放大哲学授業「経験論から言語哲学へ」)』が鳴っている。でも教授が何を言っているのかオレにはサッパリ分からない。
  • 少なくともオレは「十分に水分をとり、尿意をすぐに感じるように体をして受診しよう」の言葉を信じて、水を飲み続けているわけだから、なにが生じているかはそのうち判明するのではないだろうか、などと内心、オレの耳に分からないことを言う教授に反論している。
  • 約40分。来た!でたい!それを告げると看護師が検査室から出てきて、中に招き入れ、それなりの計測器に座らせてカーテンを閉め、オレに小便をさせる。
  • あ、あれ~!なんかおかしいぞ??出ない。したいのに出ない。あ、でた・・・。ちょろちょろ。終わった・・・。
  • でも、何か変・・・。
  • 残尿検査は超音波検査機でやるが、それを押っ付けた看護師の顔が曇る。「残尿が・・・。導尿になるかも・・・。しれません・・・」などと呟く。
  • 導尿って、ちんこからカテーテル突っ込んで無理に小便させるやつだぜ。
  • 「やめてください!」とオレは叫んだ。そして、この一時間以内に700㏄ほどの水を飲んでいることを正直に言った。「自分でトイレに行きます!」と懇願して、それから三度トイレに行ったが、よく出ないのさ。
  • 「だめですよ!無理しちゃあ!」それがハラダ医師の第一声だった。
  • こうして『何かを信じるとき何が生じているのか』へのオレの答えは「何かを信じると、その信に従った行動をすることになり、結果自分を苦しめ世間を騒がせるという困難な未来を懐胎するということが生じている」となるのである。
  • 試験でこの問題があったら、ぜったいそう書くぞ。
  • それに、「十分に水分をとり、尿意をすぐに感じるように体をして受診しよう」という言葉を信じたのは、その発話がF高原病院が渡す紙にかかれているという発話の身体性によっている。この事情もオレはよく説明できる。おなじことをあなたが言ってもオレは信じない。これは「発話の身体性問題」だ。誰が何を言うかで信じる信じないは起こる。言葉は言葉だけで独立していない。その発話主体と不可分である。
  • つまり「計算」がオレの中で生じているということだ。この計算は意識的だったり無意識だったりする。何を計算しているかというと損得であるだろう。
  • 計算間違いはよくあることであるから、なにか変なことを信じている人がいてびっくりしたりする。オレなんか神(と悪魔も)を信じています。びっくりしますでしょう。そう信じるのは、信じたほうが利得が多いという計算がかつてあったからです。
  • でも、計算とは何なのかはよくわかってはいないです。算数の計算とはだぶちがうもののように思われます。
  • オレが何を言っているか、教授に『分るかな~』。
  • 『分かんねえだろな~』。
  • それで零点だったりして・・・。
  • ひっひっひ。
  • 教授の言い訳は見当がつきます。「オマエの答えではなくヒユームの答えは何だったかを訊いていまっす!」だろう。
  • いい気なもんだぜ。哲学しない哲学教授。それで給料もらってろ!
  • ばか!
  • こっちは病院のその言葉を信じたおかげて導尿寸前だ!

 

メモ1::言語論的第151番:言葉と経験について(河原の小石は何を経験しているのか?)

先走ってしまった感がある。まずは辞書的な定義を踏まえたい。

『経験( experience)とは、実際に見たり、聞いたり、行ったりすること。外的現実や内的現実との直接的な接触。「認識」としてはまだ組織化されていない、事実の直接的な把握。何事かに直接触れたりぶつかることで、何らかの意味でその人の「自己」(人間性)を豊かにすること。何事かに直接触れたりぶつかることで、そこから技能や知識を得ること。(哲学用語)感覚や知覚によって直接的に与えられるもの。感覚・知覚から始まって、道徳的行為や知的活動までを含む体験のうち、自覚されたもの。』(Wiki)。

以下についてコメント。

::綱渡りをしている人は、綱渡りを実際に行っているので、綱渡りを「経験」している。ほんとか?

::接触していることに気づかないばあいも経験なのか。わたしたちが眠っているとき、体は何かに直接的に触れているだろう(ふとん・まくら・しーつ、空気、・・・など)が、それも経験なのか。誰が触れるのかは問題にしなくていいのか。河原の石は何かに接触しているがろうが、石は何を経験しているのか。カメラは何を経験しているのか。自我不在の「経験」なんてありうるのか。

::まだそういうことを何も知らない少女がレイプされているばあい、少女はそれがなんなのか認識できずに、しかし、そのことを「経験」しているのか。

::『自己が豊にされる』というが、豊かにされたのか貧しくされたのかが分からないような接触は何になるのか。貧しくされた場合は「経験」ではないのか。

::逆上がりができるようになるためには、鉄棒にぶら下がり、逆上がりをしようと試み、何度かの失敗の後にできるようになる。その過程は「経験」なのか。

::自覚するとは「言語表現をする」ということにかぎられるのか。サティがジムノペテーを作曲したときサティは何かを「自覚」したか。ゴッホが夜のカフェテラスを描いたときゴッホはなにかを「自覚」したか。

見る、聞く、味わう、触る、嗅ぐ(=感覚する)/ する / できる / 自覚する の用語で経験が定義されているのが分かる。それ以外の内容はなにもない。これでは経験の正体など何もわからない。まあ、それが辞書的定義だが・・・。

辞書的定義とは、その言葉を「お題目」として唱える唱え方を教えるだけなのである(だろう?)。むろん、現実の社会のなかではお題目を唱えることは大事なことだとは認めつつ、そう心得ておきたい。

オレが問題だと思うのは、この定義のような(言語)表現があると、経験をその定義のようなものとして経験してしまうのではないですかということである。

上記のような経験の定義を「紋切型」「お題目型」というだろう。世界はいつもあらかじめ紋切型・お題目型に定義されており(=言語表現されており)それに従ってわたしたちは世界をそのように経験してしまうのではないかという疑問である。

紋切型やお題目型の経験を抜け出し、生活を新しく経験するための方策が欲しいのだ。

辞書的定義はこの疑問になにも応えていない。参照するにしてもWikiをあまり真に受けてはいけない。あくまでも参照までに。

 

メモ1::言語論的第150番:言葉と経験の関係

言葉で語りえないことを経験と呼べるだろうか?

