- 予定::【収穫(レンソ)✗。荷造り(トマト・カボチャ)〇。出荷(トマト・カボチャ)〇。作業(管理機「麦踏み用に組み替え」〇)。その他(ツキタ大工「下地調整」〇・QnS「パン教室行き」・「料理・洗濯」〇/ 猿きち「掃除」〇・「オオクボ歯科行き」〇・「雪の夜に、1~70通し練習☚続き!」▽)。】☚7゜12´晴れ。
::(〇「やった!」 ▽「途中だ!」 ✗「出来なかた!」)
・・・。
うう。
日本語の母音は「あ・い・う・え・お」だが、「うう」といえば何か? 呻きでしょう。一日を呻きながらはじめるオレだ。
それはそれとして、日、月、年ってありますよね。このうち日と年は地球の自転と公転の繰り返しから起きる物理現象の経験としてわたしたちはそれを知っている。が、月は、なにかもっと違う経験のように思える。雪が降るとか桜が咲くとか入道雲がでるとか赤とんぼが飛ぶとか、そういうことが何月に起こるか、というようなこととして経験している感じがする。
「地軸の太陽に対する傾き」が「月」に固有な物理現象にあたるが、その経験ではないような気がするのだ。地軸の傾きが12通り(一年は12ヵ月だから)あり、その夫々が幅を持っている。そこが月と「日と年」とでは違う。どうですかね・・・。
一世紀とかミレニアムなんてことになるとそれ固有の物理現象に基づいているのではなく人間の制度的なもの(=つまり虚構)だと思います。
人間の経験についてちょっとそんなことを思いました。
ヤカンの練習1