日別アーカイブ: 2023-06-26

予定::【収穫「コムギ」 荷造り「なし」 出荷「なし」 その他「苗管理・23トマ畑(誘引、芽掻き、下葉掻き)」 QnS「料理・洗濯」・ 猿きち「掃除・笛:お洗濯ワルツ(❶第三分、❷通し)練習」】☚☚6゜22´晴れ。風(北5m/s                                                     

(やった!)▽(途中だ!)(出来なかった!)   

:::きょうのひは いくにちだろう とうたがい (ゆびおりかぞえ にじゅうろくとす)::今日の日は幾日だろうと疑い指折り数え二十六とす

::What is today’s date
You suspected
You realize it’s twenty-six on your fingers

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物事の「当事者」になるかどうかという事だと思う。

『富国強兵』などを国が掲げて(=つまり、権力的に)それに沿って国家運営などをすれば、人口減少局面では「貧国弱兵」国になってしまうだろう。2023−1868=155年間、日本はそんな運営にまい進してきたということでどうだろうか。1960~1980年代ではそれが大成功していた。おれはその時が青春だった。

権力的に富国強兵国家を作る場合、その反対給付として「福祉国家」を目指さなければならない。健康保険制度や義務教育制度や生活保護や介護保険などがそうである。それが敵基地攻撃能力(?)や暴対法などと引き換えにされている。ここにきてインボイス制度やマイナンバーカードなどを通じて福祉のほうも上手く行かなくなってきた。小中学校の不登校者が20万人を超えたなどとも聞く。

そうした国民国家が世界に200か国ほどある。それはかつてナポレオンが作ったフランスがやたら戦争に強かったので、そういう纏まり(=国民国家)がコピーされた結果だと思っている。そのことを国民は喜ぶのだということを権力者が知ったからだ。

そして「当事者」だ。わたしたちは富国強兵国家や福祉国家の運営当事者になれていない。それは権力がわたしたちを運営「当事者」であることから遠ざけたいからだと思う。選挙の投票率が40%前後だなどがそうだ。民主主義を掲げ名目上「当事者」の立場は与えられているが実質的には自公が多数決で決めキシダ内閣が決定してしまう。名目上「当事者」だが実質は「当事者」ではなく「そういうもの」として躾けられている。

こうしてわたしたちはいつも躾けらる。生きる事はこの躾けに従うことでさえある。その場合しつける動機を持った者はだれだろうか。「権力は躾ける」と言いたいくらいだ。このことを『由らしむべし、知らしめべからず(論語)』などと昔から言っていた。

「そういうもの」として権力は国民を躾けにくる。「そういうもの」が自然現象のように思える。息をして飯を食いウンコやシッコをしなければ死んでしまうのと同じような自然現象と思ってしまう。

しかし人間社会は虚構によって作られているので、虚構を使えばかなりの「自由」がある。単に虚構を変えればいいだけだ。いまそのときだと思う。

次に来る国家(もし「.国家」という社会がこれからも運営されて行くとすればだが)はすべての人が「当事者」になる社会を目指したらいいのではないかと思う。そのためには先ず「多数決」という決定の仕方をやめるべきだ。多数決の代わりに、もっと上位の目標を設定して、その目標実現のために参加者すべてが「当事者」にがなるような社会だ。

たとえば『戦争は嫌だ。平和に暮らしたい』などと思う人と『他所で戦争をやっているのが好きで、だって儲るんだから』と思う武器製造業者がいるとしよう。戦争嫌いの人も武器製造者にも共通する上位の『幸福になりたい』は共通だろう。

それだったらそれを目標にしたらいい。そして戦争嫌いの人も武器製造者も『幸福になりたい』という共通の目標実現のために「当事者」になれるような社会運営だ。戦争嫌いの人も武器製造者も幸福になるためにお互いに話し合う社会である。権力に取り入れば得する社会ではなく、当事者になって話し合う社会だ。

ホント、おれたちは当事者になることから遠ざけられて「そういうものだ」の世界に住み続けてきたように思う。そう言えば古典ギリシャから多数決は行われていて、それでソクラテスは死刑になったと教わった。ソクラテスを殺さないせない虚構が作れないまま今までやってきてしまった。

そんなことを工藤勇一の話を聞いて思いました。

 

笛:お洗濯ワルツ(❶第三分、❷通し)練習::れ!::できなかった。

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