予定::【★収穫「ライ麦」〇 ★荷造り「なし」 ★出荷「なし」 ★その他「▽苗管理・▽23トマ畑(誘引、芽掻き、下葉掻き、受粉」〇 ★QnS「ピラテス(自宅)・料理・洗濯」〇・ 猿きち「掃除〇・笛:お洗濯ワルツ(❶第三部分、❷通し)練習✗」】☚☚7゜37´曇り。風(なし)
〇(やった!)▽(途中だ!)✗(出来なかった!)
::いたくせず そうからだをつ かいたいと (きをつけている ろうじんがいる)::痛くせずそう体を使いたいと気を付けている老人がいる
::He is so careful
That he wants to use his body painless
There is an old man
・・・
このところの関心は「数学の証明」で『正の整数は素因数分解できる』という定理の証明をさっきまで読んでいた。数学的帰納法を使ったその証明が何か納得できない。
ド・モアブルの定理とか、sin(A+B)=sinAcosB+cosAsinB(=正弦定理)の証明などを読んだがこれも何か納得が行かない。ほんとうに円の「直径と円周の比」は3.14倍なのだろうか。
詩が言葉を使わずに作れないことは明らかだが数学でも言葉が使われている。が、そこで使われる言葉は例外なく「概念」だ。「1」というものを出せと言われても1と書いた紙を出すとか、せいぜい「リンゴを一個」出してみるのが精いっぱいだろう。大福餅や洗濯機なら出せる。それの集まったもの(集合)も出せる。が。数学で言う集合とは決定的に違う。
数学で使われる言葉は概念だ。概念とは「そういうものの集合」であり、そういうものの集合は頭の中でしか作れない。具体的な物ではない。感覚的事実(リンゴ、大福餅、洗濯機、・・・など。これらの「集合」も作れる。洗濯機をたくさん集めることができ、これを「集合」と言うならである)と概念(1,円、円周、整数、因数、集合、・・・など)を区別したい。
概念は感覚的事実とは違っている。しかし、脳内で作られた「感覚的事実」であることも確かだ。こんなものを使って人間社会は作られているのだ。
笛:お洗濯ワルツ(❶第三部分、❷通し)練習::れ!::できなかったです。