問1::「あんな経験、どうにもこうにも言葉になんかできゃあしません!」と、その経験の稀さを言葉でそのように表現したとき、その「あんな経験」はその人に経験されたのか。

問2::綱渡りができる人がいて、綱渡りをしているとき、その人は綱渡りを経験していると言えるだろうか。もし仮にその人が「おれはいま綱渡りをしている」と思った場合はどうか。思ったばあいと、思わなかった場合とに分けて経験とは何かを答えよ。

問3::客観的世界(=ものそのもの)は、それが持つ情報を通してしか触れ得ないという結論を暫定的に得ている。だとすると、形にしろ、色にしろ、目方にしろ、温度にしろ、それが発する音にしろ、経験とはそれを「三角」だとか「黄色」だとか「1.5キロ」で「六十五度」で「う~う~唸っている」とか、それをそのように言語表現したことをもって、経験したというのではないか。その外の経験のしようはあるのか。

問4::世界はいつもなにがしか言語表現されている。たとえば「太陽が東から出て西に沈む(天道説)」とかつて表現されていた。いまは同じことが地動説で表現されている。そこでの問題は、わたしたちの経験とはこの言語表現に規定されてしまうのではないかということだ。つまり天動説で表現されている太陽の運行は、その言語表現のように経験されてしまうのでないかということだ。経験とはそのように言語表現に依存しているのではないか。

問5::ナチスドイツのヒットラーはユダヤ人をどう表現したのか。そのように表現されたユダヤ人を同時代のドイツ人はそにょうに経験してしまったのではないか。その経験の結果がホロコーストではなかったか。

問6::内閣総理大臣アベ君は世界をどう表現するか。わたしたちはアベ君の表現するように世界を経験してしまうおそれはないだろうか。

問7::中国や韓国やロシアや北朝鮮が、多くのあれこれの評論家や経済学者や政治家やジャーナリストによって表現されている。そして、わたしたちのするそれらの国の経験は、そのように表現されているものとして経験してしまいはしないか。

問8::経験を導くものこそ言語表現なのではないか。絵画によっても音楽によっても、このように経験を導くことはできないのではないか。この特徴をもって言葉の本質としてはどうだろうか。

問9::サティの「ジムノペティ」は経験を導くか。ゴッホの「夜のカフェテリァ」でどうか。

問10::客観的世界(=ものそのもの)を、いまあるようにではなく、別様に言語表現する仕方の、数々のやり方を数えあげよ。

問11::別様に表現することで、誰にどんな利得があるか。

問12::歴史とは、客観的世界の記述の仕方の変遷のことではなかったか。

問13::なぜ客観的世界の記述の仕方は変遷するのか。

問14::以上の観点をふまえて、歴史とは何かについて言え。

以上「言葉が経験を導く」という提題のご検討をおねがいしま~す!

メモ1::言語論的第152番:『ざらざらした大地』(ぱくりシリーズその1)

このところ言語哲学を教わっている(放大授業「経験論から言語哲学へ」)。これをそのまま紹介すると、完全に受け売りになってしまい、誰が何を言ったかの話ばかりになる。それでは「オレの哲学」=「オレの言葉」=「オレの経験の枠組み」にはならない。それは「哲学のお勉強」でしかない。

そんなものをここに書いてもオレに何の利得もない。そういうことは、それをそうすることで利得できる職業人にまかせておけばよい。それを教えて給料がもらえる教師とか、原稿料が入る評論家とか・・・。に。

そうかと言って「哲学のお勉強」なしに「オレの哲学」=「オレの言葉」=「オレの経験の枠組み」を話すのでは、なにかの妄想でしかないことも、それはそうだろうと思う。

妄想は楽しいし好きだが、妄想とは別に、ちゃんとした学も少しは持ちたいとも思うのだ。そういうわけだから、「オレのものとして受け入れた考え」をオレのものとしてご紹介してゆきたい。そういうわけで人名はほとんど出さない。オレの責任に帰せられる「ものの見方」なのである。受け入れて、オレのものとして書くわけだから、それはもうオレの言葉である。オレはオレの話す言葉のように世界を経験する(だろう)。とは言っても、筋目がそうなのだから、内容は「パクリ」であることはあらかじめ白状しておく。そしてこの手のことを(ぱくりシリーズそのn)としていきたい。

という前置きをして、今回は、『ざらざらした大地』について。

ざらざらした大地の対語は『つるつるした氷上』です。

つるつるした氷上には、その上に立つ人にとって、世界と関わるための「抵抗」がありません。そのうえで速く滑ったり、いい演技をすることはできても、歩いてどこかに行き、誰かに会って、何かをするための、生身をささえるための抵抗がないのです。そうするためにはスケート靴を脱いで、ざらざらした大地へ踏み出すよりありません。そのざらざらした大地には人が世界とかかわるための、生身を支える抵抗があります。ざらざらとはその抵抗のことだ・・・。

ここでの問題は、言葉はつるつるした氷上に在るのか、ざらざらした大地の上に在るのかということです。

::みなさん。ピタゴラスの定理ってごぞんじですよね? 『直角三角形の、直角を挟むそれぞれの辺の平方の和は、斜辺の平方に等しい』ってやつです。これ、すべて言葉で書かれています。その言葉の横に何らかの直角三角形の絵がそえられるはずです。その絵も一種の言葉としておきます。なぜその絵さえも言葉とするかというと、絵文字や漢字やヒエログリグが言葉であることにならっています。その絵も言葉なのです。直角三角形という言葉とは別な直角三角形という言葉です。

すると、ピタゴラスの定理は(先ずは)言葉の世界の中で(のみ)成り立っている。そう言ってよい。この定理は証明されており、証明のしかたは現在知られているかぎりで百通り以上ある(そうです)。そして、どの証明もすべて言葉で書かれている(はずです)。

::電話がかかってくる。「あ、ぼくです!」と、その電話はあなたに言う。あなたには息子がいて、その僕はあなたの息子なのだと電話は告げる。僕には彼女がおり、僕は彼女を妊娠させてしまった。育てるにはどうにも力不足なので彼女に堕胎してもらうようにしたいのだが、その金がない。「ねえ、母さん、80万円都合してください!」と悲痛な声で息子はあなたに頼む。あなたは離れて住む息子の口座に切りよく100万円を振り込んでやった。電話の切り際に「おまえもバカねえ。女には気をつけるのよ! 特に妊娠はね」と諭しておいた。

上記の過程もすべて言葉によって起こったことである。お気づきのようにこれはオレオレ詐欺だ。ここでの言語使用は、あなたに向かってなされている。その結果としてあなたは100万円を詐欺師に進呈した。こうして、この言語使用も成り立っている。

問1::のどちらが『ざらざらした大地』、または『つるつるした氷上』でなされた言語使用と言えるか。なぜそういえるのか。

 

メモ1::言語論的第149番:身体は言葉か?

