- 予定::【収穫(レンソ)✗。荷造り(トマト・カボチ)〇。出荷(トマト・カボチ)〇。作業(なし)。その他(ツキタ大工「等2来」・QnS「買い物・料理・洗濯」〇/ 猿きち「掃除」〇・「オオクボ歯科行き」〇・「雪の夜に・1~70通し練習☚続き!」▽)。】☚7゜26´降り出しそうな曇り。
::(〇「やった!」 ▽「途中だ!」 ✗「出来なかた!」)
・・・。
岩の練習1
家畜ねえ。家畜はその生殺与奪の権を飼い主に握られている。ペットなどの場合は殺されるということはないだろう。なにしろ愛玩目的で飼うのがペットだからだ。殺すことは愛玩に反する。と言っても愛玩の究極として「殺す」があるかも知れないが、少なくてもその場合も経済目的(=金を得るためとか、皮を利用するためとか・・・)に殺すのではないだろう。家畜とペットをまず区別しよう。
問題は国家運営者と国民の関係なのだ。それを飼い主と家畜の関係になぞらえて考えてみたい。
「人間は自分を家畜化して生きる動物なのだ」とは中学生くらいのときに初めて聞いた話だった。聞いてびっくりした。自分はウチで飼っているヤギと同じなのかと思って納得が行かなかった。「おれは、ヤギじゃあねえ!」と思った。しかし「人間は自分を家畜化して生きる動物なのだ」とはどういうことなのだろうか。これを明らかにしたい。
まず国家と国民を敷衍しよう。
- 自分::自分で自分を家畜として飼う場合。自分=家畜?。自分=飼い主?。
- 家族::家族員=家畜? 家族長=飼い主?
- 幼稚園::生徒=家畜。幼稚園運営者=飼い主。この幼稚園を小学校・中学校・高校・大学に入れ替えても同じだ。
- 会社員::会社員=家畜。会社経営者=飼い主。
- 地域社会::住民=家畜?。区長=飼い主?
- 患者と医者::患者=家畜?。医者=飼い主?
- 施主と大工::大工=家畜? 施主=飼い主?
- 奨励会::奨励会員=家畜? 会長=飼い主?
- 市町村::住民=家畜。市町村運営者=飼い主。
- 都道府県::住民=家畜。都道府県運営者=飼い主。
- 国家::国民=家畜。国家運営者(=国家公務員+衆参両院議員)=飼い主。
- 国際::誰が家畜? 常任理事国=飼い主?
こんなふうに広げてみた。青色は「家畜・飼い主関係」に疑問があるもの、茶色は「そう考えていい」のではないかと思うもの、である。どうだろうか。
家畜とは経済目的で飼う動物のことである。ニワトリを飼ってその卵や鶏肉を売ったり、ことによっては自分で食ったりするのは経済目的である。猟犬などはペットではない。トリフを探させたり、イノシシを追い詰めたりするための使うからである。トリフが手に入ったり猪の肉を手に入れる事が飼う目的だ。それは経済目的である。ペットと家畜が入り混じって何がなんだか訳が分からなくなっている飼い主もいることだろう。あり得ることだ。
ペットや家畜には「自分はペットかもしれない」とか「自分は家畜だ」とかの認識は生じないだろう。ペットも家畜も、いま・ここ「だけ」を生きているはずだ。なぜならそのように問う言葉を持たないからだ。いま・ここ「だけ」を生きるものにとって全く無用なものが言葉である。だから「自分はペットかもしれない」とか「自分は家畜だ」などという認識は生じない。だって「自分はペットかもしれない」も「自分は家畜だ」も共に言葉でしょう!
人だけが「人間は自分を家畜化して生きる動物なのだ」という認識に至れる。それは、いま・ここ「だけ」を人は生きているのではなく、過去と未来を持ち、「ここ」ではない「どこか」を持つからである。だから「いま・ここ」ではないが、「どこか」に天国があると信じ、いずれそこに行け(=未来)、何度も生まれ変わる(=過去)のだと信ずることができる。
「いま・ここ」だけではなく「過去・未来・どこか」を人が持つようになったのは言語の獲得と密接に結びついているはずだ。
あ!::「世界地図が生ずる」って問題に気が付いた!