言葉ではありません。

「それ」とか「これ」とか。としか言いようのないものです。身体が在るらしいことは確かなのですが、それを「わたし」といったら違っています。・・・きっと。

柔軟性がないことを「あたしのカラダって、硬いのよね!」と嘆いていう嘆きは、そのカラダはあなたのものだという表現になっています。が、事は表現どおりではありません。逆です。

カラダがあなたを通してそう言わせているのです。言うからには言語使用ですから、硬いカラダがあなたを使って、それを社会的な問題にして、社会的になんとかしろと言っているのです。

身体は命の別名ですから、あなたをつかってそういう言葉づかいをさせるのは命の生きる戦略でしょう。・・・きっと。

そういうことをふまえて、身体は誰かによって語られた、言葉のようなものかと訊かれれば、それはそうなのかも知れないとこたえるのがいいようにおもえます。

では・・・。

問1::あなたのカラダはどうしてこの世にあるようになったのですか。両親が結婚したからでしょうか。

問2::あなたのカラダがかつて赤ん坊として生まれたということでは、それは両親の結婚の結果としていいとおもうのですが、そこであなたが男とか女というような性を持つことになるのは両親の結婚にその起源をもとめられますか。

問3::その両親の経済状態がよいとかわるいとか、彼らに教養があるとかないとかによって、あなたの人生の出発はかなりちがった出発になります。彼らの経済や教養はあなたに対して何なのでしょうか。条理か不条理か、幸運か不運かでこたえなさい。

問4::その条理、不条理、幸運、不運の起源はあなたのご両親に責任がありますか。誰にかづけるのがいいでしょうか。

問5::その両親が日本人であったということではいかがでしょうか。北朝鮮のキム一族だったばあい、アフリカのピグミー族だったばあいはどうですか。

問6::・・・。身体をむりやり言葉だと強弁したばあい、それは誰によって語られた言葉だとお考えになりますか。

ご両親?

それで納得できます?

あなたのカラダがこの世にあり、そこにあなたの自我(=わたし)がやどり、そこにさまざまな社会的責任がかずけられている現実をどのように納得なさっているのでしょうか。納得できなかったら、どうしますか。

問7::再度。あなたの身体の起源はあなたのご両親としてよいのでしょうか。見落としはありませんか。

自明なこととは、しばしば不明とおなじと言います。いかがでしょうか。

自我(=わたし)というものを世界の中心におかないものの見方、考え方、を模索中です。

メモ::言語論的第148番::言葉がうみだすもの【条理・不条理・妄想】

  • きのうはシンコを送りついでに、甲府で旅行用のジャケツとコートを買った。(肌着も買ったけど・・・。モモヒ、な。)
  • そうは言っても、生地がアクリルなもんだから、ひどく静電気がおきる代物である。それは電気火花が散る「電気服」と言っていい。
  • オルウル(純毛)だったりすれば、静電気度はかなり軽減されると紳士服アオヤマのお兄さんは言っていた。
  • 電気服はそうとう叶わない。
  • が、諦めるしかあるまい。
  • 貧乏人なのだから・・・。
  • こうして、貧乏人は多くの欲望から疎外される。オルウルからオレは疎外されている。なぜなら、貧乏人だからである。
  • なぜ世の中には金持ちと貧乏人がいるのだろうか。
  • 金持ちになりたい。
  • でも、金持ちになるためにする苦労ってのがあるとすれば、そんな苦労はしたくない。
  • 「労せずして」というのが最もよろしい。
  • そうして訪れる幸運には名前がついていない。
  • 日本に、日本人として、それも男などという性をもち、1949年に生まれたことによる「労せず」して手に入れられている幸運の数々と、シリアに生まれて、シリア人となり、難民としてアメリカへ向かう男の不運をくらべてみよ。
  • それが不運の場合は「不条理」という名があるのだか・・・
  • そうか!「不条理」の不をとって「条理」とすればいいだけのことか。
  • 金持ちのうちの子に産まれたから、労せずして遺産を引き継ぎ、金持ちになれたという「条理」がそこにはあるのか。
  • 克苦奮励の努力が報われた結果であるという「条理」をたてたっていいのか。
  • 神がわたしをそのように選んだという「条理」は、かつて王権神授説として、封建領主によって唱えられたジョウリだったし。
  • 日本人に生まれたのだから、これこれしかじかであってしかるべきだという「条理」。シリア人うまれたからそうあるのはそうなのだという「条理」。
  • 条理なんて、言葉で唱えるご都合にしかすぎない。
  • 条理=物事の筋目。
  • その筋目が、ウソをつくことをその本質としている言葉によって語られるのである。
  • そんな条理で貧乏人の気が落ち着くのなら、歴史に「革命」などという言葉はなかったはずなんだけどなあ・・・。
  • 羊は革命しない。
  • なぜ羊が革命しないかと言えば、羊は人のような言葉を持たないからだろう。
  • 言葉を持たないとなぜ革命しないかといえば、言葉をもたないものには妄想が不可能だからである。
  • 人間は言葉をつかって妄想するから、妄想がこうじて、ときどき革命がおこる。
  • フランス革命だったり、産業革命だったり、宗教革命だったり、IT革命だったり。
  • そうしてみると、条理も不条理も、なんだかご都合主義者のお決まりの専門用語なのではありませんか。
  • 反省してみれば、生まれたときからきょうまで、苦労が多かった。
  • 数えきれないイジメにもあった。
  • それは不条理とも言えるし、条理であるとも言える。
  • では、オレは、それを、不条理というべきなのか、条理というべきなのか。
  • 苦労とイジメと貧困の中で、よろこびのないオレの人生にどういう意味を探せばいいのだろうか。
  • と、嘆いているのは、言葉によってなのです。
  • これを妄想といいます。
  • 人はこの妄想に従って行為することがあります。
  • 言葉を、そう使うことで、オレにどんな利得があるのか。
  • それが、オレがここ数年抱えている問題です。

どなたか、それについて何かご存知でしたら教えてください。その問いをかかえていること自体が苦しいのです。助けてください。

・・・だれも・・・たすけてくれないのですね・・・。

メモ1::言語論的第147番::音について

なにか音がしていたら、それをボイスレコーダ(VR)でとることは可能だし、実際オレもそういうことはやっている。人になにか訊きたいときはマイクを向けるなどがそういうことである。

言葉などでは、文字があれば、言葉を文字で書くことができる。実際オレは今、ここで、こうしてキーボードを打って文字を書いている。が、その文字を書くために音声的な発話を黙って頭の中でしながら(内言)、それを書いている。黙ってするこの発話なしに、この文は書けない。

VRで音を録音することと、言葉の音声を文字に書くことの決定的違いは、なんだろう。音ふくむ音声ということなのだろうか。

①::北風が吹いている。それが木の枝をこするから、悲鳴のような音がする。それはリアルである。②::その音をVRにとったら、同じ(ような)音がVRから再生される。音ということでいうと、①と②はそう大きな違いはない。が、①の方の音は、木の枝や、吹き抜ける北風という、物そのものが持っている情報としての音だった。VRの方の音は、そうした物そのものの情報ではなくなっている。そこでの物としては、その音を再生させている、そのVRになってしまっている。

内言の記録としての書かれた文はどうだろうか。(いえ。別に黙ってする必要はありません。声に出して発話しながらだってかまいませんけど・・・。)それは、どう再生されるだろうか。これを書いているオレ自身は、黙って発話しながら(内言)それを書き、書いた瞬間に再生させて、内言と書かれた文の間を行きつ戻りつして、この文をつくっている。

お読みになるあなたには、この文はどう再生されるのだろうか?

オレの声質は伝わっていますか?あなたがこの文を再生している声は、もしかしたら、あなた自身の声ではないですか?そう言いますけど、オレ自身の内言の声質なんて、VRでとったオレの声とはまったく違うものです。VRでとったオレの声を、自分のものとして受け入れるのに相当の困難を感じつつ、それでも仕方なく「これがオレなんだ・・・」とあきらめて受け入れているような状態です。要は、内言の声質とVRで再生するオレの声質は同じではないことです。鏡に映る自分の姿を、自分だとして受け入れることに困難をかんじたことはありませんか?そういうのと同じ部類の問題なんでしょう・・・。か?。

さて。ここまでが前置き・・・。ど~も、長々とスミマセン!

本題に入ります。さっき「北風が木の枝を吹き抜ける悲鳴のような音」と言いました。「オレの内言の声」とも「VRでとったオレの声」とも言いました。付け加えれば「生身のオレが発する」声を加えたいです。みんな、どれも音です。その音を、楽譜に書けるのか、というのが、ここでの問題です。

これが本題です。結論としては、楽譜にはそれを書けない、ということです。が、そうすると、そこに即座に、

::楽譜とは何なのか。そこには何が書けるのか。楽譜に可能なことは何で、何が不可能なのか。

という問題が出てきます。

たとえば、ベートーベンが『運命』を楽譜に書いたという、その書いたものは何なのだったのでしょうか。実際、楽団は、その譜面に従って『運命』を演奏するんですよね。しかし、その楽譜は、楽団を指揮する指揮者によって一旦解釈されて、のちその解釈に従って楽団によって演奏されるんですよね。そうすると楽譜に書かれているものって何なのですか。そこには、ベートーベンがかつて頭の中で思った何が書きつけられたのでしょうか。ベートーベンの肉声なんかその譜面から再生されないでしょう。なにが再生されるんでしょうか。ベートーベンの、あの、『じゃ、じゃ、じゃ、じゃ~ん!』 って、何なんですか。そして、オレがいま、そこに書いた『じゃ、じゃ、じゃ、じゃ~ん!』とは何なんですか。

という問です。

実をいうと、おれ、いま、『はままつや』を楽譜に書こうとしているのね。『はままつや』のメロデーは知っています。歌えます。でも、楽譜に書こうとすると、頭の中で鳴っているメロデーが譜面に書けない。書いてはみるが、再生させると、頭の中で鳴っているメロデーとはなにか違うものになってしまっている。

これで苦しんでいます。単に、オレの楽譜を書く技能が低いだけの事なのでしょうか。そんなことを思って、ここにこうして悩みを打ち明けています。

どなたか、この間の、つまり、音、音声、言葉、音楽、における、音の事情をご存知でしたら、お教えください。

メモ1::言語論的第146番::「食えない」「着られない」「住めない」/「乗れない」。そういうものが持っているもの=それが情報だ!言葉はそうした情報の一種だ。

表題の否定をひっくりかえして肯定にしてみてください。「食えて」「着られて」「住めて」/「乗れる」ものを考えてみてください。

なにか食えるもの、たとえばリンゴ。何か着られるもの、たとえばジーンズ。なにか住めるもの、たとえばキャンプのテント。なにか乗れるもの、有人人工衛星。そういう具体的なものを思ってみてもらえばいいのです。

それって色があり、形があり目方がありますよね・・・。色とか形とか目方って、情報なんですよ。形ってもの、色ってもの、目方ってものは、「物としてのそれ」はありません。が、逆に、物があると、それは色や形や目方をもってしまう。物に不可避的にまとわりついているものが情報である。しかし、その不可避性は、その物にかかわる生き物の特性によっている。

「持ってしまう」というのは正しくない。そういう情報を通して「しか」わたしたちは物へかかわれない。その「しか」は、わたしたちが人という生き物だということに起因している。🐝(みつばち)だったら、物から取る情報はひとと同じではない。🐒(サル)なんて青いカキの実に何の興味も示しません。カキ渋をとりたい👬(人)にとってアオ柿は魅力でしょうに。そうした生き物としての特性をもって、物から情報をとる。その情報を通してしか人は物と関われない。いや、全ての生き物がそう。いや、いや。物理化学的な世界もそうなっていると予想しておいた方が、フルーツフルだと思う。その最も人間(じんかん)的なやりかたが、言葉という社会的資源をつかって物から情報をとる人のやり方なのである。

ということで、どうでしょうか?

「あのリンゴ、美味しそうね!」「わ~、あなたのジーンズ、かっこいい!」「テント、ボロボロねえ。雨漏りするわよ・・・」「人工衛星には宇宙飛行士が乗っているにちがいない!」。などは、それらが持つ、色や形や目方や温度や値段や・・・と同じものなのだ、という仮説なのです。

ごらんのとおり、すれらはすべて上記のように言葉でとりだした、物についての情報でした。わたしたちが物とかかわる仕方は、物の持つ情報を通して以外の方法がありません。(眠っているとか、目隠ししているとか、不意打ちをくらうとかの無意識のときはちょっと違いますが。)そういう物からの情報の取り出し方の、「人間(じんかん)的な資源」が言葉なのだ、という仮説です。

ミツバチやサルにとって、物と情報は切り離しえませんが、人は情報をものから切り離して保存します。それが言葉です。ですから、言葉はウソがつけるのです。物と情報が一体化していたら、その情報はウソではありません。物から切り離された情報だけがウソをつけます。映画とかCDとか絵画彫刻写真なども、物そのものから切り離されて、情報だけにされて利用されている、言葉と同じグループに入れられるべきなにかなのだと思います。

以上のご検討おねがいします。

メモ1::言語論的第145番::「食えない」「着られない」「住めない」・「乗れない」。そういうものの一つとしての言葉について。

このところ、ものを考える基準として、それは「食えるのか?」「着られるのか?」「住めるのか?」という前置きを置いてから考え始めるような習慣がついてきた。これは、むろん、食・衣・住の、生活を成立させるための「物」との対比を使って、それの価値をあらかじめ値踏みしておきたいということからである。

「乗れるのか?」は、物としての自動車とか、自転車とか、電車・バス・飛行機などが毎日の生活に浸透しているので、それも物だし、ということで付け加えた。いま、オレが使っているPCなども物で、それは何か、乗り物なのかもしれないという思いもある。

新聞、テレビ、ラジヲと言えば、それはマスコミと言われた。それに本や雑誌が加わる。その全体がマスメディアという範疇をつくっている。

そこに最近オレみたいなソロメディアも加わって、なにか言う。

マスとソロの間に、いろいろな傾向をもったメディアが登場して騒乱状態である。

デジタルメディア時代なのだ。

しかし、そこから出されるものは、一切、「食えない」し「着られない」し「住めない」・「乗れない」ものなのである。そして、マス~ミディ~ソロまでのメディアが何かを言ったところで、何かがどうなるということでもなさそうなのだ。

それは、情報と言われる。

(これは情報科学で言われている「情報」とは別物であることに注意してください)。

しかし、もし、「食えて」「着られて」「住めて」・「乗れる」もの(のみ)が、生存にとっての第一義的価値なのだとすれば、なぜ、マス・メディアのする「お喋り」が、これほどわたしたちの関心をひくのかという問題をかたづけなければならないだろう。

問1::マスメディアのする「お喋り」がわたしたちをひきつけるのはなぜか。手短に答えよ。

グローバル化した現代である。世界中に、いったい、いくつのマスメディアがあるだろうか?その数はわからないが、わたしたちは多く、日本語を母語としている。そこで、世界中の、どれだけ多くのメディアがなにか「お喋り」をしたとしても、日本語でされないお喋りからは、わたしたちは疎外(仲間はずれ)されるだろう。

逆に、日本語の理解できない人たちを、わたしたち日本語母語話者は意図せずに疎外している。母語を持つということは、このように運命的に、ある母語言語集団を形成してしまう。それは容易に利益集団になりうる。それを最大限大きく取ろうとして、共通語としての日本語教育が北海道から沖縄まで施される。かつて韓国や中国にも施された経緯もある。(?)。

「アルジャジーラ」を聞いて、そのお喋りに加われる日本人の数は数百人に満たないのではないか。一方、NHKの放送なら、九十五パーセント以上の日本人は、なにか反応できるのではないか。そのような意味から、わたしたちは極めて偏頗な情報にしか触れられないという自覚はぜひともひつようである。

そして、その情報は、「食えない」「着られない」「住めない」・「乗れない」。それは生活を支える「物」ではない。わたしたちの身体は情報ではなく、物であり、物は物としか交換しない。物どうしが、そこに代謝を生み出し、交換しているのが命である。命はそのような在り方をしている。

トランプ君がアメリカ大統領になった、などということは、マスメディアのする「お喋り」としてわたしたちに伝えられてくる。お喋りとは、とりもなおさず、言語使用である。わたしたちは、なぜ、そのような言語使用に強く反応してしまうのか?

反応せずにいたらどうなるのか?それなりの通信手段を持っていて、反応しないことは可能か?その手段を持っていない人はどうなるのか?

これらが、問題である。マスメディアのする「お喋り」はなぜわたしたちを惹きつけるのか。

オレのしている、このお喋りがひとを惹き付けないのはなぜか。

メモ1::言語論的第144番::アベ君真珠湾で語る・オバマ君も語る・・・

言葉をつかって何かを語る(=言語使用する)ことは、実は何かを隠すことなのではないかという作業仮説を持っているわけだが、それなら、自分の欲しいものを言葉を使って注文するような場合、いったい何を隠しているのかという問題がおこる。「そうねえ、きょうはコシヒカリ五キロいただきたいわ」と言っっているとき、そのご婦人はいったい何を隠しているのかという問題である。

言語使用によって隠すのは「ホンネ」であるとまえに言った。コメ五キロ欲しいと言っているそのご婦人が隠しているホンネとは何かという問題である。

しかし、米屋は、そんなホンネに何の関心もないだろう。米屋の仕事はこのご婦人にコシヒカリ五キロを渡し、代金二千五百円を受け取ることである。この過程を起動させたのがご婦人の「そうねえ、きょうはコシヒカリ五キロいただきたいわ」と言った言語使用だった。

だが、前にも言ったように、このご婦人のこの言語使用が上の過程をひきおこすチカラを持ちえたのは、そのご婦人が米屋の客になるという立場を獲得したからである。国道を通るトラックを止めて、同じことを運転士にむかって言っても、張り倒されて、唾でもひっかけられるのが関の山だろう。「バカ女!クサレあま!びょうきオンナ!」くらいの罵倒は覚悟せねばなるまい。

ということは・・・。

そのご婦人の言葉づかいには先ず「あなたは米屋でわたしはお客だ」ということが、前提として隠されてはいないか。

いえ、別に隠さなくもいいのです。それはご婦人にとっても米屋にとっても自明だから。・・・しかし、自明でることはほとんどの場合無意識であるということでもある。

だいたい自明なことをいちいち意識していたのでは、わたしたちに備わっている意識する能力の誤使用でしかない。命がその意識をそんなふうに誤使用していたのでは命にかかわるのであるから命はそんなことをしない。だから自明なことは意識されない。その意識されないことを「隠す」と呼んでみたい。言語使用はこのことを隠している。そして使われている言葉だけが前景化される。

そうでしょう。

そういうこととして、アベ君の真珠湾でのスピーチとオバマ君のスピーチを観察してみたい。

アベ君のスピーチは「和解のちから」を強調していた。オバマ君もそれに同意を示した。日米が和解するという内容の言語使用がそこでなされた。それと先ほどの、ご婦人のする「そうねえ、きょうはコシヒカリ五キロいただきたいわ」という言語使用を統一的に扱える視点の獲得が目的である。その視点の獲得のために「隠す」や「自明=無意識」などのキーワードをもってする観察が有効に思える。

そういうことなんです。

追記::このことについて中国は例の、あのTVのお姉さんが出てきて「つまらない猿芝居を見せていないで、ちゃんと謝罪することが大事だ」とコメントした。韓国は「安倍の反省なき真珠湾メッセージ」と言った。日本被団協の人は「欺瞞である」と非難した。しかし反対に、うるうる来ている国民も多いようだ。

しかし、それらもすべて言語使用であるわけだから、当然、それを言うことで各々が何を隠しているのかに注意を向けるべきだろう。・・・何を隠しているんですかね?

先ほど比喩的にコシヒカリのご婦人の話で、彼女がその言語使用を米屋に向かってする場合と、国道を走っているトラックを止めて、その運転手にする場合の言葉のチカラの違いに注意を向けておいた。

アベ君のそれはアメリカ政府に向けられているのか、アメリカ国民に向けられているのか、日本国民になのか、中国共産党へなのか、韓国政府へなのか、北朝鮮へなのか、被団協なのか、あまり鮮明ではない。

が、それがマスメディアで報道されることは自明であると意識していただろう。マスメデイアに関わる人たちにとって、それは恰好なメシの種だ。その種をひろって、播いて、大いに世間が盛り上がればそれで食っていける。食っていくためにしなければならないことは、なによりも「売れる」ことである。マスメデイアとはそういうセクター(部門)である。

言語使用の場面において、これが依然猛威をふるっている。悲しいことにこれの活動なしにわたしたちには話題がないのだ。話題がなければ、オレがいまこうして書いている、このような言語使用もできないし、あなたがこれを読むという言語活動もない。なければ、オレとあなたの間が、つまんなくなってしまうのである。

マスメディアとは虚実入り混じった話題をわたしたちに提供して食っている社会の部門なのだ。わたしたちの悲しみとは、その話題なしにはつまらなくなってしまうような存在であることである。こうしてマスメディアとわたしたちの間に売りましょう買いましょうの関係が成立する。マスメディアは話題提供産業である。公共放送と言われるNHKもこのことをまぬがれえない。

こういうことの中でアベ君の演説は行われており、それについてはアベ君以下、あの演説を作文した人たちも承知であるだろう。このことが「隠されている」と言えば、隠されている。これはアベ君やオバマ君だけでなく、中国当局にとっても、韓国のそれにしても、被団協のひとにしても同じだ。

言語使用の観察は、それが隠しているものともどもしなければならない。語られる言葉の問題ではない。隠しているものとセットにして観察しよう。

いったい言葉とはなんなのか。その闇は深い。

(また後で、・・・。)

::言語論的::第144番:言葉の包摂関係

わたしたちが言葉として知っているものだけを言葉だと信じ込んでいるのは相当まずいと思うようになってきた。そうは言っても、わたしたちが言葉として知っているものを言葉としようという無言の了解がわたしたちの社会をつくっている基本的で無意識な規約なのだということも心得ておかないと疎外(仲間はずれ)されて生きづらくなることも知っておこう。規約に従いながら生き、しかしその規約の秘密を意識できているということがいいのだと思う。

そういって、なにを言いたいのかというと・・・。

(ちょい待ち!あとでいれまっす!おイソガシだ。)

メモ1::言語論的第143番:「言葉の起源」妄想

言語学者は言葉の起源もんだいになど関わらず、もっと具体的な問題にとりくんで学者としてのキャリアを積み、それなりの社会的立場を得て食っていくのが賢い道の歩き方だというのが各言語専門家の常識らしいということを以前どこかでおそわった。☚ ひどい日本語だね。ヒドさに呆れる。

ところがオレは農民なのでそんな常識にとらわれない。それが妄想であれなんであれ言葉の起源問題を考えることは楽しい。専門家だってきっとそうに違いないのだが、そんなヤバいことをやって学者生命をだいなしにしたのでは路頭にまよう。路頭に迷っている学者などというものは誰からも相手にされない。痴ほう老人の方が痴呆の分だけまだましである。その点農民はトマトにカボチャにダイコンをつくってギンナンでも拾いながら粉でも挽き、それを売っていれば路頭には迷わないから気が楽だ。本業のすごみだ。こう自慢するオレ。あんたよりオレの方がづっとましなのだということを言いたかったです。m(_ _”m)。

二三日前、タケダ・テツヤの何とかというラジヲ放送のYouTub版を聞いていたらこの問題をやっていた。

『ことばの起源』:ロビン・ダンバー著(進化生物学のさきがけの人)。青土社。二十年まえの出版。と、紹介された本の内容紹介だった。その紹介にテツヤの喋くりが入る。それがジャマだけど。

結論は、言語使用とは「毛づくろいの代用」であり「ゴシップの語り合い」であり「結論を出さないことが肝心」であり、毛づくろいをした者同士は「仲間になる」のであり、その言語使用を通して「集団の掟を確認する儀式」であり、そうして「なにかを隠す」のであり、「やりくりする」のだという。

注::日本の国会には衆議院と参議院があり、議場で言葉をつかったやり取りが行われる。上記結論を援用するなら、その言葉のやり取りを通してかれらは「仲間になる」はずであり、仲間になるための「掟の確認」をするはずであり、そうして何かを「隠す」し「やりくりする」はずである。しかし残念なことにそこでの言語使用は何かの「結論をだす」目的がある。しかし、結論を出す手段は言語使用ではなく「多数決」だ。多数決は言語使用ではない。しかし、多数決されたことはすぐに「そう決められた」と言語化される。

問1::そこ(国会)で「毛づくろい」の代用としての言語使用をし「仲間になる」ことで彼らにもたらされる良いこと(利得)とはなにか。そこでどんな「掟」を確認しているか。そして何を「隠し」、なにを「やりくりしている」と考えられるか。言ってみよ。

「毛づくろいの代用」というのは初めてきいた(言語起源)説だった。しかし、そう聞いて、そうかとも思った。そしてだんだん「すげえ」と思い始めてきている。

が、ダンパーとは別に、他の部分では同じような結論をオレは得ている。言葉をつかうことの第一の機能はそこに「社会を生成すること」であるというのがそれだった。ダンパーのいう「仲間になる」のと同じことだ。しかし「毛づくろい」は虚を突かれた感じ。

問2::あなたねえ、ちょっとおききしますが、ダンパーの言う「何かを隠す」の、隠すのは何なのだか言ってみてくれます?

オレ即座に言えます。「ホ・ン・ネ」です。これが言葉をつかって隠すべきものの正体です。あなたに抱かれている女子が「あ~、いや・・・」とか言いながらのけぞっているエロ場面で彼女はその言語使用によって「とてもよい」という本音を隠します。そこに「嫌だ」と言葉を使う例を思いだしましょう。そのウソを見抜いてあなたはいっそうエロくなる。言葉をつかて本音を隠すことの効果だ。こんなところにも「言葉のちから」があることをメモしておこう。

問3::上記エロ場面での言語使用としては「あ~、いや・・・」であり隠したのは「とてもよい」ことであった。では言語使用が「あ~、いいわ・・・」だった場合は何を隠していると考えられるか。

問4::そこで言葉がなにも発せられない場合についても何を隠しているかについて言及せよ。

で、あなたのこたえは?言葉をつかってわたしたちは何を隠すとおもいますか。

オレの言葉の起源妄想は以下のようである。

・・・。

メモ1::言語論的第142番:言語的世界へ関わるかかわり方

きのうは朝いちばんでうちの商品への苦情電話があった。道駅で売っている小麦の全粒粉の賞味期限が「28年2月某日」となっているが「どういうわけだ?」というのである。28年2月は、今年の2月のことであり、それはもう過ぎてしまっている。29年と書くべきところを28年と書いてしまったのだ。オレは青ざめて、全身の血が凍り、身の置き場を失う。すぐ駅に飛んで、賞味期限をしらべ、全部回収してきた。それで一日じゅう不機嫌だった。

「機嫌がいい人」がオレは好きだ。自分自身も機嫌よく毎日をすごしたい。しかし、そうもいかないこともあるでしょう。その事例の一つが上のことだったということでどうだろう。

そんなふうに落ち込んでいるオレの横に機嫌のいい人がでてきたらどうだろうか?きっと癪にさわって、「いいご機嫌ですね!」とか皮肉を言ったり、石を投げつけたり、ことによればマキざっぽうで殴りつけるかもしれない。機嫌のいい人が好きだといっても、こちらが不機嫌な場合は、その機嫌のいい人を憎むということも生じる。そういう心のありようをル・サンチマンというのではなかったろうか。またはやっかみ。

きのうはそんな一日をすごした。そういうことはめったに起こらないが、たまにはある。

「ありのまま」という言葉もあるし「自己責任」という言葉もある。日付をまちがって書いてしまった自分たちを「ありのまま」に受け入れ、それを「自己責任」として処理した一件だった。

しかし・・・。話をここで終わらせないのがオレだ。映画『アナと雪の女王(アナ雪)』の主題歌の日本語詞では「ありのままで」と歌われる。ありのままでどうするかというと、・・・。

ありのままの姿見せるのよ / ありのままの自分になるの / ・・・ / ありのままで風に乗って空へ / ありのままで飛び出してみるの / ・・・ /

ということをするらしい。

ありのまま、ありのまま、ありのまま。服でも脱ぎ捨てて、チンコ丸出しでそこいらを行けばありのままのような気がしてきてしまう。女子ならおっぱいとまんこ丸出しならあありのままなのか。

29年と書くべきところを28年と書いてしまったわれらを「ありのまま」に受け入れ、それをありのままの自分として処理した。この気分のわるい不機嫌な自分の姿をあなたに見せて、そういう自分を自分だとして受け入れた。そういう自分のまま風に乗って空へまいあがり、飛び出していけとその歌詞は言っている。げんなりする詞だ。なにがありのままだ。

「ありのまま」という日本語は英語:“Let’s it go”からの翻案らしい。”Let’s it go”はそれを文字通り訳せば「それを行くにまかせよ」となるだろう。これと似た詞にビートルズの”Let’s it be”がある。こちらは「それを在るにまかせよ」である。「在る」と「行く」の関係は、在るが内包で、行くが外延であることだ。

注::外延と内包: 外延とは具体例、内包とは抽象と覚えておけばいいだろう。オレはそうしている。

たとえば「人間」という言葉の外延と内包を言ってみよ、と言われたらあなたはどうするか?外延として日本人をあげてもいいし、わたしをあげてもいいし、女をあげてもいい。内包として動物をあげてもいいし哺乳類をあげてもいいし生物でもよい。

ことばをそういうふうに外延と内包をもつものとして使用している場合、その言葉は概念とよばれる。逆に何らかの概念は言葉を使ってしか表せない。

いく日かまえ言語論的第141番で「文字について」書いたが、そこで「物そのもの」「絵」「文字」を統一的にみる視点を提示した。そのことと概念としての言葉との絡みが重大である。

文字はそれを読めるか読めないかが勝負どころである。

では、文字が読めるとはなんなのか。

(また別の機会に・・・)

 

メモ1::言語論的第141番:文字について_いったい文字とは何なのか?

言葉の近縁なものとして音楽がある。

言葉はまず、その起源において人の口を使って出る音声のコントロールによって始まっただろう。それがどのくらい前のことなのか。ハッキリしたことは学者も言わない。つまりよくわからないのだ。数十万年くらい前とでも言っておけばいいのではないかと思うが・・・。それ以前は言葉ではなく叫びに分類されるようななにかだったにちがいない。

人類の歴史のなかでは、その言葉を文字に書くということが数万年前にはじまった。中国の亀甲文字とかエジプトのヒエログリフとかメソポヤミアの楔形文字として、少ない資料とともにいま知られている。中国は黄河のほとりでのできごとであり、エジプトはナイル河、メソプタミアはチグリスユーフラテス河のほとりでのできごとであった。しかしなぜかインダス河や縄文の文字についての報告はされていない。そこにはなにか亀甲やヒエロや楔形にあたる文字はあったのだろうか。

しかし、それらの文字をみていると、どうも言葉を文字に書いたということではないのではないかという疑いがおこってくる。どう見たって、それは(定式化した)絵なのだ。

庭に一本のギンナンの木があり、その木を指して「いちょう」と言葉で言うとき、そのギンナンの木は「いちょう」という言葉を文字にしたものなのだろうか。うそだ~、って思える。いちょうは「いちょう」という言葉が人々の間に流通するまえからあったはずだ。

そして、いちょうの木はサクラの木とはちがう定式をもっている。そのいちょうの木を指して誰かが「いちょう」と呼んだはずだ。それを聞いていた他人が、なるほど、それは「いちょう」なんだと思って自ら「いちょう」と声にして言ってみたはずだ。こうしてそのギンナンの木は「いちょう」というふうに「読まれる」ことになったのである(だろう)。

「ものそのもの」とはこのいちょうの木と同じである。実を言えば、いちょうの木は「ものそのもの」のひとつの外延だったのだ。そうなのだから、いちょうの木の内包は「ものそのもの」ということになる。

そこに登場してくるのが古代文字= (亀甲、ヒエロ、楔形) などである。それらはどう見たって絵なのである。

こうして、「ものそのもの」とは一種の文字なのではないかという考えに行きつく。

そこに一台の自動車が走っていくとき、わたしたちはそれを「じどうしゃ!」と読んでいるのである。ものとしての自動車を「じどうしゃ」と読むわけだから、文字としての自動車を「じどうしゃ」と読むことと何の変りもない。そしてそれらの文字は絵だった。

ここに物そのもの、絵、文字が統一的に同じものとして見えてくる。わたしたちはそういう世界に暮らしているのである。それは言語的な世界なのだ。

ピカソに「ゲルニカ」という絵がある。上記のようなものの見方をする人にとって、その絵は文字であり、ものそのものでもあるだろう。絵であり文字であり物そのものであるそれは、言葉として「ゲルニカ」と読まれるということだ。

絵と言えばラスコー洞窟の壁画とかアルタミラ洞窟壁画が人類最古の絵として知られている。それらは一万五千年ほど前にクロマニヨン人によって描かれた旧石器時代の絵だという。絵だとは言われるは文字だとはいわれない。しかし、絵も文字も同じだ。

文字のなかで気をつけなければいけないのが表音文字である。表音文字は絵にみえないと思う。このことについてはまた別の機会に考えてみたい。ひとつだけ今言っておきたいことは「表音」といいながら、その文字によって音をなど表せないということだけである。できるというのなら、上の・・・。

前置きが長くなった。それでは音楽を譜面に書くとは何なのだろうか。譜面も絵=文字=物そのものなのだろうか。

絵=文字=物そのものとしてのそれは、言葉としては「ふめん」と読むことができる。しかしそれを「ふめん」と読んだところで少しも音楽にはならないではないか。

(またあとで!)

メモ1::(言語論的第140番):それらしい「・・」名まえをつけていた時代があった

「紅葉」とか「名月」とか「荒城」とか「金玲」とか「涼風」とか「雫」とか「山脈」とか「流星」とか「大樹」とか「遠吠」とか「出目金」とか「秀峰」とか「月光」とか「満月」とか「清流」とか「枯葉」とか「旨酒」とか「嬢王」とか「鈴歌」とか「深海」とか「青空」とか、そんな名前のついているものって、なんだとお思いですか?

お分かりにならない・・・。

それじゃあ、そこに、「これを愛好者のために入念に制作いたしました」などという詞書が添えられていたらどうでしょう?

それでもお分かりにならない・・・。

それはギタです。ギタにそんな名前をつけて売った時代があったようです。1950年代から'70年代の前半くらいまででしょうか。

'60年代がその盛りだったみたいです。さすがヤマハなどの楽器製造会社ではそういう名をつけたギタはなくて、NO120 とか G80S とかです。が、個人の制作家だの小さな工房などでつくるものはそういう名を冠した製品がほとんどだった。制作家だの工房だのといったって、建具屋とか指物師が、ギタをつくると儲かりそうだというので、そのころ猫も杓子もギタをついくった時期があったらしい。

そういうものの一つ『大風』とうのをきのうヤフオクで競り落としました。つくった人は「三早光(みつはや・ひかる、か?)」という人のようですが、ネットで検索をかけても引っかかりません。きっとその辺の建具屋か指物師だったにちがいありません。

そのギタの売りは「希少・総単板・完全手工・ビンテージ」でした。これもきっと'60年代ものだと想像しています。六十年代といえばいまから四、五十年まえのことです。あなたはいま御いくつですか?なんだ、あなたもかなりビンテージがかっているのですね・・・。

ヤフオクでは、これは1,000円発で、最終落札価格は21,000円にまでなってしまいました。このあいだのラッファエーレ・カラーチェが1,000円発で、36,000だったのとくらべれば、総単板ものが少し安く手にはいったということになります。

総単板で、同じような年代物で、同時進行していたのでは、鈴木バイオリンの作ったギタNo701が15,500円、ヤマハのNo120が18,000での落札でした。そちらとくらべるとちょっと高い。

おなじ総単板もののギタで、制作年代もほぼ同じころのものに、そういう値段の差がつくのは何故でしょうか?

オレは、それは、その楽器について語られる言葉によってなのだとおもっています。オークションなんて、だれも実際の楽器を試奏して値をつけているわけではありません。オレなんか試奏したって違いがわかりませんし・・・。

出品者がその楽器について語る言葉によって値の高い低いが生じるのだとおもいます。それでまちがいはないでしょう。「鈴木バイオリン製/総単板/No701」「三早光作/総単板完全手工/『大風』」「日本楽器製造ヤマハ製/総単板/No120」とあれば、それ、全部言葉なんです。

「三早光作/総単板完全手工/『大風』」の言葉が21,000円をつけさせたのだ思います。それは「イタリアRaffaere Callace社製/総単板/1960年代ビンテージ」の言葉にはかなわなかった。しかし、「鈴木バイオリン製/総単板/No701」や「日本楽器製造ヤマハ製/総単板/No120」よりも高値をよんだ。

まことに言葉とはおそろしいものです。

こう書いてくると、あなたは、「言葉より、物そのものに寄り添って・・・」なんて思いはじめるでしょう。バカだあな~・・・。「物そのもの」って実は「言葉のようなもの」なんだってことをあなたは知らないんだ・・・。はは。

一事が万事だとすれば、わたしたちも言葉を上手につかって、自分の人生を高価なものに、つまり価値あるものにしたほうがいいようにおもわれます。そういうことができるのが言語使用です。

いかがでしょうか。

・・・金をうんと取って、ため込んだ方が手っ取り早い、ですか?

ごもっとも!

追記::言語(ことば)と金(かね)と、いまひとつ見場(みば)というのがあります。見場とは美人だとか、イケメンだとか、若々しいだとか、賢そうだとか、禿げているだとか、バカっぽいだとか、うまそうだとか、・・・だとかということです。

言葉を上手に使う人は価値があがりますし、金をいっぱい持っている人も価値がありますし、見場のいい人も価値が高いです。なんだかそこに三竦み構造が暗示されている気がします。

そして、わたしの価値というのは、低いよりも高いほうがいいものなのです。しかし、残念なことに、その、わたしの価値の高い低いは自分できめられません。他者の評価によるしかありません。他者のわたしに向ける視線とわたしについて語られている声からしかそれは感じられない。その他者の評価をよりよく得るために言語使用をしたり、金銭使用をしたり、見場をよくしたりします。この三者にはそういう面があります。おなじ範疇にあるものです。

それと、「言語論的」な立場としては、「言葉」と「言葉のようなもの」と申しあげていますように、金も見場も物そのものも「言葉のようなもの」として言語論的に考えていきたいのです。言葉がその歴史や文法や語彙論や音韻論や社会階層論や統語論や意味論などとして考察されるように、「言葉のようなもの」も、それを考える「言語論的ないい方法」がないだろうかと、ぼ~としながら眺めているところです。

 

メモ3::言語論的第139番(言語論139):統一体の現象にとって「話題」がはたす役割 

問1::互いに顔みしりの二人がすれ違うとき、「おはようございます」と会釈して挨拶を交わした。この挨拶を二人の間での「話題」と言ってよいか。「話題」としてよいとする場合、そこでは何を話題にしたと考えられるか。

問2::わたしたちは東京の築地市場の豊洲移転スキャンダルを「話題」にしている。この言語使用と上記「挨拶」の言語使用を「話題」の観点から比較せよ。

問3::挨拶を交わしている二人は、その瞬間、一つの「統一体」を作っているといえるか。豊洲のスキャンダルを話題にしてる瞬間ではどうか。

問4::上記で「瞬間」と言ったが、瞬間とはどんな時間か。

問5::瞬間が過ぎてしまったのち、統一体はどうなるか。

問6::この統一体のことを「人間社会」と言ってよいか。

問1::から問6::までに対し、肯定的な答えを得られるのなら、言葉とは人が(人間)社会を形成するために不断に使用しているものと言っていい。クモが空中に巣を張るのは、そこに獲物を捕らえて食うためであるように、人が言葉をつかうのは、そこに社会を形成して、その社会を通じて利得するためだと言える。利得内容は「交換」である。社会とは交換の場なのだ。

言葉は「コミニケーションの道具」といわれるが、では何故人はコミニケーションするのか。これに対し、「社会をつくって利得するためだ」という答えをしてみた。

ご検討ください。